詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「魂の森へ」

2015-11-28 10:13:34 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「魂の森へ」(「午前」8、2015年10月15日発行)

 詩と散文はどこが違うか。谷川俊太郎の『詩に就いて』について書いたとき、書き漏らしたことがある。いや、あ、あのときこう書けばよかったのかな、と思うことがある。そのことについて書く。
 谷川は「未生」ということばをしばしばつかう。そのことばを借りて言えば「未生のことば」を「ことば」にするのが詩であり、「未生の論理」を「論理」にするのが散文である。「ことばにする」「論理にする」は「ことばになる」「論理になる」と言い換えることもできると思う。
 いままで知らなかったことばが目の前にあらわれるとき、それが詩。
 いままで知らなかった論理が目の前にあらわれるとき、それが散文。
 しかし、「いままで知らなかったことばが目の前にあらわれるとき、それが詩」といっても、その「ことば」はすでに存在していることばだから、「知らなかった」というのは、別なことばで言い直さないといけないかもしれない。
 「いままで知らなかった論理が目の前にあらわれるとき、それが散文」というのも「知らなかった」は、それに出合うまでひとが「知らない」だけで、すでに存在していただろうから、これも言い直す必要がある。
 詩のことばは、「いままで知らなかったことばがあらわれる」というよりも、「いままで知っていた論理を否定してことばが動く」ということかもしれない。「論理」を失って、どこにも属さないことばとなって、ぱっとあらわれ、出合った瞬間に「びっくり」してしまうことば、「不安」を感じさせることばかもしれない。そこには「運動」がなく、ただ「存在」がある。「ことば」が「存在」として、それを支えてくれる「運動」を待っているような「ことば」。「運動」、ことばをどうつないで受け止めるかは、読んだひとの「肉体」に任されている。--それが詩。
 散文のことばは、「ほんとうはすでに存在しているのだが、ふつうのことばの運動では見過ごされていた運動(「もの/こと」と「もの/こと」との関係を動かす力)をあきらかにしたことば」ということかもしれない。ことばがどんうなふうにして「動く」ことができるかを、いままで隠れていた動きにエネルギーを与え、動かすもののように思える。
 こんな抽象的なことを書いていてもしようがないので……。
 「魂の森へ」を読んで感じたことを書く。

どんどん遠ざかるあの人は誰?
打ち棄てられた農地をひとり
どんな目当てがあるのか
決心したように歩いてゆく

怒っているのが泣いているのか
遠ざかるあの人は誰
知らない人 縁のない人
もうすぐ声が届かなくなる

 この一、二連目は「詩」か。私の感覚では「詩」ではない。「未生のことば」という印象がない。誰かが農地を遠ざかっていくという「描写」なのだが、そこでは「遠ざかる」という「運動/動詞」にすべてのことばが緊密につながり、そこには「論理」がある。「遠ざかる」ので「誰」かますますわからなくなる。近づいてくるなら「顔」がわかり、「誰それである」と言えるかもしれないが、そうではない。そして「遠ざかる」から「ひと」であることがさらにはっきりする。「遠ざかる」から「怒っているのか泣いているのか」もわからなくなる。「遠ざかる」につれて、だんだん「関係」が「わからなくなる」。つまり、「知らない人/縁のない人」に見えてくるし、「声も届かなくなる」。
 ここには「明確」な「論理」がある。「遠ざかる」という運動に合致した「論理」がある。それは私たちがなじみの「論理」である。新しい「論理」ではないから、「散文的」ではあるけれど、このことばの運動は「散文」と定義するほどのものでもない。新しい「論理」も生み出されていない。ごくふつうの「散文的」なことばであるとしか言えない。
 しかし、次の連(四行)はどうか。

空も海も丘も野原も
とうに宇宙に投げ出されている
時たまの虹の偽善に惑い
オーロラの色気に酔い痴れたが

 特に、「空も海も丘も野原も/とうに宇宙に投げ出されている」、この二行に私は驚いてしまう。「投げ出されている」という「動詞」のつかい方に驚いてしまう。
 「投げ出されている」は、たとえば「本とノート、鉛筆が広いテーブルの上に投げ出されている」という具合につかう。「場所」があって「もの」が散らばっている。それが「投げ出されている」だろう。
 そういう「動詞」のつかい方(動詞とものとの論理のありかた)にしたがえば、「宇宙に投げ出されている」ものは、「星(地球)」や「人工衛星」くらいのものであろう。「宇宙」と「空」はほとんど同義とも言える。「宇宙」に「空が投げ出されている」というのは、「非論理的」である。「論理」を無視した言い方、「論理」をたたき壊す言い方である。
 「海」「丘」「野原」は「地球」の一部の名称であり、それがそれぞれ別個に「宇宙」に「投げ出されている」というのも、とても変である。「地球」が「宇宙に投げ出されている」という言い方ならありうるが、その「地球」の一部(その部分)がばらばらに「投げ出される」ということは、「非論理的」である。
 で、それが「非論理的」であるからこそ、そのことばの動きが詩なのである。
 空、海、丘、野原が「宇宙に投げ出されている」ということはあり得ない。「空」「海」「丘」「野原」も「宇宙」も「投げ出されている」もすでに存在していることばだが、谷川がそう書いた瞬間に、そのことばが持っているはずの「論理(なじみのあるつながり)」が叩ききられて、「ことば」だけになっている。
 日常的な「論理」から解き放たれて「ことば」として、そこで、こんなふうに存在することができる、とそれぞれの「ことば」が主張している。この無責任な(?)、ナンセンスな感じが詩なのだ。
 それにつづく「虹の偽善」「オーロラの色気」云々の二行は、「空も……」の二行のバリエーションのようなもの。この二行の前には「あの人も宇宙に投げ出されてている」、あるいは「人間も宇宙に投げ出されている」が省略されている。「惑う」「酔い痴れる」という「動詞」の「主語」は「あの人」「人間」である。また「あの人」を見ている「私(谷川)、「あの人」を書いている「私(谷川)」と考えることもできる。そして、それが誰であれ「人間」が「主語」であるから、そのことばは「人間の心象/体験」を描いているということができる。「人間の心象/体験」だからこそ、その「主語」は「あの人/人間/谷川」となって重なってしまう。そこに「読者」も飲み込まれていく。
 この二行は私は好きではないし、そこに書かれている「動詞」のあり方も「投げ出されている」ほどの単純な強さを感じないので、あとは省略。

 突然のナンセンス(無意味)としての「ことば」を書いたあと、作品は次のように閉じられる。

誰なんだ 遠ざかるあの人は
私たちに目もくれずひとり
言葉にも音楽にも見放されて
魂の暗い森へ向かっている

 「魂」というものを私は見たことがないし、触ったこともないので、それが存在するとは考えたことがないので、私の読み方は谷川の書こうとしていることからずれてしまうしかないのだが、「魂」をわきに置いておいて、考えたことの続きを書く。
 この最終連で「遠ざかる」という「動詞」が復活している。
 「見放されて」というのは「遠ざかる」を言い直したものである。「言葉」「音楽」が「あの人」を見放したがどうかは判断のしようがないが、「遠ざかる」ということは「関係がなくなる」ということだから、「見放される」ということ類似している。「遠ざかる」と「見放す」は「動詞」の「主体」、つまり「主語」が違うが、その「動詞」によって生まれる「関係」は類似している。ひとつの関係(疎遠になるという関係)を別の角度から、違う動詞で言い直したものである。
 で、そのとき、そこに「暗い」という形容詞が出てくる。この「暗い」は形容詞であるが、概念の比喩のように感じられる。どんな「関係」も届かない「暗い」部分。「関係」があるというのは、関係の両端(?)の存在がそれぞれ「見える」こと、つまり「明るい」ところにそれぞれがいることを語る。「暗い」と「見えない」。
 その「暗い」は、実は「遠ざかる/見放す」が導き出した「結論」のようなものである。そして、それはどちらかというと、いままでも語られてきた「結論」である。特に新しい「論理」ではない。
 つまり、そこに書かれていることは「論理的」な帰結ではあるけれど、「散文」ではない。いくらか見なれた「抒情」である。で、その印象が、この作品を「抒情詩」のように感じさせる。

 と、ここまで書いて、私は三連目に戻る。
 あの「空も海も丘も野原も/とうに宇宙に投げ出されている」という二行こそが、この詩のハイライト。そして、それがハイライトであるのは、ことばが「論理」から開放されて、ただことばとしてそこにあるからだ、ともう一度繰り返して、きょうの日記を終わる。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

*

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