詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中郁子『田中郁子詩集』(現代詩文庫219 )

2015-11-17 10:24:04 | 詩集
田中郁子『田中郁子詩集』(現代詩文庫219 )(思潮社、2015年10月31日発行)

 田中郁子の詩を知ったのは最近のことである。私は不勉強なので田中がいつから詩を書いているか、過去にどんな詩を書いてきたか知らない。「現代詩文庫」に収録されている作品のほとんどは初めて読む作品である。
 「降りる」は子供たちにつぶされた母蟹のからだのそばから子蟹が逃げる描写からはじまっている。

甲羅を つぶされた蟹は
子供たちの 揶揄の真ん中に
たわいなく 壊された形の 無惨さ
の 脇腹から 子蟹が逃げまどう
親蟹であることの 無惨さ
と いうものから
全身を 土の上に置いたまま
きれい さっぱりと
降りてしまうのだ
葬りのいらないまでに 陽に灼かれて

 子供たちを非難していない。そのことに、まず、田中の「強さ」を感じる。「親(母)」であることが子どものすべてを受けいれるのだろうか。子供は野蛮で残酷である。そこを通りぬけて子供は大人というよりも「人間」に生まれ変わるということを知っている。同時に、母親は子どもの犠牲になるのことを「犠牲になる」とは思っていない、ということも知っている。「母親」の蟹に共感してしまう。自分は死ぬ。しかし、そのいのちは子どもの肉体のなかで生きていくということを知っていて、「きれい さっぱり」自分のいのちに見切りをつける。「未練」がない。
 これは、ある意味では「非情」である。
 「人間の感情」など配慮しない。人間が、子どもに踏みつけられる蟹、その蟹のそばから逃げていく子蟹を見て何と思うか、そんなことを親蟹は気にしていない。私は母親のいのちは子どもの肉体のなかで生きていく、と書いたが、そんなことも親蟹は思っていないだろう。私がどう思うかなど、蟹は考えないはずだ。その考えないこと、人間を拒絶するところが「非情」であり、それが「きれい さっぱり」としていて美しい。
 この「非情」を見たあと、詩は二連目で別な「生きもの」を描いている。

その人の 全身の形というものがあって
それは皮膚でおおわれているのだが
その下に 熱というものがあって
その人の 熱というものが
その人を 降りた
残りの形 というものが
喧騒な 夜のリズムに打たれ
カウンターの上に うつぶせになり
つぶされた蟹の形をしている

 酒場のカウンターで飲みつぶれている人を見て、以前に見た蟹の姿を思い出しているのか。その酒につぶされた人の形が、子どもに踏みつぶされた蟹の形に似ているのか。そうだとして、では、その人の「肉体」から何が「降りた」のだろう。
 母蟹のように、「いきる」ことから「降りた」のか。
 母蟹は死ぬ。けれど、その人は死ぬわけではないから「いきる」ことから「降りた」わけではないだろうが……。
 「降りた」ものを田中は「熱」と書いているのだが、その「熱」とは何か。これも、言い直すのはむずかしい。
 それよりも。
 そこに書かれていることよりも、私は二連目の「その人の」という書き出しから「その人を 降りた」までの、ことばのリズム、動かし方に、激しく揺さぶられた。
 「その人の」「それは」「その下に」「その人の」「その人を」。「その(それ)」という指示詞が行頭にある。常に何かを指示しつづけている。意識しつづけている。離れない。前に書いたことをひきずりながら、いや、それを手放さないようにしながら、ことばが動いていく。手放さないから、何か、ことば(論理)が歪んでいくというか、ねじれていく感じがする。そして、そのことばがたどりついた「結論」ではなく、ねじれながら進んだということが、不思議な印象として残る。
 「結論」が正しいかどうか、わからない。けれど、ことばはそうやって動くのだ、動きながらひとつの形を保つのだということが印象に残る。
 それは一連目にもどって言うと、親蟹が死んでしまうということが「正しい」かどうかわからない、ということ。「正しい」かどうかわからないが、親蟹がしたこと、子どもを逃がし、子どもが逃げるあいだに自分が死ぬということが、答えを拒絶するような形で「生きている」と感じてしまうのに似ている。
 人間(私や田中)が、母蟹の死についてどんな「正しい答え」を出すか、そんなことを蟹は気にしない。配慮しない。「正しい答え」というものを拒絶している。その人間の感情(正しい答えを求める思い)を拒絶するところに、蟹の「非情さ」、絶対的な美しさがある。
 それに通い合う「かなしさ」を田中はカウンターでつぶれている人に見たのかもしれない。「かなしさ」を「熱」と呼んでいるのかもしれない。
 何か、はっきりとはわからないが、そのはっきりとはわからないものが、このことばのなかにある--そういう印象が残る詩である。

 詩集の二篇目は「視界」。雨のなかを車で走る詩である。

ごうごうと鳴る風が 身をよじり
山肌を降りる
ざわめく樹々の先端から
一枚の葉が
濡れた路上に吸い込まれていく
逃亡者が 嵐の中をつっ走る
車の中に わたしは乗りあわせたのか
わたしの中で
逃げよう とするものがある
逃げても逃げても 逃げることのできない
血の濃さをもった声が
らちもない ひとことではあるが
ヘッドライトのとどくあたりに
けだものの屍体の形をして 浮いてくる

 「わたしの中で」という一行に、私ははっとした。
 あ、田中は「わたしの中」を書いているのだ。「降りる」の二連目に「皮膚でおおわれている」ということばがあるが、それは、皮膚でおおわれている「わたしの中で」という意味なのだ。二連目は「その人」について書いているわけだから、「わたしの中で」ではなく「その人の中で」というのが「文法的」には正しいのだろうけれど、詩は文法ではないからね。私は、どうしても「わたし(田中)の中で」と読んでしまう。そして、そう読むとき「その人」と田中が「一体」になっていると感じる。
 これは子どもにつぶされ、はやされて死んでいく母蟹の姿に通じるものを、田中が「わたし(田中)の中に」感じているのと同じである。

 田中はいつも「わたしの中」を書いているのだ。何を書いても、それは「わたしの中」の出来事なのだ。「わたしの中」を流れている「血の濃さをもった声」を書いているのだ。「わたしの中」の「血」であるから、それは「わたし」だけのものではない。「わたし」につながる「いのち」の「血」である。そして、それは単に「肉親/親族」の「血」ではなく、生きている植物、動物の「血」も含んでいる。そういうものを含みながら「自然」そのものになっていく。
 「世界」ではなく「自然」。
 「自然」は人間に対して「非情」である。「非情」であるけれど、「非情」ゆえに「美しい」。それを感じさせることばは、初期の作品『桑の実の記憶』からはじまっているのだと思った。

田中郁子詩集 (現代詩文庫)
田中郁子
思潮社
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