紺野とも『擾乱アワー』(マイナビ現代詩歌セレクション18)(マイナビ出版、2015年11月01日発行)
紺野とも『擾乱アワー』には現代的な素材がたくさん書かれている。それをていねいに追いかけていくとまた別な感想になるのだと思うけれど、私は古い人間なので、古いことばで書かれた詩に反応してしまう。
「めがはえる」という、少し変わったタイトルの作品。
「メ」「目」とふたつの「め」が書かれているが、「メ」は「芽」かな?
ことばが「音」のなかで交錯し、重なるようだ。「ポテトグラタン」から連想すると、じゃがいもの「芽」。じゃがいもは「冷暗所」に保存するもの。メ、芽、目とじゃがいも、恋人が交錯する。
二連目の「呼んだら。」の句点「。」が効果的だなあ。「メ(目)」がそのまま連続するのではなく、ことばにならない断絶(切断)を含んで「目」にかわる。「目」に接続してしまう。その「切断/接続」を紺野の「肉体」が支えている、という感じがする。紺野がそこにいて「メ(芽)」から「目」への変化がある。紺野がいなければ、そういう変化はない。その「呼吸」のようなものが句点「。」のなかにある。「目ができている」のを発見したのは、あくまで紺野であって、恋人は自分の変化に気がついていない。そういう感じがする。
で、じゃがいもが「芽」を出すように、恋人は「目」を増やす。ひとつ(ふたつ?)の目で見るというより、複数の目で見る。いや、違った。複数のものを見る。そして、見たものの数だけ「目」が増えていく。目が、芽のように、恋人の「肉体」から芽生えてくる。目(芽)の数だけ、そして世界の事実が増えてくる。
これは、いいなあ。
「はえる」(生える)ということばはタイトルに出てくるだけで、本文のなかには出てこないのだが、「肉体」の「連続感」が「出る」「増える」よりもなまなましい。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」ことで、恋人が「増えていく」感じがする。恋人が増えるといっても、恋人はひとりなのだが……。あ、このひとは、こういう人だったのだと、暮らしているうちに少しずつわかっていく感じが、「生える/生まれる」という「動詞」として動いている。
「呼んだら。」と「目ができていました。」を結びつけた紺野の「肉体」が、こんどは恋人の肉体を引き受けて、恋人の「肉体」の感覚を代弁している。それが「生える/生まれる」なんだろうなあ。
ここでこんなことを書くと、性差別主義者のようだけれど、これはやっぱり紺野が女だから「生える/生まれる」という「動詞」になるんだろうなあ。男は恋人の「肉体」の変化を自分の「肉体」にできることと結びつけるとき「生える/生まれる/産む」というような動詞を思いつかないだろうなあ、とも思う。
そういう特殊な事情(?)があって、「生える」という動詞をタイトル以外ではつかっていないのかもしれない。ほかのことばをつかっているのかもしれない。
また「生える/生まれる」という動詞をつかうのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「複数」という感じを強調するためかな? 「生まれる」と、そこに「肉体」が増える。世界の事実が、肉体の延長(連続したもの)として増える感じ。その「実感」。
「目」と「メ(芽)」が、ここでも混同される。わざと混同することで、ことばの運動を軽くする。「比喩」なのだから、ほんとうのことではない。論理的ではない。てきとうに、何かが「わかる」だけでいい。
「いくつもの目」が気になるのは、その目の数だけ「見えるもの」があるからだ。紺野も「複数の目」で見つめられ、その目のなかで紺野が複数化する。「芽」に「毒」があるように、複数の目のなかには「毒をもった目」(紺野に厳しい目)もあるかもしれない。あんまり厳しいとつらいね。だから、そういうものを「毒」として取り除く。「そういう見方はやめてよ。わたしはそういう人間じゃないんだから」云々。「話し合って取り除く」には恋人との、そういうやりとりが暗示されている。
自分に都合のいい目(?)だけを残しておく。愉快だね。そういうことができるなら。
さらに。
そりゃあ、おいしいよ。自分に都合の悪い部分は全部なかったことにしてしまうんだからね。
でも、そんなにうまい具合にいくのかな?
恋人だって、どんどん変わっていくからねえ。えぐりとってもえぐりとっても「目(芽)」は生えてくる。
深刻にならずに、軽く、ことばが突っ走るところがいいなあ。
その「地球の外へ飛び出した」ような軽さが、紺野のことばの魅力だ。
*
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
紺野とも『擾乱アワー』には現代的な素材がたくさん書かれている。それをていねいに追いかけていくとまた別な感想になるのだと思うけれど、私は古い人間なので、古いことばで書かれた詩に反応してしまう。
「めがはえる」という、少し変わったタイトルの作品。
日なたにほうっておいたらメが出てしまいました。
冷暗所に置いておかなくてはならなかったのです。
たまの休日に恋人はベランダでひなたぼっこ。ポテトグラタンができあがって
呼んだら。振り向いた顔にはいろんな大きさの目ができていました。
翌日、手足を丁寧に折り曲げてあげてクローゼットに入れました。これで安心、
もう目は増えないでしょう。ところがどうしたことか帰宅すると日なたにいて、
目を増やしていたのです。運悪くお天気続きの春でした。恋人は話します。あ
る目は近眼で、ある目はレーシックを施されていて、ある目は二キロ先まで見
えるんだよ。すべての情報を処理するのにひとつの脳みそでは少なすぎるよう
で、やつれて見えました。
「メ」「目」とふたつの「め」が書かれているが、「メ」は「芽」かな?
ことばが「音」のなかで交錯し、重なるようだ。「ポテトグラタン」から連想すると、じゃがいもの「芽」。じゃがいもは「冷暗所」に保存するもの。メ、芽、目とじゃがいも、恋人が交錯する。
二連目の「呼んだら。」の句点「。」が効果的だなあ。「メ(目)」がそのまま連続するのではなく、ことばにならない断絶(切断)を含んで「目」にかわる。「目」に接続してしまう。その「切断/接続」を紺野の「肉体」が支えている、という感じがする。紺野がそこにいて「メ(芽)」から「目」への変化がある。紺野がいなければ、そういう変化はない。その「呼吸」のようなものが句点「。」のなかにある。「目ができている」のを発見したのは、あくまで紺野であって、恋人は自分の変化に気がついていない。そういう感じがする。
で、じゃがいもが「芽」を出すように、恋人は「目」を増やす。ひとつ(ふたつ?)の目で見るというより、複数の目で見る。いや、違った。複数のものを見る。そして、見たものの数だけ「目」が増えていく。目が、芽のように、恋人の「肉体」から芽生えてくる。目(芽)の数だけ、そして世界の事実が増えてくる。
これは、いいなあ。
「はえる」(生える)ということばはタイトルに出てくるだけで、本文のなかには出てこないのだが、「肉体」の「連続感」が「出る」「増える」よりもなまなましい。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」ことで、恋人が「増えていく」感じがする。恋人が増えるといっても、恋人はひとりなのだが……。あ、このひとは、こういう人だったのだと、暮らしているうちに少しずつわかっていく感じが、「生える/生まれる」という「動詞」として動いている。
「呼んだら。」と「目ができていました。」を結びつけた紺野の「肉体」が、こんどは恋人の肉体を引き受けて、恋人の「肉体」の感覚を代弁している。それが「生える/生まれる」なんだろうなあ。
ここでこんなことを書くと、性差別主義者のようだけれど、これはやっぱり紺野が女だから「生える/生まれる」という「動詞」になるんだろうなあ。男は恋人の「肉体」の変化を自分の「肉体」にできることと結びつけるとき「生える/生まれる/産む」というような動詞を思いつかないだろうなあ、とも思う。
そういう特殊な事情(?)があって、「生える」という動詞をタイトル以外ではつかっていないのかもしれない。ほかのことばをつかっているのかもしれない。
また「生える/生まれる」という動詞をつかうのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「複数」という感じを強調するためかな? 「生まれる」と、そこに「肉体」が増える。世界の事実が、肉体の延長(連続したもの)として増える感じ。その「実感」。
恋人は散髪にゆきました。すっきりとすればいくつもの目がどうにも大変気に
なります。話し合って取り除くことに決めました。メには毒が含まれるとも聞
くし。彼の顔をよく洗い目を取る……包丁でひとつひとつ抉ってどこか愉快で
す。取り除いた目はジップロックに入れて区の菜園に埋めました。手をつない
で一札した場所が恋人の目の塚です。帰ってから飲んだのは温めたじゃがいも
のポタージュ。
「目」と「メ(芽)」が、ここでも混同される。わざと混同することで、ことばの運動を軽くする。「比喩」なのだから、ほんとうのことではない。論理的ではない。てきとうに、何かが「わかる」だけでいい。
「いくつもの目」が気になるのは、その目の数だけ「見えるもの」があるからだ。紺野も「複数の目」で見つめられ、その目のなかで紺野が複数化する。「芽」に「毒」があるように、複数の目のなかには「毒をもった目」(紺野に厳しい目)もあるかもしれない。あんまり厳しいとつらいね。だから、そういうものを「毒」として取り除く。「そういう見方はやめてよ。わたしはそういう人間じゃないんだから」云々。「話し合って取り除く」には恋人との、そういうやりとりが暗示されている。
自分に都合のいい目(?)だけを残しておく。愉快だね。そういうことができるなら。
さらに。
ふと食べてしまおうと思いました。食べちゃいたいくらいかわいかったから。
寝ているのを見はからって料理しました。サラダにするのです。茹でてボウル
に入れてマッシャーでつぶして。お酢で下味をつけ、刻んだきゅうり、たまねぎ、
コンビーフ、クレイジーソルトとペッパー、最後にマヨネーズを入れてよく混
ぜます。味見をすればなんとおいしいこと。
そりゃあ、おいしいよ。自分に都合の悪い部分は全部なかったことにしてしまうんだからね。
でも、そんなにうまい具合にいくのかな?
目を出さないようにすることはとても難しく、
毎年残される課題なのです。
恋人だって、どんどん変わっていくからねえ。えぐりとってもえぐりとっても「目(芽)」は生えてくる。
深刻にならずに、軽く、ことばが突っ走るところがいいなあ。
バスルームでうごく浴室乾燥機
鏡はもう曇らない
指先で字を書けなくなる前の
さいごの一文字は地球の外へ飛び出した (「めぐりあえ宇宙」)
その「地球の外へ飛び出した」ような軽さが、紺野のことばの魅力だ。
かわいくて | |
紺野 とも | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。