為平澪「盲目」、颯木あやこ「ディープ」(「狼」26、2015年09月発行)
為平澪「盲目」は前半が、特に一、二連目がおもしろい。
「バラバラ死体」がなぜバラバラなのか、この詩を読むとわかる。それぞれが自己主張する。どの部位も「ひとつ」の肉体につながっている。つながることで「ひとつ」になっているのだが、きっと「自分こそが肉体の基本(土台)」だとでも主張するのだろう。それぞれの言い分を聞いているとうるさい。だからバラバラにしてしまう。もっともバラバラにしても、それぞれの部位には特徴があり、そこから「ひとつ」の「肉体」へとつながっていく。つながるからこそバラバラ死体というのだろうけれど。
まあ、こんなことは、「論理的」に語ろうとするとめんどうになるだけなので、省略する。
おもしろいのは、この一、二連が「言う/黙る」という動詞で結びついていること。そして、その「言う/黙る」に「聞く」という仕事をになっているはずの耳までもが参加していることである。耳が「教える」。これは耳が「言う」ということと同じ。その耳が「言わなくなった」、つまり「黙ってくれた」。
「言う」という仕事、「黙る」という仕事は、一般的には口の仕事だが、私たちはたとえば「目は口ほどにものを言う」という表現になじんでおり、「肉体」が何かを「言う」ことになれている。手が震えていれば、驚怖か、興奮か、そこには感情があらわれている。つまり手が「肉体」のなかに動いているものを代弁している、と感じる。
その「言う」仕事を、肉体は、バラバラになって、次々に放棄している。「黙る/言わなくなる」。そうことばがとじられる時、逆に、「言う」を思い出してしまう。そういう構造でことばが動いているのがおもしろい。
これが、このまま最後までつづくとおもしろいと思う。ところが、
三連目の「私」は「胴」のことだろうか。「私を乗せて運んでくれた」を中心に考えると、そうなるのだが、この「考えるとそうなる」ということばの動きが、ちょっとおもしろくない。詩が突然「論理的」になる。
四連目に「目」「唇」が出てきて、「監視する」「噂話をする」が出てくる。この「目/監視する」「唇/話をする」という主語/動詞の関係が、あまりにもあたりまえの「論理」なので、窮屈に感じてしまう。「耳/臭いを嗅ぐ」というところは主語/動詞が日常のことばの動きと合致しないのだが、目と唇があまりも常套的なので、「耳/臭いを嗅ぐ」の結合は驚きにならない。
そのうえ、ここから「黙る/言わなくなる」が消える。
「考えるとそうなる」という「論理」、作り上げた論理(架空の話)が、さらに虚構をもとめて暴走しはじめる。
為平は、そういう「加速/暴走」(ことばの暴力)を書きたかったのかもしれないが、ずーっ省略して、詩の最後、
と「黙る/言わない」が「聞こえない」と、違った動詞で反芻される(繰り返される)のは、何だか、作り上げた論理(考えたらそうなる)の運動として、わざとらしすぎておもしろくないなあ、と感じる。
最初の一、二連のことばの動きがそのままつづいていくととてもおもしろくなるだろうなあという悔しい印象が残ってしまう。
*
颯木あやこ「ディープ」も前半がおもしろい。
二連目の「瞳」と「前髪」の関係が具体的で、そうか、「溺れる」(溺れてはいない、と書いているのだが)という「動詞」のなかでは、瞳が前髪の「陰」になりながら、自己主張するのか、と水に沈みそうな「肉体」がそのまま見える感じがして、おっ、と思ってしまう。
三連目は二連目の「冴える」という動詞を別な形でくりかえしたものとして読んだのだが……。
うーん、ことばが「具象」から「抽象」へ動いてしまう「さびしさ」のようなものを感じ、私は立ち止まってしまう。沈黙-叫び-沈黙という深化(純粋化?)が、さびしすぎる。美しすぎる。
「具象から抽象(ことばによってのみ到達できる美)へ」は「個別から普遍(ことばによってのみ到達できる美)へ」という動きと重なり合う部分があるのかもしれない。そして「抽象/普遍」というのは、一種の「真理」のように受け止められるのかもしれない。「理論物理学」の「数式」のようなものかもしれない。そして、そういう動きは、ことばだけが明るみに出すことのできる美しさであり、また純粋な「頭脳」の力が必要とされる世界なので、「頭脳派」が多い詩の批評では好意的に評価されることが多いと私は感じているのだが。
私は逆に、どこまでいっても「抽象/普遍」にはならないことば、「具体」でありつづけることばの運動が好きなので、どうしてもつまずいてしまう。あ、「肉体」が消えてしまったと不安になってしまう。
二連目の世界を、もう一度「肉体/動詞」でくりかえしてくれたらもっと魅力的になるのになあと思ってしまう。まあ、こんなことは私の「好み」の問題にすぎないのだろうけれど。
為平澪「盲目」は前半が、特に一、二連目がおもしろい。
目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言うので
うるさい手を切り落として 口に食わせた
口は満足そうに 黙ってくれた
足は突っ立って進むことしか能がないと
耳が教えるので
足を売って耳栓を買った
耳は都合のいいことしか 言わなくなった
「バラバラ死体」がなぜバラバラなのか、この詩を読むとわかる。それぞれが自己主張する。どの部位も「ひとつ」の肉体につながっている。つながることで「ひとつ」になっているのだが、きっと「自分こそが肉体の基本(土台)」だとでも主張するのだろう。それぞれの言い分を聞いているとうるさい。だからバラバラにしてしまう。もっともバラバラにしても、それぞれの部位には特徴があり、そこから「ひとつ」の「肉体」へとつながっていく。つながるからこそバラバラ死体というのだろうけれど。
まあ、こんなことは、「論理的」に語ろうとするとめんどうになるだけなので、省略する。
おもしろいのは、この一、二連が「言う/黙る」という動詞で結びついていること。そして、その「言う/黙る」に「聞く」という仕事をになっているはずの耳までもが参加していることである。耳が「教える」。これは耳が「言う」ということと同じ。その耳が「言わなくなった」、つまり「黙ってくれた」。
「言う」という仕事、「黙る」という仕事は、一般的には口の仕事だが、私たちはたとえば「目は口ほどにものを言う」という表現になじんでおり、「肉体」が何かを「言う」ことになれている。手が震えていれば、驚怖か、興奮か、そこには感情があらわれている。つまり手が「肉体」のなかに動いているものを代弁している、と感じる。
その「言う」仕事を、肉体は、バラバラになって、次々に放棄している。「黙る/言わなくなる」。そうことばがとじられる時、逆に、「言う」を思い出してしまう。そういう構造でことばが動いているのがおもしろい。
これが、このまま最後までつづくとおもしろいと思う。ところが、
足を失って 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて 腸を犬に与えた
犬は鼻が利いたので私が捜している
死体の所まで 私を乗せて運んでくれた
大きな鍾乳洞の壁には巨大な目や耳や唇が
私を監視し 私の臭いを嗅ぎ付け 私の噂話をした
三連目の「私」は「胴」のことだろうか。「私を乗せて運んでくれた」を中心に考えると、そうなるのだが、この「考えるとそうなる」ということばの動きが、ちょっとおもしろくない。詩が突然「論理的」になる。
四連目に「目」「唇」が出てきて、「監視する」「噂話をする」が出てくる。この「目/監視する」「唇/話をする」という主語/動詞の関係が、あまりにもあたりまえの「論理」なので、窮屈に感じてしまう。「耳/臭いを嗅ぐ」というところは主語/動詞が日常のことばの動きと合致しないのだが、目と唇があまりも常套的なので、「耳/臭いを嗅ぐ」の結合は驚きにならない。
そのうえ、ここから「黙る/言わなくなる」が消える。
「考えるとそうなる」という「論理」、作り上げた論理(架空の話)が、さらに虚構をもとめて暴走しはじめる。
為平は、そういう「加速/暴走」(ことばの暴力)を書きたかったのかもしれないが、ずーっ省略して、詩の最後、
油蝉たちが五月蠅い、のか
目を閉じなければ
聞こえることは
決してない
と「黙る/言わない」が「聞こえない」と、違った動詞で反芻される(繰り返される)のは、何だか、作り上げた論理(考えたらそうなる)の運動として、わざとらしすぎておもしろくないなあ、と感じる。
最初の一、二連のことばの動きがそのままつづいていくととてもおもしろくなるだろうなあという悔しい印象が残ってしまう。
*
颯木あやこ「ディープ」も前半がおもしろい。
溺れてなどいない
全身 深い水に絡まっているのに
瞳は 前髪の陰で冴えて
見ている、
αからΩを
黒から透明を
沈黙から叫び そしてまた共にある沈黙を
二連目の「瞳」と「前髪」の関係が具体的で、そうか、「溺れる」(溺れてはいない、と書いているのだが)という「動詞」のなかでは、瞳が前髪の「陰」になりながら、自己主張するのか、と水に沈みそうな「肉体」がそのまま見える感じがして、おっ、と思ってしまう。
三連目は二連目の「冴える」という動詞を別な形でくりかえしたものとして読んだのだが……。
うーん、ことばが「具象」から「抽象」へ動いてしまう「さびしさ」のようなものを感じ、私は立ち止まってしまう。沈黙-叫び-沈黙という深化(純粋化?)が、さびしすぎる。美しすぎる。
「具象から抽象(ことばによってのみ到達できる美)へ」は「個別から普遍(ことばによってのみ到達できる美)へ」という動きと重なり合う部分があるのかもしれない。そして「抽象/普遍」というのは、一種の「真理」のように受け止められるのかもしれない。「理論物理学」の「数式」のようなものかもしれない。そして、そういう動きは、ことばだけが明るみに出すことのできる美しさであり、また純粋な「頭脳」の力が必要とされる世界なので、「頭脳派」が多い詩の批評では好意的に評価されることが多いと私は感じているのだが。
私は逆に、どこまでいっても「抽象/普遍」にはならないことば、「具体」でありつづけることばの運動が好きなので、どうしてもつまずいてしまう。あ、「肉体」が消えてしまったと不安になってしまう。
二連目の世界を、もう一度「肉体/動詞」でくりかえしてくれたらもっと魅力的になるのになあと思ってしまう。まあ、こんなことは私の「好み」の問題にすぎないのだろうけれど。
文芸誌「狼」26号 | |
中村梨々,佐相憲一,鈴木正枝,石川厚志,睦月とや,葉月美玖,梁川梨々,小桜ゆみ,小山健,颯木あやこ,為平澪,冨田民人,葛原りょう,長尾雅樹,平川綾真智,光冨郁埜,広田修 | |
狼編集室 販売:密林社 |