詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田俊子『戯れ言の自由』

2015-11-05 10:20:04 | 詩集
平田俊子『戯れ言の自由』(思潮社、2015年10月31日発行)

 私と面倒くさがりやである。面倒くさいことが大嫌いである。だから、だじゃれや語呂合わせが苦手である。ひとつのことでも面倒なのに、わざわざ二つ(二つ以上?)のことを考えるのが、とてもイヤ。
 だから歴史の年号、「いいくにつくろう鎌倉幕府、1192年」という覚え方が面倒で歴史なんか大嫌いになった。これを覚えているのは、「こうすれば覚えられる」と最初に聞かされたからだが、そんな長い文章を覚えるくらいなら「1192年、鎌倉幕府」の方が短くて覚えやすい。英語に(他の外国語に)カタカナで読み方を振っているのも、見ただけでぎょっとする。私はもともとカタカナ難読症でカタカナが読めないから、「カタカナで読み方を書いておくといいよ」と言われなかったので、英語は歴史ほど拒絶反応がでなかった。
 と、余分なことを書いているのは。
 実は、平田俊子『戯れ言の自由』。これが、面倒なのである。だじゃれ、語呂合わせが次々に出てくる。多くの人は、そこで「笑う」のかもしれないが、私は、あっ、面倒くさい、何で二つのことを考えないといけない? かけ離れたものを結びつけないといけない?と思ってしまう。「かけ離れたものの出合い」が「詩」であるとしても。
 たとえば、「犬の年」。

えー、みなさま、こんチワワ。
きょうはぶるブルドッグと震えるほどの寒さですね。
わたくし、スカートの下にスピッツはいてまいりました。
家を出るのが遅くなったのでシェパード違反でここまできました。
朝食べたのはマルチーズトースト。
お昼はワンコそば。

 「ワンコそば」以外は、「犬種」の名前が「だじゃれ(語呂合わせ)」としてつかわれている。私は犬好きだから、そのひとつひとつの犬を識別できるし、「チワワ=まろ、はなちゃん」「ブルドッグ=ビー玉」「スピッツ=レオ」と、飼い主の名前は知らないけれど犬の名前なら全部言えるけれど、それをはっきり思い出してしまうと、「かけ離れたものの出合い」が「すれ違い」ではなくて、ほんとうの「親密な関係」になってしまって、ことばを駆け抜けられない。
 「いいくにつくろう鎌倉幕府、1192年」の鎌倉幕府ってほんとうに「いい国」? と考え込んでしまう感じ。だれが開いたのだっけ? 成立するきっかけは? ほんとうに大事なのは「1192年」ではなくて、他のことじゃない? と考えるのに似ているかなあ。
 うーん。
 きっと、具体的に犬を思い浮かべず、ただ「音」のなかに「犬」がちらっと見えたな(聞こえたな)、と思うだけでいいのだろうけれど。
 私は、こういう「聞こえたのに、聞こえないふりをする」というような「人間関係」に似たものも、苦手なんだなあ。「聞こえたら、聞こえた」「聞こえないなら、聞こえない」。違うことをして、その「場」をやりすごすというのも、なんだか面倒くさい。「気配り」というような面倒なことは大嫌い。
 平田俊子には幸い(?)会ったことがないが、会うときっと「気配り」に息が詰まりそうだなあ。
 「気配り」は詩の展開(ことばの展開)のなかからもうかがえる。

ブロッコリーは緑の犬です。
チビでもがんばるダックス奮闘。
お風呂が大好きな銭湯バーナード。
芝居が好きな犬は柴犬。

 だじゃれの構造が「みなさま、こんチワワ。」とは違ってきている。
 最初の方は、「こんチワワ」「ぶるブルドッグ」と「音」がそのまま「だじゃれ」になっている。カタカナ、ひらがなという「表音文字」だけで構成されている。「表音文字」で「だじゃれ」であることを意識させておいて、「ダックス奮闘」「銭湯バーナード」という「表意文字(漢字)」を組み合わせた「高級だじゃれ(?)」へと進んでいる。
 どういう具合に展開すれば、読者がことばに簡単についてくるかを考え抜いている。「スカートの下にスピッツはいてまいりました。」というのも、読者サービスだな。「下ネタ」というのは「肉体」にぐっと迫ってくるからね。人間の距離を縮めるからね。
 引用した部分と、感想の順序が前後してしまうが、「ブロッコリーは緑の犬です。」の意表のつき方なんかすごいね。
 「ブロッコリー」を「ブロッ+コリー」に分解した上で「緑の野菜+犬」と重ねないといけない。すぐには「犬」とはわからない。ちょっと考えてしまう。ここから「高級篇だじゃれですよ」と宣言している。
 すごい「気配り」でしょ?

 しかし疲れるなあ。これを読むのは疲れるなあ、と思いながら読むのだけれど、「か」「いざ蚊枕」「まだか」の「三部作(?)」はおもしろいなあ。
 「だじゃれ」が単発ではない。ひとつの作品では終わらずに、書き足りなくて、次の作品を生み出していく。平田はけっして「面倒くさい」と思わない人間なのだ。きっと、私のようになんでも面倒くさいと思う人間こそ、平田にとっては面倒な人間かもしれない。もし出会ってしまったら、どこまでも面倒みないと気が収まらないだろうなあ。そこはこうして、あれはこうして、ほらこうできたじゃない、と気がすむまで面倒を見ないとおちつかなくなるんだろうなあ。
 いやあ、一度も会わずにすんでいるのは幸運だ。(私は人に会うのが面倒だから、実際に会ったことのあるひとがほとんどいないのだけれど。)

蚊についてもう少しいわせてください              (「いざ蚊枕」)

まだかについて考えている
まだ蚊について蚊んがえている                  (「まだか」)

 平田にとってはどれだけ書いても「もう少し」なのか。「まだ」は「また」の重なって、かさなりすぎて「濁った(濁音)」になってしまった状態かもしれないが、これじゃあ、おわらないねえ。面倒だねえ。ほんとうに面倒くさいよ。
 で、面倒くさいついでに。
 「だじゃれ」について私が感じている疑問を書いておこう。
 私は平田の詩を「活字」で読んでいる。私は黙読派で音読はしないのだが、「活字」で読むことと、「音のだじゃれ」はどういう関係にあるのだろうか。

まだ蚊について蚊んがえている

 これを「朗読」で聞いたら、この書き方として聴衆は再現できるだろうか。読むときに「蚊について」の「か」は「ぶーんと飛ぶ蚊」、「蚊んがえている」は「思考している、考えている」ではなく、最初の「か」は「ぶーんと飛ぶ蚊」の「蚊」の文字ですと説明するのかな? それとも「テキスト」を聴衆に配って、そのうえで「読みながら聞いてください」というのかな?
 「気配り」のひとだから、もし朗読するとしたら、テキストをちゃんとプリントして配った上で読むんだろうなあ。でも文字で読んでいるだけだと「だじゃれ」にならない。「文字のだじゃれ」は「変換ミス」の類だろうなあ。平田のやっているのは、しかし、音に重点がある……。

 さて。
 私は40分以上書きつづけると、目がぼんやりしてきて、書くのがイヤになるのだが、次の日に持ち越すのは面倒なので、大急ぎで書けるところまで書いておこう。
 「だじゃれ(語呂合わせ)」というのは、立ち止まらずに、通りすぎる関係に似ている。あ、いま変なものを見たな、くらいの感じで楽しめばいいのかもしれない。じっと見つめて「ガンつけたな」なんてからまれないように、見るにしても、通りすぎて相手が見ていないのを確認してから、こっそり見るくらいがいいのかもしれない。
 私のように長い感想なんか書かずに、「楽しかった」「いろんな楽器で同じ音を出すと、音の種類の多さにびっくりするけれど、それを聞いた感じ」なんて、言って終わりにすればいいのかもしれないけれど。
 平田の詩は単なる「だじゃれ(語呂合わせ)」でもない。「だじゃれ/ことばの音の遊び/音楽」なら、なんといえばいいのか、その「音楽」は最初から最後まで「一定」(一種類)ではない。音楽の世界では、クラシックはメロディーを変えて演奏されることはないが、テンポはわりと自由だ。ポップスの世界ではリズムは変えないがメロディーはアドリブで変える。どちらも「変化」がある。同じように、平田のことばの展開も「変化」する。平田がやっているのがクラシックかポップスかわからないが「変化/変奏」が音楽を楽しく豊かにしていることは確かだ。
 「犬の年」では「技巧」の変化があったが、もっと変な「変化」がある作品がある。「マドレーヌ発」は菓子の「マドレーヌ」から「マーマレード」をとおって「窓」をとおり、鴎外をも駆け抜ける。この変化が、非常に自在で、あれ、あれあれっという感じ。そうか、「変化」するために、あえて「同じ(音)」を踏まえるのか、と思う。
 人間のなかにある「同じ」と「変わる」、そのときの「持続」の奥底を「ことば」のなかに探す方法として、平田は「だじゃれ」を利用している。もしかすると、それは「偽装」かもしれない。ほんとうは人間の哀しみを描いている。でも、そういうことを正面切っていうのは照れくさい。だから「だじゃれ」をくぐりぬける。これも、一種の「気配り」だなあ。
 「アストラル」は「だじゃれ」を含まないが、そのかわりに「アイスクリーム」「あめゆじゅ」「レモン」が、愛するひとの最後の食べ物の「最後の」という部分でつながり(だじゃれのように重なり)、冷蔵庫(アトラス)という変奏を経た上で、草野心平、宮沢賢治、高村光太郎という三人の人間になる。三人になりながら、同時に、ひとを愛するという「ひとり」になる。
 こういう「変化」と「同一」の関係を、平田は見つづけて、それとことばを交わらせている。「だじゃれ」の奥には、そういう精神がつながっている、と感じた。

 まだ書きたいのだが、さらに端折って……。
 『戯れ言の自由』という詩集のタイトル。これはなんだろう。「戯れ言」なんて「自由」以外の何ものでもない。わざわざ「自由」とつけたのはなぜ?
 「意味からの自由」? だじゃれによって「意味」を引き剥がし、身軽になって、既存の「意味」とは違うところへ行ってしまう。
 そうかな?
 でも「マドレーヌ発」や「アストラ」を読むと、勝手気ままな「自由」ではないなあ。既存の「意味」を超えて行きたいという欲望は、「自由」よりも何か「強い不自由」のなつかしさを秘めている。人間の本質的なかなしみに触れている感じがする。
 もしかしたら「自由」は「銃」なのか。しかも拳銃ではなく、機関銃だな。どこまでもどこまでも弾を発射しつづける銃。既存の「関係」を破壊して、破壊しても破壊してもこわれないものが、その破壊のあとから立ち上がってくる。そういうものを育てるための、あえて選ばれた「銃」、そういう世界へいくための「武器」なのかも。

戯れ言の自由
平田俊子
思潮社

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