田島安江「雨がひっきりなしに」ほか(現代詩講座@リードカフェ、2015年11月11日)
受講者の感想を聞いてみた。
「こういう詩を書きたい。詩のなかにキリンが自由に入ってきて、いいなあ。」「電話の詩はいろいろ想像させる。昔の話を思い起こさせる。恋愛がいるのか、いないのか、とか。」「蜜蜂の二行がつかい方がいい。蜜蜂が次の連で、空を縫いとめるようにとつながっていく。」「蜜蜂の二行は過去を思い出しているのかな? 蜜蜂チが転落して死ぬということはないと思うなあ。」「雨がさびしい、せつないという感じにつながっていく。」「電話ボックスが現在と過去の通路になっている。キーワードだと思う。」「聞いています。話していました。降っています。死にました、と現在形と過去形がまじっている。そこがおもしろい。」
ということろまで進んで、「現在形」と「過去形」について少し考えてみた。
日本語の文章は「現在形/過去形」があいまい。「過去」のことを「現在」として書くことがよくある。
文学だけにかぎらず、新聞でも、たとえば「田中首相を逮捕」という見出し。これは「田中首相を逮捕した」という文章の「した」を省略した形。新聞は出来事(過去)を知らせるものだから、そこに書かれていることは「過去」が前提。だから「逮捕した」と書かずに文字を省略して「逮捕」と名詞の形で終わる。しかし、「意味」としては「逮捕した」。動詞派生形の名詞は、新聞ではそういうふうにつかわれている。
しかし、それだけではない。
「逮捕した」よりも「逮捕」と名詞にした方がなまなましい。「逮捕」は「逮捕した」という意味なのだけれど「した」ということばがないと、「逮捕する/逮捕している」という「現在」の状況としても目の前に様子が浮かんでくる。その場に立ち合ったような、臨場感がある。
「過去形」と比べると「現在形」は臨場感、感情の動きを感じさせる。
だから、山登りのシーンなどでは、「険しい坂を上った。息が切れた。頂上に着いた。風だ。海が見える。」と書いたりする。過去形で書いていて、そこに突然、現在形をまじえる。そうすると、感情が激しく動いていると感じる。時制的には「海が見えた」なのだが「見える」と書くと、いっしょに見ている感じになる。
「現在形」の効用である。
この詩では、「過去形」「現在形」は、どうつかわれているか。
一連目「聞いています」。しかし、この「聞いています」の「主語」は「少女の私」。主語を中心に考えると、「少女の私」は「過去の私」なのだから述語(動詞)も「聞いていました」と過去形になるのがふつうだが、田島は「聞いています」と現在形で書く。これは、田島が「少女の私」を「過去」としてではなく、いま、彼女といっしょに生きている存在(現在形)で感じているということをあらわしている。
ところが二連目では「座っているのでした」「話していました」「聞いているのでした」と過去形があらわれる。それぞれの述語(動詞)の主語は何か。「人形」とは何か。おそらく、「人形」は「少女の私」の「比喩」である。この「比喩」は思い入れであると同時に客観化でもある。「少女の私」を「人形」ととらえ、あのとき(過去)を客観的に見つめなおそうとしている。「少女」になったり「人形」になったりしながら、対話している。自分を客観的にみつめようとしている。あるいは、自分の感情を整理しようとしている。そんなふうに思い出している。
そこでも感情は動いているのだが、それを客観的に(感情的にならずに)みつめるという意識が「過去形」のことばを選択させている。
三連目に再び現在形がでてきて、そのあと四連目。不思議なことが書かれている。キリンが出てくる。キリン/麒麟と二種類の表記が出てくるのだが。
ここが、おもしろい。
このキリン。キリンは現実の動物のキリン。しかし、そのキリンは日本橋の近くにいるわけではない。一方、麒麟の方は日本橋のモニュメントであり、実際にそこにいる。ただし麒麟は現実の動物ではなく、架空の動物。
つまり、現実と架空が入り交じって、それが「世界」として書かれている。存在しないはずのキリンと存在している麒麟(のモニュメント/ただし架空の生きもの)が、「飛べない」という「動詞」のなかで結びついている。動物のキリンはもちろん飛べない。架空の麒麟は物語のなかでは飛べるはずだが、現実にはモニュメントなので飛べない。そういう交錯がある。
この交錯は、きっと、「少女の私/人形」の関係と同じなのだ。だからこそ、二連目の「話していました」は四連目で「話しています」と言い直される。思い出が、いま、なまなましく現在形としてよみがえっている。このとき、「少女の私/人形」のどちらがキリンでどちらが麒麟か。それは関係がない。入れ替わり可能な交錯した関係が、「少女の私/人形」の「生き方」だったのだ。キリン/麒麟が話しあう。そのとき「眼に青い光が灯っています」とあるのは、「少女の私/人形」の対話でも、ふたりの目は光っていたということだろう。実際にことばが行き来するわけて派内。心が通い合っている。その証拠とてして「眼が光る」。
一-四連が、一種の「意識」の世界だとすれば、五連目は「いま/現実」だろう。「夢などもうみなくていい」は「人形/麒麟」に頼らなくて生きている「いま/現在」の田島の姿だろう。
六連目の、突然の蜜蜂と死。これは何か。
田島は、「なんとなく、突然、そこで蜜蜂が書きたくなった」と説明したが、蜜蜂というよりも、きっと「死」を書きたかったのだろう。「人形の死/麒麟の死/感傷の死」。ひとつの断絶の象徴としての死。感傷というものはけっして死なないものだが、いったん、それを振り切ろうとしている。強い意識ではなく、むしろぼんやりした感じだとは思うが……。
そのあとに書かれているのは、まあ、現実の「ぼんやりした」感じ。「いま」、生きている田島の向き合っている世界ということになる。前半ほどイメージがしっかり結晶した感じはしないが、その明確に形にならないということが「いま」だからである。しかし、明確にならない(なっていない)からといって、そこに「過去」が反映していないわけではない。「過去」との「連続」は、たとえば「耳の奥で音がふるえるのです」と「十円玉を握りしめて電話の声を聞いています」と呼応して浮かび上がってくる。さらに「耳の奥の音」は「地中深く眠っていた声」とも呼応する。「空を縫い込む」には受講生が指摘したように「蜜蜂」が呼応している。また、それは「キリン/麒麟」の対話(話をしています)をとおって聞こえても来る。
この生々しさを、田島は「漏れてくるのでした」と客観化しようとする。突き放して、冷静になろうとする。さらに最終連で、「降っていました」と過去形で世界をとじ、ひとつの「枠」のなかにことばを収めてしまう。
詩に何が書いてあるか、は重要なことがらである。しかし、それ以上に、どんなふうに書いてあるか、そのことばといっしょに作者はどう動いているか。その動きの方が私にはおもしろく感じられる。
「過去形/現在形」のなかで動いている田島のあり方が感じられる詩である。
*
降戸輝「少年走者」は公園を走る少年を描いた詩だが、
その「逆走する」がおもしろかった。女は立ち止まっている。けれどそばを走り抜ける少年には自分とは反対の方向から走ってきて、さらに反対の方向へ走っていくように感じられる。走っている少年だから感じることができる「逆走」である。「逆走」すれば、距離は立ち止まっているときよりもいっそう遠くなる。その遠くなる女を、少年は走りながら夢想している。
山田由紀乃「あてもなく」は
「ざくろ」と「のど」、さらに「通る」という動詞が肉体に刺戟的である。
*
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雨がひっきりなしに 田島安江
駅前の小さな電話ボックス
少女の私が
十円玉を握りしめて電話の声を聞いています
人形が座っているのでした
声にならない声でひそかに話していました
夜半には人形たちが話しているのを
じっと聞いているのでした
電話ボックスのガラスを伝って
雨がひっきりなしに降っています
動物園から抜けだしたキリンと
日本橋の橋の上にいる麒麟が話をしています
どちらも飛べないのに
飛べないからこそ
キリンたちの眼に青い光が灯っています
夢などもうみなくていい
そう思うと
電話ボックスはみつかりません
飛べないカラスのように
出口のないマンホールのように
じっとそこにはいないから
蜜蜂が転落して死にました
小さな教会のかたすみで
時計のネジをまくと
耳の奥で音がふるえるのです
空を縫いこむように
谷を越え
深々と深緑をうめつくし
地中深く眠っていた声が
キリンのからだを通って
漏れでてくるのでした
電話ボックスのガラスを伝って
雨がひっきりなしに降っていました
受講者の感想を聞いてみた。
「こういう詩を書きたい。詩のなかにキリンが自由に入ってきて、いいなあ。」「電話の詩はいろいろ想像させる。昔の話を思い起こさせる。恋愛がいるのか、いないのか、とか。」「蜜蜂の二行がつかい方がいい。蜜蜂が次の連で、空を縫いとめるようにとつながっていく。」「蜜蜂の二行は過去を思い出しているのかな? 蜜蜂チが転落して死ぬということはないと思うなあ。」「雨がさびしい、せつないという感じにつながっていく。」「電話ボックスが現在と過去の通路になっている。キーワードだと思う。」「聞いています。話していました。降っています。死にました、と現在形と過去形がまじっている。そこがおもしろい。」
ということろまで進んで、「現在形」と「過去形」について少し考えてみた。
日本語の文章は「現在形/過去形」があいまい。「過去」のことを「現在」として書くことがよくある。
文学だけにかぎらず、新聞でも、たとえば「田中首相を逮捕」という見出し。これは「田中首相を逮捕した」という文章の「した」を省略した形。新聞は出来事(過去)を知らせるものだから、そこに書かれていることは「過去」が前提。だから「逮捕した」と書かずに文字を省略して「逮捕」と名詞の形で終わる。しかし、「意味」としては「逮捕した」。動詞派生形の名詞は、新聞ではそういうふうにつかわれている。
しかし、それだけではない。
「逮捕した」よりも「逮捕」と名詞にした方がなまなましい。「逮捕」は「逮捕した」という意味なのだけれど「した」ということばがないと、「逮捕する/逮捕している」という「現在」の状況としても目の前に様子が浮かんでくる。その場に立ち合ったような、臨場感がある。
「過去形」と比べると「現在形」は臨場感、感情の動きを感じさせる。
だから、山登りのシーンなどでは、「険しい坂を上った。息が切れた。頂上に着いた。風だ。海が見える。」と書いたりする。過去形で書いていて、そこに突然、現在形をまじえる。そうすると、感情が激しく動いていると感じる。時制的には「海が見えた」なのだが「見える」と書くと、いっしょに見ている感じになる。
「現在形」の効用である。
この詩では、「過去形」「現在形」は、どうつかわれているか。
一連目「聞いています」。しかし、この「聞いています」の「主語」は「少女の私」。主語を中心に考えると、「少女の私」は「過去の私」なのだから述語(動詞)も「聞いていました」と過去形になるのがふつうだが、田島は「聞いています」と現在形で書く。これは、田島が「少女の私」を「過去」としてではなく、いま、彼女といっしょに生きている存在(現在形)で感じているということをあらわしている。
ところが二連目では「座っているのでした」「話していました」「聞いているのでした」と過去形があらわれる。それぞれの述語(動詞)の主語は何か。「人形」とは何か。おそらく、「人形」は「少女の私」の「比喩」である。この「比喩」は思い入れであると同時に客観化でもある。「少女の私」を「人形」ととらえ、あのとき(過去)を客観的に見つめなおそうとしている。「少女」になったり「人形」になったりしながら、対話している。自分を客観的にみつめようとしている。あるいは、自分の感情を整理しようとしている。そんなふうに思い出している。
そこでも感情は動いているのだが、それを客観的に(感情的にならずに)みつめるという意識が「過去形」のことばを選択させている。
三連目に再び現在形がでてきて、そのあと四連目。不思議なことが書かれている。キリンが出てくる。キリン/麒麟と二種類の表記が出てくるのだが。
ここが、おもしろい。
このキリン。キリンは現実の動物のキリン。しかし、そのキリンは日本橋の近くにいるわけではない。一方、麒麟の方は日本橋のモニュメントであり、実際にそこにいる。ただし麒麟は現実の動物ではなく、架空の動物。
つまり、現実と架空が入り交じって、それが「世界」として書かれている。存在しないはずのキリンと存在している麒麟(のモニュメント/ただし架空の生きもの)が、「飛べない」という「動詞」のなかで結びついている。動物のキリンはもちろん飛べない。架空の麒麟は物語のなかでは飛べるはずだが、現実にはモニュメントなので飛べない。そういう交錯がある。
この交錯は、きっと、「少女の私/人形」の関係と同じなのだ。だからこそ、二連目の「話していました」は四連目で「話しています」と言い直される。思い出が、いま、なまなましく現在形としてよみがえっている。このとき、「少女の私/人形」のどちらがキリンでどちらが麒麟か。それは関係がない。入れ替わり可能な交錯した関係が、「少女の私/人形」の「生き方」だったのだ。キリン/麒麟が話しあう。そのとき「眼に青い光が灯っています」とあるのは、「少女の私/人形」の対話でも、ふたりの目は光っていたということだろう。実際にことばが行き来するわけて派内。心が通い合っている。その証拠とてして「眼が光る」。
一-四連が、一種の「意識」の世界だとすれば、五連目は「いま/現実」だろう。「夢などもうみなくていい」は「人形/麒麟」に頼らなくて生きている「いま/現在」の田島の姿だろう。
六連目の、突然の蜜蜂と死。これは何か。
田島は、「なんとなく、突然、そこで蜜蜂が書きたくなった」と説明したが、蜜蜂というよりも、きっと「死」を書きたかったのだろう。「人形の死/麒麟の死/感傷の死」。ひとつの断絶の象徴としての死。感傷というものはけっして死なないものだが、いったん、それを振り切ろうとしている。強い意識ではなく、むしろぼんやりした感じだとは思うが……。
そのあとに書かれているのは、まあ、現実の「ぼんやりした」感じ。「いま」、生きている田島の向き合っている世界ということになる。前半ほどイメージがしっかり結晶した感じはしないが、その明確に形にならないということが「いま」だからである。しかし、明確にならない(なっていない)からといって、そこに「過去」が反映していないわけではない。「過去」との「連続」は、たとえば「耳の奥で音がふるえるのです」と「十円玉を握りしめて電話の声を聞いています」と呼応して浮かび上がってくる。さらに「耳の奥の音」は「地中深く眠っていた声」とも呼応する。「空を縫い込む」には受講生が指摘したように「蜜蜂」が呼応している。また、それは「キリン/麒麟」の対話(話をしています)をとおって聞こえても来る。
この生々しさを、田島は「漏れてくるのでした」と客観化しようとする。突き放して、冷静になろうとする。さらに最終連で、「降っていました」と過去形で世界をとじ、ひとつの「枠」のなかにことばを収めてしまう。
詩に何が書いてあるか、は重要なことがらである。しかし、それ以上に、どんなふうに書いてあるか、そのことばといっしょに作者はどう動いているか。その動きの方が私にはおもしろく感じられる。
「過去形/現在形」のなかで動いている田島のあり方が感じられる詩である。
*
降戸輝「少年走者」は公園を走る少年を描いた詩だが、
薄暮の日差しに
温もった風が逆走する
すれ違う日傘の女の首筋で
香水は汗と一緒に焚かれ
水滴が気化していく
その「逆走する」がおもしろかった。女は立ち止まっている。けれどそばを走り抜ける少年には自分とは反対の方向から走ってきて、さらに反対の方向へ走っていくように感じられる。走っている少年だから感じることができる「逆走」である。「逆走」すれば、距離は立ち止まっているときよりもいっそう遠くなる。その遠くなる女を、少年は走りながら夢想している。
山田由紀乃「あてもなく」は
考えはあてもなくぶつぶつぶつぶつ
ざくろの赤い実のように
点滅を繰り返し唾液となってのどを通る
「ざくろ」と「のど」、さらに「通る」という動詞が肉体に刺戟的である。
詩集 遠いサバンナ | |
田島 安江 | |
書肆侃侃房 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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