詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古賀忠昭『古賀廃品回収所』(2)

2015-11-14 11:20:36 | 詩集
古賀忠昭『古賀廃品回収所』(2)(書肆子午線、2015年10月30日発行)

 古賀忠昭に私は会ったことがない。一度手紙をもらったことがある。『血のたらちね』が同封されていて、「私はガンだ。もうすぐ死ぬ。死ぬ前に感想が聞きたい」というようなことが書いてあった。その手紙を読んだからではないが、私は感想を書いた。その詩集は丸山豊賞を受賞した。なんだ、なかなか死なないじゃないか。賞まで取ったじゃないか、と私はそのとき思った。そして、古賀が死んだとき、私は思い出として、そういうことを書いた。新聞に、その「追悼文」を売り込んだ。そのとき、文章が乱暴で、死者に対して失礼だ、というような批判を受けた。
 うーん、わかるんだけれど……。
 でも、私はいまでも、あのとき最初に書いた文章がいちばん古賀のことを思って書いたものだと思う。古賀の詩は、殺しても死なない、という類のものだ。「死ぬ、死ぬ」と言いながら、いのちにへばりついて、死なない。なかなか、死なない。その「死なない」様子を見ていると、なんだか元気になってくる。こんな死なない奴とつきあうと面倒だぞ。でも、つきあってみたい。「おまえ、死なないじゃないか。死ぬ気があるのか」という悪態がつきたくなる。古賀に対して残念に思うのは、私が、古賀に面と向かって「おまえ、なかなか死なないじゃないか。賞までもらって、また死ねなくなるぞ」と言えなかったことだ。もし、言う機会があったら、古賀はまだまだ詩を書いたのではないか。もっと生き続けたのではないか、と思う。
 私の書いていることは、乱暴で、非礼なことだとは承知しているが、そういう乱暴(暴力/非礼)で向き合わないことには、私は、古賀の詩とは向き合えない。自分のなかにあるいちばん野蛮な欲望、「こいつ、めちゃめちゃにしてやる、殺してやる」というような「むきだし」の本能みたいなものをさらけださないと、古賀のことばは私の「肉体」のなかに入ったこない。古賀のことばと共感できない。「おお、殺せるなら殺してみろ。殺せなかったら、おまえを切って、煮て、食っちまうぞ」。そういうやりとりがあって、疲れ切って、そのあとで「まあ、いっしょにいてもいいか」という共感が生まれる。
 と、長い前置きのあとで「テロリスト風スキヤキ会」を読む。

この前、スキヤキをたべました。朝鮮人の金さんと朴さんと台湾の陳さんと日本人の諸藤さんとわたしです。みんなボロ屋でどこにすんでいるかわからない住所不定のひとたちです。一斗缶を半切りにして、その上に鍋をのせて久しぶりのスキヤキをしました。諸藤さんがネギと白菜をもってきました。あそこからとってきた、とどこかわからないとこをゆびさしながらいいました。ああ、あそこ、とわたしがいいました。ああ、あそこね、と金さんがいいました。あそこなら、よか野菜のとれるやろ、と朴さんがいいました。あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね、と陳さんがいいました。あそことはどこのことかわからないけれど、みんなしっているつもりのあそこでした。あそこは、どこかにあって野菜がはえていさえすればいい、あそこでした。そのあそこからこれだけとってきたよ、と諸藤さんはえいようのいきとどいたネギと白菜をリヤカーからもってきました。これは、よか、つやばしとる、とわたしがいいました。そうやろが、と諸藤さんがいいました。うまかごたる、と金さんと朴さんがいいました。台湾にはこんないい野菜はないね、と陳さんがいいました。

 なかなかスキヤキを食べるところまで行かないのだが、このなかなか「こと」が進んで行かない文体、さっさと進まない非合理性のことばのなかに古賀の「肉体」を感じる。きのうの「日記」に「ていねい」ということを書いたが、古賀は「ていねい」にひとつひとつを受け止め、共感して動いている。
 ネギ、白菜は、まあ、どこかの畑からかっぱらってきたものである。「あそこ」とした言わないのは、それ以上は知る必要がないからだ。その「あそこ」を特定する代わりに、ここでは会話が奇妙な具合に「豊か」になる。
 「あそこなら、よか野菜のとれるやろ」「あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね」。「食べる」こと、野菜の味に、会話が動いて行く。こんなことはいう必要なのいことである。でも、言う。言うと、何と言えばいいのか、「野菜の味」が「肉体」にやってくる。「肉体」が「野菜」を食べている「肉体」になる。野菜を「盗む」肉体ではなく、野菜「食べる」肉体になる。「食べる」という動詞のなかで、五人がしだいに「ひとつ」になる。「ひとつ」になりながら、また五人にもどって行くという感じになる。
 野菜を盗んできた「あそこ」が「どこのことかわからないけれど、みんなしっているつもりのあそこでした」になるように、五人の肉体が、誰が誰の肉体かわからないけれど、みんなの知っている肉体、誰もが知っている肉体になる。うまいものを食べると、うまいと感じる肉体になる。うまいものを食べたいという肉体になる。そういう肉体になるために、五人は話をする。
 「よか、つやばしとる」「そうやろが」「うまかごたる」「台湾にはこんないい野菜はないね」。詩では、それぞれのことばには「主語」がある。誰が言ったか書いてある。しかし、その「主語」は、この詩では問題ではない。ほんとうの「主語」は「肉体」であり、「述語(動詞)」は「食べる」である。あるいは「味を味わう(感じる)」である。同じ「動詞」を五人で共有し、その瞬間に「肉体」が五人であるにもかかわらず「ひとつ」になる。これが楽しい。
 そして、この楽しい「肉体」になるためには、「自分」という「肉体」を突き破らなければならない。自分の「肌(他人との区別)」を脱ぎ捨てなければならない。これは、なかなかむずかしくて、私の場合だと、たとえば最初に書いたように、「死ぬといってたくせに、なかなか死なないじゃないか」というようなことを平気で言えるようになったときが、古賀の「肉体」とつながるのである。
 「この野菜、畑から盗んできた奴じゃないか」「見つかったらどうするんだ」というようなところをうろちょろしていてはだめなのである。
 この詩は、さらに醤油、砂糖、肉と、つづいていく。「食べる/肉体」のなかに、五人が入れ乱れる。肉を「食べる」のだから、そこに「殺す」も入ってくる。「殺す/食べる」が「肉体」のなかで入り乱れる。「殺す」のは「ひとり」、「私」は「食べる」だけ、という具合にはいかない。「食べる」以上、五人の「肉体」が「殺し/食べる」のである。そのために、五人はしゃべる。こどばをとおして五人の「肉体」が「ひとつ」になり、動く。
 五人の「肉体」が「ひとつ」になる、とことばで言うのは簡単だが、五人いるのだから、それは簡単ではない。どうしたって、「反発」する部分がある。それを、反発がなくなるまで、ことばをとおして近づいていく。「あそこなら、よか野菜のとれるやろ」「あそこの野菜くったら、ほかのところの野菜はくえんからね」と言った会話のように、ひとつひとつ、ていねいに「肉」を語っていく。「味」を語っていく。語り合いながら、五人は五人の「肉体」のなかで起きていることを「共有」する。
 「食べてしまえば、どれも肉、タンパク質」というような「合理的」な処理の仕方ではなく、細部にこだわる。(こだわり方は、直接読んでもらいたいので、ここでは具体的には引用しない。)「直接」、その「肉」にふれるように、ていねいにことばは動く。「直接」、「殺す」という「肉体」にふれるのだから、それはどんなに「ていねい」であっても、どうしても「乱暴」を含む。「乱暴」の「ていねいさ」がそこにある。「概念の合理的な処理(食べてしまえばタンパク質)」からあふれてくるものが、そこにある。

 こういう「乱暴/ていねい」の強い結びつきを「肉体」で「共感」したあと、「たった一つの日本語」のような作品を読むと、なんとも悲しくなる。「なかなか死なないじゃないか」と、どうして古賀に言ってやらなかったんだろう。丸山豊賞を受賞したとき、「おめでとう」のかわりに、そんなはがきでも書いてやればよかったなあ。そう言うことで、死なない苦しさを、私は私の「肉体」に引き寄せて見るべきだったのだとも思う。
 どんなふうに書いても、古賀のことばは私のことばをはねつけ、これからもずっと生き続ける。詩は生き続ける。「なかなか死なないじゃないか」と、私はその詩に向かって叫びながら、詩のなかで動いている「肉体」になってみる。そうやって読みつづけようと思った。
 皆さんも、ぜひ、読んでください。
 アマゾンでも買えますが、「書肆子午線」の住所、電話番号、FAXを以下に書いておきます。
 書肆子午線
 〒360-0815 埼玉県熊谷市本石2-97
 電話 048-577-3128 FAX 03-6684-4040
古賀廃品回収所
クリエーター情報なし
書肆子午線

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