詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」

2015-11-30 10:44:47 | 詩(雑誌・同人誌)
崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」(「いのちの籠」31、2015年10月25日発行)

 崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」の書き出し。

父は枯木のように震えた
植民地時代のことを語るとき

父は貝のように口を閉ざした
戦争の日々 何をしていたかと問うたびに

父は転がる石のようだった
異国の地で 職業を転々として

 ここにはふたつの種類のことばがある。比喩のことばと、比喩ではないことば。比喩は「枯木」「貝」「石」。「のように」と「直喩」で語られている。
 もうひとつは現実のことば。「植民地」「戦争」「異国」。あるいは「事実」のことばといえばいいのかもしれない。現実、事実というのは、「共有された認識」のことでもある。
 「比喩」は「共有された認識」ではなく、「個人的認識」である。「共有」されていない。しかし、「共有」ということばをあえてつかって言い直すなら「共有してほしい認識(共有されたい認識)」である。
 「個人的認識」であるために、他人とは共有できないものであるけれど、「比喩」を通ることで、「同じ何か」を共有する。
 「枯木」は「震える」。「貝」は「口を閉ざす」。「石」は「転がる」。そのとき「共有する」のは「枯木」「貝」石」という「名詞」ではなく、「震える」「(口を)閉ざす」「転がる」という「動詞」である。
 「枯木」「貝」「石」は、ひとそれぞれによって思い描くものが違う。けれど「震える」「閉ざす」「転がる」という「動詞」を「肉体」で確かめるとき、その「動詞」のなかで人間は「ひとつ」になる。
 「比喩」は、「肉体」の「動き(動詞)」を導き出すための手がかりのようなものである。
 「比喩」ではなく、「比喩」といっしょに動いている「動詞」を自分自身の「肉体」で確かめるとき、その「比喩」と対で語られる「事実」に向き合う準備ができるかもしれない。
 「植民地時代」「戦争の日々」「異国の地(といっても、そこで暮らしている現在地)」という「事実/現実」のなかで、「肉体」が「震える」「口を閉ざす」「転がる」。これは、「震え」「口を閉ざし」「転がる」ことなしには、その「現実」のなかで生きてはいけないということである。
 どうしてなのか。
 これを「頭で学んだ歴史」で説明するのではなく、ここに書かれていることばを手がかりに私は考え直してみたい。
 この三連は、「動詞」を中心に見ていくとき、そこにある「風景」が隠されていることに気がつく。
 一連目。父は「震える」。植民地時代のことを「語る」とき。それは父が自分から「語る」のか。それとも崔が何かを問うたときに「語る」のか。きっと崔が問うたときに「語る」のだと思う。問わないかぎり、二連目のように、口を閉ざしているだろう。
 二連目。反復になるが、父は「口を閉ざす」。何をしていたのかと問われたならば、それに対して答えるのがふつうである。しかし答えない。父の「肉体」のなかでは「ことば」が動いているだろうけれど、それを「ことば」にしない。「声」にしない。
 一連目、二連目では父と崔が向き合っている。
 ところが三連目では、父と崔が向き合っているにしても、その向き合い方が違う。「戦争の日々」ではなく「戦後の日々」かもしれないが、「何をしていたのか」と崔が問うたとき、父は「職業を転々とした」と答えた。しかし、この「転々とした」は、一連目の「震えた」、二連目の「口を閉ざした」と同じか。自分から「転々とした」のか。違う。「転々とさせられた」のである。そこには父を追い込んだ「他者」がいる。他者(日本人)が父を転々とさせたのである。

父は石のように転がった

 ではなく、

父は転がる石のようだった

 この「比喩」の形、動詞の「位置」の違いに、私は最初から気がつくべきだった。同じ「比喩」の形では言えないものが三連目にある。他者(日本人)がそうさせた。「使役」がある。
 そして、そこから再び一連目、二連目に戻ってみる。そうすると「動詞」が違ってみえてくる。「震えた」のではなく「震えさせられている」のである。いまも、なお。二連目も「口を閉ざした」のではなく、「口を閉ざされている」のである。いまも、なお。「語ってはいけないことがある」のである。
 「震える」「口を閉ざす」という「動詞」だけではなく、「震えさせられた/震えさせられている」「口を閉ざされた(閉ざすように強いられていた)/閉ざされている」という「動詞」をこそ、私たちは「共有」しなければならない。自分の「肉体」で思い出さなければならない。
 他者によって、ある「動詞」を強いられる。そういう「体験」を崔の父のこととしてではなく、自分の「肉体」で感じないといけない。
 それを感じたあとで、最後の二行三連を読むとき、私は、崔に対して何と言っていいのかわからなくなる。答えるためのことばをもたない。特に、安倍の戦前回帰を目指す一連の動きを思うとき、ことばを失う。安倍のやっていることはまちがっている、くらいしか言えない。こんなことばは、崔の前では無効ではあるのだけれど……。

父は時々虫のように泣いた
分断された国の痛みを言うときに

ぼくは思う 父は朝鮮狼のように
生きたかったのかもしれないと

誇り高い民族の名をもて いつか
この国は詫びることさえ忘れるだろうから と

 泣いた、泣いている、泣かされた、泣かされているのは父だけではなく、崔も同じである。詩は父を主人公にして「過去形」の「動詞」で書かれているが、それを書く崔にとっては「過去形」ではなく「現在形」である。そして、その「現在形」は、そのまま私たちの「現在形」になり、「未来形」になる。
 権力はいつでもいちばん影響を与えやすいところ(権力が横暴にふるまえるところ)から突き動かし、その動きを全体に広げていく。
人間の種族―詩集
崔竜源
本多企画

*

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サム・メンデス監督「007 スペクター」(★★)

2015-11-30 00:27:07 | 映画
監督 サム・メンデス 出演 ダニエル・クレイグ、クリストフ・ワルツ、レア・セドゥー

 前作「スカイフォール」の方がよかった。と、書いたら、もう書くことがなくなってしまった。
 前作では、ダニエル・クレイグのスーツを着たままのアクションがすばらしかった。服というものは何を着ていても肉体の動きを拘束する。邪魔をする。それなのに、何の不便も感じさせない。まるで何も着ていないみたい。つまり、服を着ているときが「裸」みたいなのである。
 これは今回も同じだが、うーん、見飽きてしまった。
 最初は驚くけれど、「色気」に欠ける。「スカイフォール」のときと、隠しているはずの「肉体」が丸見えという感じがして、それが予想外だったために「色気」になりえていたが、二度目だと、そういう「意外性」がない。「色気」というのは、隠しているから「色気」。前面に出してしまうと、何だろう、あ、「臭み」だ。
 ダニエル・クレイグは「男臭い」だけで、その「臭み」が鼻につく。
 ショーン・コネリーと比較してもしようがないから、クリストフ・ワルツと比べてみようかな。
 クリストフ・ワルツは基本的に動かない。最初に登場するシーン。会議している部屋に入ってきて椅子に座る。逆光でシルエットしか見えない。シルエットというのは不思議なもので、そこに動きがあるはずなのに、その動きが「立体的」にならない。で、そのときに気がつくのだが、私たちはアクションを見ているとき、「肉体」を立体的に見ている。「肉体」が前後左右に動いているという「立体感」ではなく、その「肉体」そのもののなかで、つまり「肉体の内部」で筋肉や骨が絡み合って「立体的」に動いているのを目で見ているのだと思う。これがシルエットになると、「肉体の内部」が見えない。
 で、ここからが大切。
 「見えない」と、見たくなる。つまり「見える」部分に目が集中して、そこから「見えない」ものまで、想像してしまう。クリストフ・ワルツの目がちらりと動く。そうすると、そういうちらりと見るときの「肉体」の内部が観客の「肉体」に響いてくる。ちらりと見るとき、そのひとが「何を思っているか」ということまで、想像してしまう。「何を思っているか」ということは、わからないのだが、「何かを思っている」ということが伝わってきて、ぞくっとする。
 これがきっと「色気」というものだな。
 で、これがダニエル・クレイグの「拷問」のときに、色めき立つ。
 ダニエル・クレイグは椅子に拘束されていて身動きがとれない。一方、クリストフ・ワルツは自在に動けるのだが。その不自由と自由の関係が、なんとも「いやらしさ」をそそる。
 動けないダニエル・クレイグの「肉体」の内部で「痛み」が動く。「肉体」そのものが動く。クリストフ・ワルツの内部では「憎しみ」という感情は動くが、「肉体」は動かない。拷問も、クリストフ・ワルツの「肉体」が動くのではなく、機械が動く。クリストフ・ワルツの「肉体」はダニエル・クレイグの「肉体」には触れずに、暴力的になる。「肉体」に触れないからこそ、その反応が「肉体」にはねかえってこないので、より暴力的に、残忍になる。
 動かない「肉体」が隠している「残忍」な力が、妙に色っぽい。
 この「拷問」を、どうやって切り抜けるか。
 ダニエル・クレイグは、わずかに自由に動かせる手(指)を動かす。「肉体」を動かす。クリストフ・ワルツのように「憎しみ」を動かさない。ダニエル・クレイグは「感情」ではなく、記憶を動かし、知恵を動かす。自分の「肉体」を「知性」でコントロールする。「知性」には生々しさがない。
 だから、というのは変かもしれないが。
 針(ドリル)で顔に穴をあけられるときは、何かぞくっとしてしまうが、この時計をつかって危機を切り抜けるシーンでは、そのぞくっという「肉体」感覚は消える。
 つまり「共感」が消える。
 そして「共感」してはいけないはずの、クリストフ・ワルツの方に「共感」してしまう。ほら、ちゃんと見ていないから(身動きできないと安心しているから)反撃されてしまうじゃないか、何やってるんだ、と怒りたい気持ちになる。ばかだなあ、詰めが甘いんだよ、だから「負け組」になってしまうんだよ、と言いたくなる。
 そこで、ちょっと「同情」。
 この「同情」のなかに「色気」のようなものがまじるかも。それは、この「拷問」のシーンのつづきで、クリストフ・ワルツが顔に傷を負って出てきたときにも感じるなあ。うわっ、醜い。目の色が変わって、気持ち悪い。でも、その気持ち悪さに、ぞくっと感じてしまう。
 「色気」というのは、何か「理性」を離れた不合理なものなのだと思う。脈絡がよくわからないから妄想する。瞬間的な「エクスタシー(自己からの逸脱)」なんだろうなあ。
 で。
 「色気」ついでに脱線してしまうと、ダニエル・クレイグは二度セックスシーンを演じている。これが、なんとも「色気」がない。セックスシーンといっても、キスシーンと言い換えた方がいいくらいで、実際には裸の絡みはない。しかし「色気」がないのは裸が絡み合わないからではなく、セックスするとき「肉体」のなかで何が動いているか、感情や欲望がどう「立体的」に動いているかを想像させないからだ。
 性器と性器が結合するというのがセックスだというのでは、男根主義。「男臭い」だけ。そんなものはショーン・コネリーが演じていた時代でも「色気」ではなかった。
 あーあ、つまんない。
 でも、それは映画をつくっている側にもわかっているのかな?
 ラストシーン、ダニエル・クレイグがレア・セドゥーを抱きしめて終わる。センチメンタルに終わる。これがショーン・コネリーだったら、見られているのを承知で、熱いキスをみせびらかす。女は見られていることを忘れてキスに夢中になっている。その男と女の違いが、これからはじまるセックスを濃厚に感じさせる。男(ショーン・コネリー)が女の官能をリーとしていくという「自信」が、「色気」としてにおいたってくる。そういうことがダニエル・クレイグの「肉体」まるだしのアクションのあとでは無理とわかっていて、「肉体」を封じる形でセンチメンタルにとどめている。
 しかし、まあ、どうでもいいな。こういうことは。
                   (天神東宝スクリーン1、2015年11月29日)






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