詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田文憲「残されて」

2015-11-27 10:10:39 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残されて」(「午前」8、2015年10月15日発行)

 詩を読みながら、私は詩の読者としては失格だなあ、と思う。一篇の作品として何が書いてあるかということ、「意味」を考えることがない。一篇の「意味」に興味がない。一篇の「意味」よりも、ことばの動きそのものが気になる。気に入ったり、気に食わなかったりする。そして、気に入ったことだけを書く。というのは、嘘で、気に食わないことを書きはじめると、これが止まらなくなる、ということがある。
 きょうは、どうなるか。
 吉田文憲「残されて」は書き出しがとても気に入った。「わかりたい」という気持ちになった、ということである。「わからない」。だけれど、そこに刺戟的なものがあり、それを「わかりたい」。つまり「誤読」したい。私の「肉体」を吉田のことばに重ねてみたい。

影の分子と光の分子が混じり合いついで逆流しまた分離しながらそれぞれのあるべき
場所に収まっている。それがこの詩の「はじまり」なのだ。

 何が書いてあるのか、具体的なことは、わからない。だいたい詩の一行目を書いておいて、「それがこの詩の「はじまり」なのだ。」とは何事だろう。そんな説明をされなくたって、「残されて」という詩は、はじまっている。
 何かおかしい。何か、変。
 で、読み直すのだが。
 「影の分子と光の分子……」というのは、実際の「状況(風景/光景)」、あるいは「こと」というものではなく、それを「説明」したものである。「それがこの詩の「はじまり」なのだ。」と吉田は書いているが、「はじまり」は「影の分子と光の分子……」よりも前に起きている。その起きている「こと」を言い直すと「影の分子と光の分子……」ということになる。
 つまり、「詩」とは「言い直し」なのである。
 これは変に見えるかもしれない。変に感じられるかもしれない。しかし、考えてみれば、そうなのである。
 何か「こと」が起きる。あるいは「もの」がある。それはことば以前である。ことばがなくても「こと」は起きるし、「もの」は存在する。それを「ことば」でとらえなおすとき、詩が生まれる。(あるいは文学が生まれる。)「ことば」は「こと/もの」を「こと/もの」以外のもので「言い直す」ためのものである。そして「言い直したことば」が詩。
 「言い直す」という「言い回し」のために、奇妙な混乱をまねいてしまうのだが、これを「絵」と「色(形)」で把握し直すとわかりやすくなるかもしれない。
 リンゴがある。それを「色」と「形」でとらえ直すと「絵」になる。この「とらえ直す」を「ことば」の場合に置き換えると、「言い直す」になる。もちろん、「とらえ直す」でもいいのだが、「ことば」が主語だから、そこに「言う」という動詞が自然に入り込み、「言い直す」という表現になる。
 初めてのことであっても「言い直す」になってしまう。
 だから、ややこしくなるのだが、この「ややこしさ」を解消するために、「言い直す」ではなく「とらえ直す」と言い換えてしまうと、状況が整理されすぎて、おもしろくなくなる。
 何かめんどうくさい、何かややこしい、という感じのときの方が、「頭」ではなく「肉体」が動いていて、なまなましい。
 「言い直す」というとき、「口」が動く。「とらえ直す」というとき、「手」が動く。「ことば」は「手」で動かすものではないから、「とらえ直す」では、「動詞」が「比喩」なってしまう。そしてその「比喩」は「頭」のなかで「もの/こと」を抽象的に整理してしまう。それがおもしろくなくなる原因である。「言い直す」は「言う」という動詞のために「比喩」になりきれずに「肉体」を刺戟してくる。その刺戟が「わかる」という感じになる。
 あ、これは、私の場合であって、ひとによっては、「頭」できちんと整理された「抽象」(概念)が「わかりやすい」、そして「正しい」と思うかもしれない。

 脱線した。
 いや、断線はしていないが、どんどん遠ざかっているのか。

 詩に戻る。
 「影の分子と光の分子……」が、何か、そのことば以前のものを説明しているのとしたら、何を説明しているのか。
 それが次の部分だ。

声が触れうるものを越えたところで、君は倒れた。這いずりまわった泥と草が、その
せつな君に一瞬の陶酔をもたらした。それから呼吸が穏やかになった。あえいでいた
あなたかもしれない。

 どうやら「君は倒れた」らしい。倒れて、泥と草の上を転がった。「声が触れうるものを越えたところで」というのは、「あっ」と叫ぶ間もなく、倒れた、ということだろう。倒れて、「這いずりまわった」。そして、倒れたとき、「一瞬の陶酔」を感じた。頭を打って、一瞬、意識を失いかけた。それが「陶酔」。
 この「陶酔」を「言い直し」ているのが、「影の分子と光の分子……」という文なのだ。「意識の喪失/陶酔」の瞬間は「光と影」の見分けがつかない。「混じり合い」はふたつのもの(影と光)が同じ方向に動いているからではなく、ぶつかるように動くから「混じりあう」。そのとき一方は他方からみれば「逆流」ということになる。それは「混じり合い」のあと、「分離」する。「陶酔」から覚醒し、「光」は「光」として、「影」は「影」として見えるようになり、「形」があらわれる。
 「倒れた」ということに気がついたとき「泥と草」が見えた。転がったあとが「這いずりまわった」あととして見えてきた。
 それから呼吸をととのえる。「呼吸が穏やかになった」。
 このことを、吉田は、さらに言い直している。

頭上を雨雲が通り過ぎた。傍らに横倒しになった自転車の車輪が見えた。

 そうか、自転車に乗っていて、転んだのだ、ということがここにきてわかる。
 吉田の描写は、ことばが「逆流」して、「意識」から「事件(事実)」へと引き返していく。ことばは一般的に具象(もの/こと)から抽象(意識/意味)へと進むのだが、吉田は逆の方向へことばを動かしている。この動きが新鮮でおもしろい。
 で、ここで、いったん詩(ことば)はほんうとに「はじまり」にもどり、詩のなかの主人公(?)は自転車に乗っていたけれど、倒れて、転んで、気を失いかけたのだけれど、いまは倒れたということを意識しているのが「わかる」のだが、
 その「わかる」は違うかもしれない。
 とても変な文が、その「わかる」のあいだに挟まっている。

あえいでいたあなたかもしれない。

 自転車で倒れた人を吉田は「君」と読んでいた。その「君」が「あなた」になっている。「人称」が変わっている。これは何なのだろう。
 だいたい倒れたのが「話者(吉田と仮定しておく)」なら、「君に一瞬の陶酔をもたらした」ではなく「私に」、あるいは「ぼくに」一瞬の陶酔をもたらした、となるはずである。「君」は「私/ぼく」を客観化して描写するための「呼称」なのか。
 でも、それをさらに「あなた」と「言い直す」のはなぜか。
 ことばは、ここから、いままでとは違う方向へ動きはじめている感じがする。
 詩はつづいていく。

皺寄った皮膚のくぼみにいなくなった馬の瞳が動いている。そこにもの言えぬ口を運
んでいた。

それから立ちあがり降りそそぐ雨のなかを足を引きずりながら帰ってきた。

泣いていたのはわたしかもしれない。

あえいでいたのはあなたかもしれない。

 「君」は完全に消えて、「わたし」と「あなた」が交錯する。見分けがつかなくなる。この「交錯」に「自転車」と「馬」が交錯する。誰かが自転車で倒れた。誰かが馬から落ちて倒れた。誰かが「泣いた」。誰かが「あえいだ」。
 それは「影の分子」と「光の分子」のように「混じり合い」区別がつかない。区別がつかないが、それは区別をする必要がないからだ。「わたし」が自転車で倒れたとき、その痛みを「あなた」は「共有」した。共有することで「わたし」と「あなた」は「ひとり」になる。「あなた」が馬から落ちて倒れたとき、その苦しみを「わたし」が共有した。共有することで「ひとり」になった。
 互いの痛みを自分の痛みとして感じることができる「過去」があった。
 それを、いま、思い出している。「肉体」が思い出している。
 「わたし」が自転車で倒れたとき、「わたし」は「あなた」が馬から落ちて倒れたときの痛み、そのときに見た世界がこんなものだったろうかと、「肉体」で追体験したことになる。いま「追体験」しているということを、ことばで「言い直す」。そのとき、「いま/ここ」に「あなた」がいない、「あなた」の記憶が残されている、あるいは「わたし」の「肉体」が「あなた」から切り離されて「いま/ここに」残されているということが、強く実感として押し寄せてくる。

それがこの詩の「はじまり」なのだ。

 「残されている肉体」を「ことば」で「言い直す」。単に自転車で倒れたという「こと」だけではなく、それを「残されている肉体」のこととして「言い直す」。そうすると、それが抒情詩になる。
 ということを書いた「メタ詩」なのだろう。

 この詩は、さらに大きな空白を挟んで、別の連を持っているのだが、その部分にまでことばを動かしてみるのは、かなりめんどうくさい。
 前半部分のことばの運動がおもしろかったので、それだけで私は満足してしまった。吉田がほんとうに書きたいことが後半にあるのかもしれないけれど、私が読みたいのは前半だから、その前半だけについての感想にした。
生誕
吉田 文憲
思潮社
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