詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「パラパラ、」

2016-06-09 09:29:31 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「パラパラ、」(「朝明」創刊号、2016年05月08日発行)

 北川朱実「パラパラ、」は一連目が非常に魅力的。

草が生えたアスファルトが
妙にふくらんで
ワニが飛び出してきそうだ

 「ワニ」が唐突でおもしろいのだが、この「唐突」の前にある、

妙にふくらんで

 この、まるっきり「散文」という感じのことばが絶妙だ。
 アスファルトを突き破って草が生えてくる、というのは日常的な景色である。草が生えている部分はひびわれている。その周辺は、ときにはふくらんでいる。具体的に、そのふくらみを表現することはむずかしい。具体的にことばにできたら、きっと、その一行が「詩」である。ここを「具体的に」、つまり「詩的に」は書かずに、「妙に」という気楽で、気安いことばでやりすごし、そのあとに、「ワニ」。
 日本の街中で、そんなものが出てくるはずがない。だから「唐突」と感じるのだが、この唐突さ、あるいはでたらめさの瞬間に、見えていた風景が破壊され、消えてしまう。
 そこが、「詩」。

 二連目、

深夜の都会の裏通り
金属の筒をしきりに地べたにあてて
盗聴する人

 「ワニが飛び出してきそう」というのは、私には「真昼」にしか思えない。深夜はワニは眠っているだろうし、深夜にアスファルトのふくらみなど見えない。見えにくい。真昼の光がつくりだす光のつや、うっすらとひろがる影が「ふくらみ」を感じさせる。
 「ワニ」も唐突だったが、その「ワニ」の「真昼」から「深夜」へと時間が瞬間的に変わってしまうのも唐突だ。
 「アスファルト」がかろうじて「都会」へとつながっている。しかし、「都会」じゃなくても、いまの日本はアスファルトだらけ。
 「金属の筒をしきりに地べたにあてて/盗聴する人」というのは、わざとらしいねえ。三連目で言い直すために、わざと、そう書いている。

--水道管の水漏れは 乾いた音がします
  人の笑い声に似ています

 「盗聴する人」は「水道管の水漏れ」を検査する人。
 そう言い直したあとで「水漏れの音」を「乾いた音」と言い直し、さらに「人の笑い声」と言い直す。「水」と「乾いた」は矛盾している。相いれない。そういうものが衝突すると「唐突」という感じがする。
 「唐突」というのは、別なことばで言い直すと「はっとする」。驚く。
 こういう「驚き」を「詩」と呼ぶことができる。
 北川は、「唐突(驚き)」を「詩」と考えているのだろう。「唐突」を「唐突」として、出現させる。
 しかし、どんな「唐突」なことであっても、自分でことばにしてしまったら、その瞬間から、それは書いた人にとっては「唐突」というよりも「自然」あるいは「必然」になる。自分の「ことば」をくぐるということは、「知ってしまうこと」あるいは「わかってしまうこと」だから。
 さて、どうする?
 北川は、「唐突」を持続させるために、「唐突」と同時に、「持続」を持ち込む。「地続き」を持ち込む。
 「アスファルト=都会」「草=裏通り」「盗聴=音」「盗聴する人=水漏れ検査をする人」「ワニ=水」「アスファルト=地べた」「乾いた音=笑い声」
 なにかしらの「持続」があって、その上で「切断」があり、「持続」があるからこそ「切断」が「唐突」になりうる。
 この「持続/切断」の関係は、増えるたびに世界を「拡大」させる。「拡散」させる。そして、このとき「詩」は「唐突」はなく「拡散」という形になる。世界のひろがり方、ちらばり方、散らばった世界をつなぐ存在としての「肉体=北川」が、その中心にあらわれてくる。
 「あらわれてくる」とは言っても……。
 ちょっと、「超絶技巧的」かもしれない。
 四連目、

目の中をスコールが渡って
こぼれた空のようなポンチョと
カヤツリ草で編んだサンダルを履いて
サバンナの国からやってきた青年は

 うーん、「水漏れ」の「水」は「スコール」へと接続し、「スコール」は「サバンナ」に、「サバンナ」は逆戻りして「草」へとつながり、一連目を呼び戻すのだが。「盗聴する人」は「青年」かどうかわからない。サバンナの国からやってきた青年が、日本の(?)都会で水漏れの検査をするかどうかわからない。
 「スコール」は「雨=水」だが、それは「空からこぼれてくる」。「こぼれてくる」ものは「水」なのだが、量が多いので「空がこぼれてくる=落ちてくる」という感じかもしれない。
 そういう魅力的なことばを含みながら、さらに、二転三転して、「パラパラ、パラパラ、」という行を挟んで、

パラパラ、パラパラ、

乾いた音がこぼれるたびに
遠い草原が雨になる

考えごとをしながら
ほこりを巻き上げてやってくるバスも濡れて

 と作品は閉じられる。
 なんだか「予定調和」みたい。二連目の「深夜」はもう遠くへ消え、一連目の「真昼(ことばとしては直接書かれていないが)が戻ってくる。「草が生えたアスファルト」は「ほこり」と「バス」に、(この「バス」は「ワニ」かもしれない)、詩を貫いていた「水」は「濡れる」という動詞でよみがえり、そこにも「ワニ」がひそんでいるかもしれない。この、「調和」。「予定調和」の「意味」もはっきりわからないまま、私は、思ってしまうのだった。あまりにも「技巧的」、これが「予定調和」というものだったら。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
コメント
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