為平澪『盲目』(土曜美術社出版販売、2016年07月24日発行)
為平澪『盲目』。タイトルとなっている「盲目」については、雑誌で読んだとき、感想を書いたと思う。詩集のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。
そのとき書いたかどうか記憶にないが、この作品が「肉体」に響いてくるのは、ことばにリズムがあるからだ。肉体部位(?)、手、口、足、耳が繰り返し出てくる。この繰り返しがリズムをつくる。同じことばを行き来することで、関係が緊密になる。その緊密感がリズムだ。
で、たぶん、前回読んだときは気づかなかったのだが、このリズム、ことばとことばの往復が、為平の場合、実は「音楽」ではなく「論理」である。ことばに「リズム」があるのではなく、「論理」にリズムがある。
どういうことかというと、
二行目の「ので」は「理由」、四行目には「その結果」ということばは書かれていないが、ことばの奥で動いている。「……したので、……となった」という「構文」が隠れている。「……したので、……となった」は直結しているわけではなく、途中に「……して」という経過を含んでいるのだが。
三連目、
ここには「鼻が利いたので」と「ので」が出てくるほかに、
という形で「ので」が隠れている。「理由」があって「行動」するのだ。そして、「行動」は必然的に「結果」へとたどりつく。
こういうとき、「詩」は「結果」にあるのではない。「……ので、……した、その結果……になった」でいちばんおもしろいのは、実は「……して」の部分、「経過」の部分である。その「経過するための行為」が思いがけないとき、そこに詩を感じる。驚いて、立ち止まり、えっ、どうして?と思う。
「論理」の「意識」が揺さぶられる。
為平の詩は、そうやって成立している。
こういう場合。
(これから先は、私の、わがままな注文、というか……。)
「……して」の部分が、予想外ではないと、「論理」がとてもしつこくなり、読むのがめんどうくさくなる。
たとえば、「レンタル長女」の場合、
三行目の「吐き気を催し、」がしつこい。このことばによって、口から長女がレシートのように出てくるイメージがわかりやすくなるのだが、その「わかりやすい」が「予想外ではない」ということ。
こういうときは、「わかりやすい」ではなく、えっ、どういうこと? わからない、と感じさせることが大切。
「盲目」の場合、文句を言っているのは「口」。なのに、口ではなく「手」を「切り落として」いる。そして「口」に食わせている。文句を言っているのが「口」なら「口」を切り落とせばいいのに、「手」の方を切り落とす。そこに、一種の「論理」の飛躍があり、それが驚きを呼び覚まし、瞬間的に「現実」から意識が離脱する。
これが「詩」だね。
「レンタル長女」の場合、「吐き気を催し、」を省略すると、飛躍が生まれ、ことばがいきいきする。「詩」が強くなると思う。--試しに、省略して読んでみてください。
「論理」の確かさが為平のことばの運動を支えているのだが、その「論理」をどこかで省略すると、為平のことばはもっとスピードが出てきて楽しくなるだろうなあ、と思う。
為平澪『盲目』。タイトルとなっている「盲目」については、雑誌で読んだとき、感想を書いたと思う。詩集のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。
目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言うので
うるさい手を切り落として 口に食わせた
口は満足そうに 黙ってくれた
足は突っ立て進むことしか能がないと
耳が教えるので
足を売って耳栓を買った
耳は都合のいいことしか 言わなくなった
そのとき書いたかどうか記憶にないが、この作品が「肉体」に響いてくるのは、ことばにリズムがあるからだ。肉体部位(?)、手、口、足、耳が繰り返し出てくる。この繰り返しがリズムをつくる。同じことばを行き来することで、関係が緊密になる。その緊密感がリズムだ。
で、たぶん、前回読んだときは気づかなかったのだが、このリズム、ことばとことばの往復が、為平の場合、実は「音楽」ではなく「論理」である。ことばに「リズム」があるのではなく、「論理」にリズムがある。
どういうことかというと、
目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言う「ので」
うるさい手を切り落として 口に食わせた
(その結果)口は満足そうに 黙ってくれた
二行目の「ので」は「理由」、四行目には「その結果」ということばは書かれていないが、ことばの奥で動いている。「……したので、……となった」という「構文」が隠れている。「……したので、……となった」は直結しているわけではなく、途中に「……して」という経過を含んでいるのだが。
三連目、
足を失って 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて 腸を犬に与えた
犬は鼻が利いたので私が捜している
死体の所まで 私を乗せて運んでくれた
ここには「鼻が利いたので」と「ので」が出てくるほかに、
足を失って(失ったので) 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて(なりたくなったので) 腸を犬に与えた
という形で「ので」が隠れている。「理由」があって「行動」するのだ。そして、「行動」は必然的に「結果」へとたどりつく。
こういうとき、「詩」は「結果」にあるのではない。「……ので、……した、その結果……になった」でいちばんおもしろいのは、実は「……して」の部分、「経過」の部分である。その「経過するための行為」が思いがけないとき、そこに詩を感じる。驚いて、立ち止まり、えっ、どうして?と思う。
「論理」の「意識」が揺さぶられる。
為平の詩は、そうやって成立している。
こういう場合。
(これから先は、私の、わがままな注文、というか……。)
「……して」の部分が、予想外ではないと、「論理」がとてもしつこくなり、読むのがめんどうくさくなる。
たとえば、「レンタル長女」の場合、
長女でしょ! しっかりしなさい! と言われる度に、長女なんだから、
長女なんだから、長女なんだから、長女なんだから…と、いいきかせたら
吐き気を催し、長女の羅列が、止まらないレシートのように繋がって、口
から出てきました。
三行目の「吐き気を催し、」がしつこい。このことばによって、口から長女がレシートのように出てくるイメージがわかりやすくなるのだが、その「わかりやすい」が「予想外ではない」ということ。
こういうときは、「わかりやすい」ではなく、えっ、どういうこと? わからない、と感じさせることが大切。
「盲目」の場合、文句を言っているのは「口」。なのに、口ではなく「手」を「切り落として」いる。そして「口」に食わせている。文句を言っているのが「口」なら「口」を切り落とせばいいのに、「手」の方を切り落とす。そこに、一種の「論理」の飛躍があり、それが驚きを呼び覚まし、瞬間的に「現実」から意識が離脱する。
これが「詩」だね。
「レンタル長女」の場合、「吐き気を催し、」を省略すると、飛躍が生まれ、ことばがいきいきする。「詩」が強くなると思う。--試しに、省略して読んでみてください。
「論理」の確かさが為平のことばの運動を支えているのだが、その「論理」をどこかで省略すると、為平のことばはもっとスピードが出てきて楽しくなるだろうなあ、と思う。
割れたトマト (現代詩の新鋭) | |
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