自民党憲法改正草案を読む(5)(2016年06月26日)
「第一章 天皇」。
どこが違うか。「象徴」は同じ。「日本国民の総意に基づく」も同じ(仮名遣いは考慮に入れない)。「元首」が改正案でつけくわえられたことばである。
「元首」は、とてもひっかかるが、私は「名詞」ではなく「動詞」を中心にことばを読むところからはじめたい。
詩を読むとき、私は「動詞/述語」に注目して、そこに書かれていることをつかみ取る。同時に、ひとは大事なことを繰り返すということに注目し、同じことをどんなふうに繰り返しているか、そのことにも注目している。その、詩を読む方法を憲法にもあてはめて読んでみる。
私が最初に注目するのは、現行憲法の、
という部分。「象徴である」という「述語」が二回繰り返されている。改正案は、
と一回ですませている。
「意味」は同じであるように思える。同じことばを繰り返しつかうのは、「へたくそ」な日本語かもしれない。学校作文なら一回でいいと「添削」されるかもしれない。
なぜ、二回繰り返したのだろう。
私は、ここから考えはじめる。「法律家」ではないので、あくまで、そういうことばをつかうとき、ひとは何を考えているか。詩にこういう表現があったとき、私はどう読むかというところからはじめる。
これは、
と、ことばを入れ替えても、意味は変わらないと思う。「象徴である」という「述語」は「天皇」という「主語」としっかり結びついている。そして、この「入れ替えが可能」ということは、裏を返せば「日本国」と「国民の統合」が同じものであるという証明だと思う。「日本国」とは何か、と問われたら、ここから「国民統合」(国民を統合したもの)であると答えることができる。「日本国=国民統合」という対等の構図が「日本」という国の定義になる。
図式化すると「天皇=日本国の象徴」「天皇=国民統合の象徴」というふたつの「等式」から「日本国=国民のあつまり(統合)」が導き出され、さらにここから「天皇=日本国=国民統合(国民のあつまり)」という関係が浮かび上がる。「天皇」「日本国」「国民」は「象徴」ということばで、すべてイコール(等しいもの/対等なもの)になる。
改正憲法ではどうか。
「及び」ということばの「意味」がむずかしい。現行憲法をわざわざ書き直しているのだから「違う」という視点に立って見るべきだろう。「日本国」の象徴であり「国民統合」の象徴ではなく、あくまで「日本国及び国民統合」の象徴なのだ。「日本国」と「国民統合(国民のあつまり)」はイコールではない。「日本国」と「国民統合」を改正憲法は「入れ替えたくない」のである。イコールにしたくないのである。「日本国」が最初にきて「国民統合」があとにくる。その「日本国→国民統合」という構図が「日本国」の定義になっている。国民がいて国があるのではなく、国があり、その下に国民がいる。この「国→国民」という関係を天皇が「象徴する」。「天皇→日本国→国民」という関係が、ここから浮かび上がるかなあ。
ここから、改正案に挿入された「元首であり」にもどってみる。
これは、
また
ということになる。
ここに「国→国民」という構図をあてはめると、「元首」はどこに入るだろうか。「元首→国→国民」とならないだろうか。そして、それは「天皇=元首→国→国民」ということにもなるのだが、「国民」がいちばん下にきてしまう。改正憲法の「前文」に「国民主権の下」という文言があるが、「主権をもつ人間」がいちばん下にくるのは、まずい。矛盾している。だから、その矛盾、主権者の国民がいちばん下の位置にくるという関係を隠すために、「国民統合の象徴=天皇」を持ち出し、「天皇=元首→国→国民=天皇」という奇妙な「幻(=循環構造)」に仕立ててしまう。「幻」のなかで「国民」がいちばん下(支配される人間)であることがあいまいになる。
改正憲法では「国民」が支配される人間になるのだが、その「事実」を奇妙な言い回しで、意識的に隠しているように思える。
少しことばが先走りすぎたかもしれない。
「元首」の「意味」をもうすこしていねいに考えてみたいのだが、その前に「象徴」ということばを振り返ってみる。
たとえば「赤い薔薇」は「美の象徴」である、という言い方がある。愛している女性を「赤い薔薇」と呼ぶとき、それは「恋人=赤い薔薇(比喩)」であり、「赤い薔薇=美(象徴)」ということになる。「赤い薔薇」と「美」は「具体的存在」と「抽象的概念」と区別して言うことができるから「同じもの」ではないが、ことばを動かしている人間にとっては(ことばを聞いている人間にとっては)、「同じもの(イコール)」である。(「比喩」は、具体的なものを別な具体的なものでいいなおすこと、「象徴」は具体的なものを抽象的なものと結びつけて同じであるということ、と考えることができる。)
「象徴である」は「同じものである(イコールである)」という「意味」としてとらえなおすことができる。厳密には違うだろうけれど、通い合うものがある。「同じもの」は抽象的に言い直すと「同等のもの/対等のもの」ということになるかもしれない。恋人を「赤い薔薇」と呼ぶとき、「赤い薔薇」は「美」という概念と「同等のもの/対等のもの」である。
だから、現行憲法の、
というのは、
と「強引に」言い直すことができる。天皇は別に偉くないのである。「象徴/意味の目印」なのである。
さて。「元首」。改正憲法は「元首」を「定義」していないし、そのことばが出てくるのも一回だけなので、「主語/述語」の関係から「内容」を特定することがむずかしい。だから「常識」から判断するしかないのだが……。
「元首」というのは「ひとり」である。ひとつの国に「元首」が一億人いたら、それは「元首」ではない。「特別な存在」である。「特別な存在(ひと)」という意味では「天皇」と似ている。「象徴」というのも「特別なひと」に通じるかもしれない。だれもが「象徴」になれるわけではない。
この「元首」と呼ばれるひとは、ほかのひととどう違うか。私の知っていることをつなぎあわせると、「元首」は多くの人を代表するほかに、多くの人を支配する。たとえば北朝鮮の金総書記。「代表する」ときは「対等/同等」かもしれないが、「支配する」ときは「対等/同等」ではない。「支配者」である。
この「元首=他とは対等/同等ではない存在/支配者」と、先に見た「象徴=他とは対等/同等のものである」ということばを、改正草案にあてはめて読み直すとどうなるか。
ということになる。
「国民とは違う特別なひと/支配者」であると「国民と対等の意味をもつひと」であるというのは相いれない。矛盾する。
この「矛盾」を解消するために、
という文を改正憲法はつづけるのだろうか。
このとき「総意に基づく」は「国民の了解を得た」という意味である。「矛盾」していても、それでいい「国民が認めた」と、その「矛盾」を押しつけている。「国民」のせいにしている。
現行憲法にも「総意に基づく」という同じ文章があるが、「対等/同等である」のだから、別に反対する必要はないだろう。
それに「この地位は」の「この」にも注目しよう。「この」は自分の身近にあのものをさすときにつかう。「対等/同等」の感覚があるから、それは「身近」なのだ。
「この地位」は「天皇は象徴であるという地位」はであると同時に、「天皇と国民は支配/被支配の関係にない(対等である)」という意味でもあるだろう。
「この」のなかには「国民」が含まれる。
改正草案は、「この地位は」と言わずに、「その地位は」と言っている。少し「離れた」ものとして「天皇の地位」を考えている。なぜ、離れるかといえば「対等/同等」ではないからである。「国民」と一緒にしてはいけないから、「その」ということばで距離をつくりだす。「特別な存在」だから、「特別」を強調するために「その」ということばで切り離すのである。「その」には「国民」が含まれない。
で、もう一度、
にもどる。
これは、
ということになるのはすでにみてきた。「日本国民」がいなければ「日本国」の「元首」にはなりえない。「国民」を必要としている。
「元首である」を「支配する」と言い換えると、
あ、これでは、何か「まずい」ものがあるね。それが「まずい(露骨)」ものだからこそ、
と現行憲法にあったことばをそのまま借用して「まずい」部分を隠す。現行憲法と「同じ」を装う。さらに「総意に基づく」とだめ押しすることで、「国民はそうなることを選んだ」と言うのである。
うーん。
でも、天皇がほんとうに「元首」になってしまったら、「政治」はどうなる? 天皇がすべてを決める? だいたい、天皇が「元首=支配するひと」になりたがるかなあ。なってくれるかなあ。「特別な人間ではない=人間宣言」をした天皇(の子孫)が再び「特別なひと」をそのまま受け入れるとは思えない。
だからだろう。改正憲法は、第五条で、
と、つけくわえる。この文言を読むと「元首=何でもできる偉いひと」というイメージは消える。
「元首」なので憲法に従い「国事」は行うが、「元首」なのに「政治(国政)」には関与しない。「元首」であるけれど、「政治」は行わない。
じゃあ、だれが「政治(国政)」を行うのか。そう考えるとき、ここから違う風景が見えてくる。
改正憲法の「天皇」の部分には書いていない。常識(あるいは現実)に即して考えると「内閣(行政府)」であり、その長である「内閣総理大臣」だね。
何だかよくわからないが、これは「虎の威をかる」という感じだなあ。天皇を「元首」という地位に置いておいて、その天皇には権限を与えず、内閣がかわりに「政治」をするということかな。
そうは書いていないのだが、思わず、そういうふうに読み直してしまう。(行政は……のくだりがないのは、「第一章」のテーマが「行政」ではなく「天皇」だからである。そこに書くことができないから、書いていないのである。)
このとき、
は、
というふうに読めてしまう。「元首」としての権力を行使するわけではない、つまり実体がないのだから「象徴」というしかなくなる。
このとき、
は、どういうことになるのだろうか。繰り返しになるが「実権をもたない」ということになる。「象徴」とは「実体」ではない。「実」を含まない。いわば「虚」である。
これを「実」にかえるためには、どうしても「実行者」が必要になる。
「元首」のかわりに「首相」が必要になるということを意味する。「元首」の仕事を誰かにまかせなければならなくなる。
「天皇(元首=象徴)→国→国民」ではなく、
という形にならざるを得ない。
でも「元首」を「象徴」と言い直し、それを「首相」が代行し、権力をふるうと、「象徴」ということばを媒介にして、「天皇=首相」という「算数」が成り立ってしまう。
ここから「内閣総理大臣→天皇(元首)→国→国民」という図式が見えてきてしまう。内閣は天皇という存在を象徴として利用し、国と国民に権力をふるうということが見えてきてしまう。でも、これでは「まずい」ので、なんとか「天皇→内閣総理大臣→国→国民」という形を「幻想」として国民にみせようとしているのではないか。しかも、その「幻想」は「国民が求めたもの」という形にしたいのではない。
そういうことを感じさせるのは、改正案の第六条があるからだ。
現行憲法では、第六条は
現行憲法には存在しない「国民のために」という文言が、改正案では、わざとらしく挿入されている。これは「内閣総理大臣が国民を支配するぞ」という意志を隠すための「嘘」だ。「国会」が「選挙によって選ばれた議員」によって構成され、その議員が総理大臣を選ぶなら、それは国民の選んだ総理大臣ということになるのだから、わざわざ「国民のために」ということばなどいらない。
必要な部分に「国民」ということばを省略し、不要な部分に「国民」ということばを補っている。これは天皇がわざわざ国民のためにしていること、天皇がお墨付きであるといいたいのだ。天皇を利用しているのだ。
「国民のための」憲法を装いながら、「国民を支配するための」憲法をつくろうとしている姿勢が、天皇について触れた部分からもうかがえる。「国民」とか「主権」とかいうことばを、なんだか国民をごまかすためにつかっているような気がしてならない。
「象徴」ということばを引き継ぎながら、「象徴天皇」を隠れ蓑にしようとしている。
(ほかにも書きたいことがあったのだが、目が痛くなって、忘れてしまった。)
「第一章 天皇」。
第一条
天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。(現行憲法)
第一条
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。(自民党改正案)
どこが違うか。「象徴」は同じ。「日本国民の総意に基づく」も同じ(仮名遣いは考慮に入れない)。「元首」が改正案でつけくわえられたことばである。
「元首」は、とてもひっかかるが、私は「名詞」ではなく「動詞」を中心にことばを読むところからはじめたい。
詩を読むとき、私は「動詞/述語」に注目して、そこに書かれていることをつかみ取る。同時に、ひとは大事なことを繰り返すということに注目し、同じことをどんなふうに繰り返しているか、そのことにも注目している。その、詩を読む方法を憲法にもあてはめて読んでみる。
私が最初に注目するのは、現行憲法の、
天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、
という部分。「象徴である」という「述語」が二回繰り返されている。改正案は、
天皇は、(略)、日本国及び日本国民統合の象徴であって、
と一回ですませている。
「意味」は同じであるように思える。同じことばを繰り返しつかうのは、「へたくそ」な日本語かもしれない。学校作文なら一回でいいと「添削」されるかもしれない。
なぜ、二回繰り返したのだろう。
私は、ここから考えはじめる。「法律家」ではないので、あくまで、そういうことばをつかうとき、ひとは何を考えているか。詩にこういう表現があったとき、私はどう読むかというところからはじめる。
天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、
これは、
天皇は、国民統合の象徴であり日本国の象徴であつて、
と、ことばを入れ替えても、意味は変わらないと思う。「象徴である」という「述語」は「天皇」という「主語」としっかり結びついている。そして、この「入れ替えが可能」ということは、裏を返せば「日本国」と「国民の統合」が同じものであるという証明だと思う。「日本国」とは何か、と問われたら、ここから「国民統合」(国民を統合したもの)であると答えることができる。「日本国=国民統合」という対等の構図が「日本」という国の定義になる。
図式化すると「天皇=日本国の象徴」「天皇=国民統合の象徴」というふたつの「等式」から「日本国=国民のあつまり(統合)」が導き出され、さらにここから「天皇=日本国=国民統合(国民のあつまり)」という関係が浮かび上がる。「天皇」「日本国」「国民」は「象徴」ということばで、すべてイコール(等しいもの/対等なもの)になる。
改正憲法ではどうか。
天皇は、(略)、日本国及び日本国民統合の象徴であって、
「及び」ということばの「意味」がむずかしい。現行憲法をわざわざ書き直しているのだから「違う」という視点に立って見るべきだろう。「日本国」の象徴であり「国民統合」の象徴ではなく、あくまで「日本国及び国民統合」の象徴なのだ。「日本国」と「国民統合(国民のあつまり)」はイコールではない。「日本国」と「国民統合」を改正憲法は「入れ替えたくない」のである。イコールにしたくないのである。「日本国」が最初にきて「国民統合」があとにくる。その「日本国→国民統合」という構図が「日本国」の定義になっている。国民がいて国があるのではなく、国があり、その下に国民がいる。この「国→国民」という関係を天皇が「象徴する」。「天皇→日本国→国民」という関係が、ここから浮かび上がるかなあ。
ここから、改正案に挿入された「元首であり」にもどってみる。
天皇は、日本国の元首であり、
これは、
天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首であり、
また
天皇は、日本国及び日本国民の元首であり、
ということになる。
ここに「国→国民」という構図をあてはめると、「元首」はどこに入るだろうか。「元首→国→国民」とならないだろうか。そして、それは「天皇=元首→国→国民」ということにもなるのだが、「国民」がいちばん下にきてしまう。改正憲法の「前文」に「国民主権の下」という文言があるが、「主権をもつ人間」がいちばん下にくるのは、まずい。矛盾している。だから、その矛盾、主権者の国民がいちばん下の位置にくるという関係を隠すために、「国民統合の象徴=天皇」を持ち出し、「天皇=元首→国→国民=天皇」という奇妙な「幻(=循環構造)」に仕立ててしまう。「幻」のなかで「国民」がいちばん下(支配される人間)であることがあいまいになる。
改正憲法では「国民」が支配される人間になるのだが、その「事実」を奇妙な言い回しで、意識的に隠しているように思える。
少しことばが先走りすぎたかもしれない。
「元首」の「意味」をもうすこしていねいに考えてみたいのだが、その前に「象徴」ということばを振り返ってみる。
たとえば「赤い薔薇」は「美の象徴」である、という言い方がある。愛している女性を「赤い薔薇」と呼ぶとき、それは「恋人=赤い薔薇(比喩)」であり、「赤い薔薇=美(象徴)」ということになる。「赤い薔薇」と「美」は「具体的存在」と「抽象的概念」と区別して言うことができるから「同じもの」ではないが、ことばを動かしている人間にとっては(ことばを聞いている人間にとっては)、「同じもの(イコール)」である。(「比喩」は、具体的なものを別な具体的なものでいいなおすこと、「象徴」は具体的なものを抽象的なものと結びつけて同じであるということ、と考えることができる。)
「象徴である」は「同じものである(イコールである)」という「意味」としてとらえなおすことができる。厳密には違うだろうけれど、通い合うものがある。「同じもの」は抽象的に言い直すと「同等のもの/対等のもの」ということになるかもしれない。恋人を「赤い薔薇」と呼ぶとき、「赤い薔薇」は「美」という概念と「同等のもの/対等のもの」である。
だから、現行憲法の、
天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であつて、
というのは、
天皇は、日本国と「同等のもの/対等のもの」であり国民統合の「同等のもの/対等のもの」であつて、
と「強引に」言い直すことができる。天皇は別に偉くないのである。「象徴/意味の目印」なのである。
さて。「元首」。改正憲法は「元首」を「定義」していないし、そのことばが出てくるのも一回だけなので、「主語/述語」の関係から「内容」を特定することがむずかしい。だから「常識」から判断するしかないのだが……。
「元首」というのは「ひとり」である。ひとつの国に「元首」が一億人いたら、それは「元首」ではない。「特別な存在」である。「特別な存在(ひと)」という意味では「天皇」と似ている。「象徴」というのも「特別なひと」に通じるかもしれない。だれもが「象徴」になれるわけではない。
この「元首」と呼ばれるひとは、ほかのひととどう違うか。私の知っていることをつなぎあわせると、「元首」は多くの人を代表するほかに、多くの人を支配する。たとえば北朝鮮の金総書記。「代表する」ときは「対等/同等」かもしれないが、「支配する」ときは「対等/同等」ではない。「支配者」である。
この「元首=他とは対等/同等ではない存在/支配者」と、先に見た「象徴=他とは対等/同等のものである」ということばを、改正草案にあてはめて読み直すとどうなるか。
天皇は、日本国の元首であり(つまりたったひとりの特別なひとであり/支配者であり)、日本国及び日本国民統合の象徴であって(つまり対等/同等な意味をもつひとであって)、
ということになる。
「国民とは違う特別なひと/支配者」であると「国民と対等の意味をもつひと」であるというのは相いれない。矛盾する。
この「矛盾」を解消するために、
その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
という文を改正憲法はつづけるのだろうか。
このとき「総意に基づく」は「国民の了解を得た」という意味である。「矛盾」していても、それでいい「国民が認めた」と、その「矛盾」を押しつけている。「国民」のせいにしている。
現行憲法にも「総意に基づく」という同じ文章があるが、「対等/同等である」のだから、別に反対する必要はないだろう。
それに「この地位は」の「この」にも注目しよう。「この」は自分の身近にあのものをさすときにつかう。「対等/同等」の感覚があるから、それは「身近」なのだ。
「この地位」は「天皇は象徴であるという地位」はであると同時に、「天皇と国民は支配/被支配の関係にない(対等である)」という意味でもあるだろう。
「この」のなかには「国民」が含まれる。
改正草案は、「この地位は」と言わずに、「その地位は」と言っている。少し「離れた」ものとして「天皇の地位」を考えている。なぜ、離れるかといえば「対等/同等」ではないからである。「国民」と一緒にしてはいけないから、「その」ということばで距離をつくりだす。「特別な存在」だから、「特別」を強調するために「その」ということばで切り離すのである。「その」には「国民」が含まれない。
で、もう一度、
天皇は、日本国の元首であり
にもどる。
これは、
天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首であり、
ということになるのはすでにみてきた。「日本国民」がいなければ「日本国」の「元首」にはなりえない。「国民」を必要としている。
「元首である」を「支配する」と言い換えると、
天皇は、日本国を支配し日本国民を支配する
あ、これでは、何か「まずい」ものがあるね。それが「まずい(露骨)」ものだからこそ、
その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
と現行憲法にあったことばをそのまま借用して「まずい」部分を隠す。現行憲法と「同じ」を装う。さらに「総意に基づく」とだめ押しすることで、「国民はそうなることを選んだ」と言うのである。
うーん。
でも、天皇がほんとうに「元首」になってしまったら、「政治」はどうなる? 天皇がすべてを決める? だいたい、天皇が「元首=支配するひと」になりたがるかなあ。なってくれるかなあ。「特別な人間ではない=人間宣言」をした天皇(の子孫)が再び「特別なひと」をそのまま受け入れるとは思えない。
だからだろう。改正憲法は、第五条で、
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない。
と、つけくわえる。この文言を読むと「元首=何でもできる偉いひと」というイメージは消える。
「元首」なので憲法に従い「国事」は行うが、「元首」なのに「政治(国政)」には関与しない。「元首」であるけれど、「政治」は行わない。
じゃあ、だれが「政治(国政)」を行うのか。そう考えるとき、ここから違う風景が見えてくる。
改正憲法の「天皇」の部分には書いていない。常識(あるいは現実)に即して考えると「内閣(行政府)」であり、その長である「内閣総理大臣」だね。
何だかよくわからないが、これは「虎の威をかる」という感じだなあ。天皇を「元首」という地位に置いておいて、その天皇には権限を与えず、内閣がかわりに「政治」をするということかな。
天皇は、日本国の元首であり日本国民の元首である(日本国を支配、統治する権限をもっている)。「天皇というのは」日本国及び日本国民統合の象徴であって、実際には政治をしないし、特別な権力も発揮しない。そういう「お飾り」的な地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
(行政は、あくまで「内閣/内閣総理大臣」が行う。)
そうは書いていないのだが、思わず、そういうふうに読み直してしまう。(行政は……のくだりがないのは、「第一章」のテーマが「行政」ではなく「天皇」だからである。そこに書くことができないから、書いていないのである。)
このとき、
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、
は、
天皇は、日本国の元首という象徴であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、
というふうに読めてしまう。「元首」としての権力を行使するわけではない、つまり実体がないのだから「象徴」というしかなくなる。
このとき、
日本国の元首という象徴であり、
は、どういうことになるのだろうか。繰り返しになるが「実権をもたない」ということになる。「象徴」とは「実体」ではない。「実」を含まない。いわば「虚」である。
これを「実」にかえるためには、どうしても「実行者」が必要になる。
「元首」のかわりに「首相」が必要になるということを意味する。「元首」の仕事を誰かにまかせなければならなくなる。
「天皇(元首=象徴)→国→国民」ではなく、
元首(=首相=実体)→国→国民
という形にならざるを得ない。
でも「元首」を「象徴」と言い直し、それを「首相」が代行し、権力をふるうと、「象徴」ということばを媒介にして、「天皇=首相」という「算数」が成り立ってしまう。
天皇は元首という地位の象徴であり、天皇は実際の行政をおこなうことはなく、内閣が行政をおこなうのだから天皇は内閣の象徴である、ということになる。このとき「日本国」は「内閣」の象徴(等しい存在)になる。内閣の実施する「行政」が「日本」を形作る。「日本」を決定する。
ここから「内閣総理大臣→天皇(元首)→国→国民」という図式が見えてきてしまう。内閣は天皇という存在を象徴として利用し、国と国民に権力をふるうということが見えてきてしまう。でも、これでは「まずい」ので、なんとか「天皇→内閣総理大臣→国→国民」という形を「幻想」として国民にみせようとしているのではないか。しかも、その「幻想」は「国民が求めたもの」という形にしたいのではない。
そういうことを感じさせるのは、改正案の第六条があるからだ。
天皇は、国民のために、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命し、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長である裁判官を任命する。
現行憲法では、第六条は
天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
現行憲法には存在しない「国民のために」という文言が、改正案では、わざとらしく挿入されている。これは「内閣総理大臣が国民を支配するぞ」という意志を隠すための「嘘」だ。「国会」が「選挙によって選ばれた議員」によって構成され、その議員が総理大臣を選ぶなら、それは国民の選んだ総理大臣ということになるのだから、わざわざ「国民のために」ということばなどいらない。
必要な部分に「国民」ということばを省略し、不要な部分に「国民」ということばを補っている。これは天皇がわざわざ国民のためにしていること、天皇がお墨付きであるといいたいのだ。天皇を利用しているのだ。
「国民のための」憲法を装いながら、「国民を支配するための」憲法をつくろうとしている姿勢が、天皇について触れた部分からもうかがえる。「国民」とか「主権」とかいうことばを、なんだか国民をごまかすためにつかっているような気がしてならない。
「象徴」ということばを引き継ぎながら、「象徴天皇」を隠れ蓑にしようとしている。
(ほかにも書きたいことがあったのだが、目が痛くなって、忘れてしまった。)