林嗣夫『解体へ』(ふたば工房、2016年06月19日発行)
林嗣夫『解体へ』を読み進んでいって、26ページ「2、庭先で」という詩に出合う。
この五行を読んだ瞬間、この詩について感想を書いてみたい、と思った。
と、書いてしまうと正確ではないかもしれない。
私は、読んだ瞬間に、一本の木を思い出した。それは私の故郷の神社の欅の木である。幹まわりは八メートルくらいあるかもしれない。その幹は、樹皮がかさぶたのようになっている。それをはがしたことがある。それを思い出し、なぜか「はっ」とした。
そのとき、欅の木は「自分の樹皮」を「脱ぎ落としている」わけではない。私がむりやりはがしたのだが。
なぜ、そうしたんだろう。
私は、もしかすると、木の内部をのぞいてみたかったのかもしれない。樹皮をはがしたくらいで木の内部が見えるわけではない。しかし、何かが見たかった。
林の詩を読んだとき、その「何かを見たいと思った」私を「見られてしまった」と感じた。林から見られてしまったのではなく、あの欅の木から「見られてしまった」と、思い出したのである。木は、私を見ていた。その私はきっと「生臭い」思春期の少年だった。
私は「ひっそり」と、思春期未満の少年を「脱ぎ捨て」、男になるところだったのだ。その過渡期、変化を、どうやって通り抜ければいいのか、よくわからない。わからないまま、そこにある木、そのかさぶたのような樹皮をはがしてみたかった。
その欅の木は、私が「何か」を感じた最初の木だった。いまでも忘れることができない木である。その木に触れると、落ち着く。その木を思うと、落ち着く。あれは、私の木だ、といつも思う。
あれは、私。だから、私は、その内部をのぞいてみたかった。そして、かさぶたのような樹皮をはがした。そうしていることろを、木そのものから、見られたと思う。
私は「ひっそり」と樹皮のかさぶたをはがした。木は「ひっそり」と私を見ていた。
と、ここまで書いてきて、あ、そうか、私は「樹皮をはがす/樹皮を脱ぎ落とす」という「行為」ではなく、その「行為」を特徴づける「ひっそり」に反応していたのだと気がつく。
「ひっそり」のなかにある「生臭い」というものに反応して、それについて書きたいと思ったのだと、ふいに、気がつく。
でも。
こういうことを林は書いているわけではない。詩を最後まで読むと、
という行が出てくる。だから、林の書いている木は「桜」なのかもしれない。私が思い出す「欅」とは関係がない。
しかし、詩とはそういうものではないだろうか、とも思う。
そういうもの、というのは、いいかげんなことばだが、つまり、作者が何を書いているかではなく、読者というのはいつでも「自分のおぼえていること」を詩のなかから読み取るものなのだ。
「自分のおぼえていること」を言い表すのに、私の場合、「ひっそり」「生臭い」ということばが必要だったのだ。「ひっそり」「なまぐさい」ということばが、私のなかから「過去」を「いま」としてひっぱり出している。
そういうことを経験するのが、詩を経験するということなのだ、と思う。
私の「読み方」は間違っている。学校の「解釈のテスト」だったら、間違いなく零点である。
それでも、私は、私の「解釈」を捨てきれない。
林は「それは」と書きはじめている。
「それは」とはじめるしかないこと、「わかっている」のに「それ」を直接名指すことができない何か、「それ」としか呼べないものがあって、「それ」に動かされること、「それ」に動かされてことばを少しずつ見つけることが、たぶん、詩。
その感覚が、ふっと「肉体」をよぎっていくときが、「詩」。
あ、これでは林の詩を紹介したことにならないか。
それでも、私は、その何にもならないことを、きょうは書いておきたい。
林嗣夫『解体へ』を読み進んでいって、26ページ「2、庭先で」という詩に出合う。
それは生臭い光景だった
立ち上がった大きな木が
自分の樹皮を
ひっそりと脱ぎ落としているところを
見てしまったのだ
この五行を読んだ瞬間、この詩について感想を書いてみたい、と思った。
と、書いてしまうと正確ではないかもしれない。
私は、読んだ瞬間に、一本の木を思い出した。それは私の故郷の神社の欅の木である。幹まわりは八メートルくらいあるかもしれない。その幹は、樹皮がかさぶたのようになっている。それをはがしたことがある。それを思い出し、なぜか「はっ」とした。
そのとき、欅の木は「自分の樹皮」を「脱ぎ落としている」わけではない。私がむりやりはがしたのだが。
なぜ、そうしたんだろう。
私は、もしかすると、木の内部をのぞいてみたかったのかもしれない。樹皮をはがしたくらいで木の内部が見えるわけではない。しかし、何かが見たかった。
林の詩を読んだとき、その「何かを見たいと思った」私を「見られてしまった」と感じた。林から見られてしまったのではなく、あの欅の木から「見られてしまった」と、思い出したのである。木は、私を見ていた。その私はきっと「生臭い」思春期の少年だった。
私は「ひっそり」と、思春期未満の少年を「脱ぎ捨て」、男になるところだったのだ。その過渡期、変化を、どうやって通り抜ければいいのか、よくわからない。わからないまま、そこにある木、そのかさぶたのような樹皮をはがしてみたかった。
その欅の木は、私が「何か」を感じた最初の木だった。いまでも忘れることができない木である。その木に触れると、落ち着く。その木を思うと、落ち着く。あれは、私の木だ、といつも思う。
あれは、私。だから、私は、その内部をのぞいてみたかった。そして、かさぶたのような樹皮をはがした。そうしていることろを、木そのものから、見られたと思う。
私は「ひっそり」と樹皮のかさぶたをはがした。木は「ひっそり」と私を見ていた。
と、ここまで書いてきて、あ、そうか、私は「樹皮をはがす/樹皮を脱ぎ落とす」という「行為」ではなく、その「行為」を特徴づける「ひっそり」に反応していたのだと気がつく。
「ひっそり」のなかにある「生臭い」というものに反応して、それについて書きたいと思ったのだと、ふいに、気がつく。
でも。
こういうことを林は書いているわけではない。詩を最後まで読むと、
幹から伸びたあちこちの枝先には
春 ピンクの花をつけていたのに
という行が出てくる。だから、林の書いている木は「桜」なのかもしれない。私が思い出す「欅」とは関係がない。
しかし、詩とはそういうものではないだろうか、とも思う。
そういうもの、というのは、いいかげんなことばだが、つまり、作者が何を書いているかではなく、読者というのはいつでも「自分のおぼえていること」を詩のなかから読み取るものなのだ。
「自分のおぼえていること」を言い表すのに、私の場合、「ひっそり」「生臭い」ということばが必要だったのだ。「ひっそり」「なまぐさい」ということばが、私のなかから「過去」を「いま」としてひっぱり出している。
そういうことを経験するのが、詩を経験するということなのだ、と思う。
私の「読み方」は間違っている。学校の「解釈のテスト」だったら、間違いなく零点である。
それでも、私は、私の「解釈」を捨てきれない。
林は「それは」と書きはじめている。
「それは」とはじめるしかないこと、「わかっている」のに「それ」を直接名指すことができない何か、「それ」としか呼べないものがあって、「それ」に動かされること、「それ」に動かされてことばを少しずつ見つけることが、たぶん、詩。
その感覚が、ふっと「肉体」をよぎっていくときが、「詩」。
あ、これでは林の詩を紹介したことにならないか。
それでも、私は、その何にもならないことを、きょうは書いておきたい。
詩集 花ものがたり (林嗣夫 詩集) | |
林嗣夫 | |
ふたば工房 |