詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺武信「知っている唄」ほか

2016-06-10 11:02:24 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺武信「知っている唄」ほか(「現代詩手帖」2016年06月号)

 渡辺武信「知っている唄」には「岩田宏に」というサブタイトルがついている。追悼詩である。その一連目、

生に意味はない
とまでは言わないが
どんな意味も死の向う側には行けない
どんな功績も宝石に変わらず
どんな商売も生涯は満たせない
奔放に生きて情婦を囲っても
ひとり引きこもって毛布を被っても
順位はつけられずメダルも受けられない

 読みながら、私は、思わず「死の向う側には」という部分に棒線を引いた。「死の向こう側」って、どこ? 「死」そのものが「向う側」ではないのか。
 彼岸/此岸ということばがある。
 死んだら行くのが「彼岸」。生きているときは「此岸」にいる。
 だから「死の向う側」とは「死んだら行くことになっている向う側」ということになる。「向う側」を強調して、ことばを重複させていることになる。あるいは「向う側の死」と言い直すこともできる。これも「向う側」を強調している。
 でも、違うかもしれない。「向う側」ではなく、「向う側」ということばが隠していることばをこそ、強調しているのかもしれない。
 二連目に、その、一連目では隠されていたことばが出てくる。

どんな記憶も生と共に消える
わたしたちは ただ
こちら側に記憶を残していくだけだ

 「こちら側」。そして、その「こちら側」は「わたしたち」と同義である。
  「わたしたちの側/わたしの側/こちら側」から、岩田は「向う側」へ行った。そして、そのとき岩田は「記憶/意味/ことば」を「こちら側/わたしの側/わたしたちの側」に残して行った。
 これを渡辺は、さらに言い直している。

ひとりの詩人 言葉使いが
膨大な言葉の記憶を
わたしたちに託して去った

 岩田という詩人が、膨大な言葉を「わたしたち/こちら側」に「託して」死んだ。このとき「こちら側」にいるのは渡辺だけではない。「わたしたち」だから他の人もいる。渡辺は常に誰かと一緒にいる。誰かと一緒という感覚が「こちら側」に含まれている。「共生感覚」とでもいうのだろうか。
 読みながら、「あ、昔は、共同体だったのだ」と思い出すのだ。
 で。
 ここから、私は、唐突に詩の冒頭に戻る。

生に意味はない

 この「意味」とはなんだろう。

どんな意味も死の向う側には行けない

どんな記憶も生と共に消える

 これは、言い直しだろう。つまり、その二行は

どんな記憶も死の向う側には行けない

どんな意味も生と共に消える

 なのだが、これは正確には、

岩田が作り上げた(岩田が語った)どんな意味も死の向う側には行けない

岩田が岩田自身のなかにもっているどんな記憶も生と共に消える

 これは、さらに

岩田が作り上げた(岩田が語った)どんな意味も死の向う側には行けない
けれど、岩田が作り上げた意味はこちら側(わたしたちに)に記憶として残る
つまりわたしたちが生きるかぎり岩田は生き続ける

岩田が岩田自身のなかにもっているどんな記憶も生と共に消える
けれど、岩田が語ったことばは意味としてこちら側(わたしたち)に残る
つまりわたしたちが生きるかぎり岩田は生き続ける

 と読み直すことができる。
 こんなことは、私がわざわざ言い直したり、書き直したりしなくてもいいことなのだけれど、なぜ、こんなことを書いたかというと。
 「死の向う側」ということばに思わず棒線を引いたとき、そしてそのことばが「こちら側」ということばと強く結びついていると感じたとき、私には、ふいに渡辺武信が見えた気がしたのである。
 「ことば/意味/記憶」は「共同体」のなかで「詩」になって生きていたのだ、その「詩」を生きている渡辺が見えたのである。「共同体としての詩」を生きている渡辺の肉体が見えた気がして、とても懐かしくなったのである。
 いま、現代詩はかつてのような「共同体」をもっているのだろうか。詩人は「共同体」を生きているだろうか。

 「遠い木霊」の一連目。

死者への想いは遠い木霊に似ている
ここから呼びかけても
相手は答えず私の声だけが還ってくる

 「ここ」ということばが出てくる。「側」を含まない。(二連目からは「ここ」が「“ここ”」とちょんちょんカッコで表記されている。) 「こちら側」と書いていた渡辺が「ここ」と書いている。それにともない「わたしたち」は「私」と言い直されている。(二連目に「私たち」が出てくるが、これは「私と恋人」である。)
 この「こちら側」から「ここ」への変化は大きい。岩田を失って、渡辺は「ことばの共同体」を失ったことに気がついた。孤立しているのだと気がついた。その「孤独」が、強く感じられる。
 詩は個人のものだが、そのときの「個人」というのは「共同体」のなかでの「個人」である。詩はそれぞれに孤立したものだが、それはあくまで「共同体」のなかでの孤立というのが、渡辺の「青春」なのだ。

補記

 「共同体としての詩」は、たとえば、「どんな功績も宝石に変わらず」の「功績」と「宝石」の語呂合わせの形で「共同性」が書かれている。岩田の得意としたことばの運動だが、それを渡辺は「共有」することで岩田になろうとしている。ここから書きはじめると(あるいは読みはじめると)、また違う感想になるのだが。

続・渡辺武信詩集 (Shichosha現代詩文庫)
渡辺 武信
思潮社
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