詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩を読む方法で「自民党憲法改正草案」を読む(3)

2016-06-24 12:41:25 | 自民党憲法改正草案を読む
日本国憲法改正草案(自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定))

 その前文、

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

 この最初の文章の「主語」は何か。
 書き出しを読むと「日本国」である。しかし、途中から「日本国」は主語ではなくなる。
 国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

 この文章の主語は書かれていない。「日本国」は主語ではなく、「テーマ」である。「主題」である。
 書き出しのふたつの文についても「日本国」は主語ではなく、「テーマ」と読み返す必要がある。「日本国というのは……である」と「というのは」を補うと「テーマ」であることがはっきりする。そう読み返さないと、文章として不統一(主語の乱れ)が生じることになる。
 もちろんすべての文で「日本国」が主語であるとして読むこともできるが、そのとき主語の性質が違ってくる。(これが、実はとても大切。)「動詞」に注目して読み直す。

(1)日本国は、長い歴史と固有の文化を「持つ」。
(2)日本国は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家で「ある」。
(3)日本国は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて「統治される」。

 (3)の部分で、突然「受け身」になる。「受け身」の主語になる。ということは、そこには「能動/働きかける」主語があるはずだ。
 それは何か。
 書いていない。
 いろいろ考えながら読むと「立法、行政及び司法の三権」の「三権」が「日本国」を「統治する」という具合に読むことができる。
 でも、「三権」というのは「実態」がよく見えない。それは「人間」ではない。「人間」を補うと、その「三権の立場についた人間」ということになる。
 ここに、たとえば、私は「参加」することができる。その「一員」になることができるか。むずかしいなあ。
 でも、逆は簡単。
 「三権」に「統治される、日本国民」になることは簡単だねえ。
 「統治するひと」(三権につくひと)は少数であり、その少数のひとが多数の国民を統治するというのが、自民党草案の「意図」なのである。

 現行の憲法と比較すると、わかりやすい。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 ここでは主語は常に「日本国民」である。「正当に選挙された」という「受け身」の動詞は、国民が「正当に選挙して、選んだ」という意味である。「日本国民」は「われら」と言い直されている。「国民」が「行動する」のである。「行動させられる/統治される」のではない。
 さらに、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し

 この部分に、わざわざ「政府の行為によって」という一文があることに注目すべきである。「政府」が「国民」を支配し「戦争を起こす」ようなことがあってはいけない、と書いている。「政府」が主語になることを禁じている。「政府」の行動を縛っている。そのために憲法をつくったのである。
 「政府」が「国民」を統治するのではなく、「国民」が「政府」を「統治する」のである。「統治される」ということばの「テーマ」となっているのは「政府」である。
 ここが、自民党の改正案とまったく違う。
 このことを明確にするために、

ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

 と言い直している。「主権」は「国民」にある。あくまで「国民」が主語(主役)であって、「政府」はそれに従うもの。憲法は政府を拘束するもの、と宣言している。
 これを

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 と言い直している。この書き出しの「政府は」は主語ではなく「テーマ」。これから「政府のことについて語ります」という主題の明示。「国民に由来し」「国民の代表者がこれを行使し」「国民がこれを享受する」と、しつこいくらいに「国民」ということばを補っている。「政府」は独立して「主語」にはなりえない、と語っているのである。

 自民党の改正草案は、「国民」は「主語」ではない、と言っているのである。
 さらに注目すべきことは、自民党改正草案に出てくる「人間」である。「天皇」が「国民」よりも前に出てくる。「天皇」というのは「人間」というよりも「地位」かもしれないが、「立法/行政/司法」の「三権」に比べると、「変動(?)」の少ない「地位」である。だれでも「天皇」になれるわけではない。選挙によってえらばれるのではなく、出産/誕生によって、自動的(必然的?)に「天皇」に「なる」。
 この一種の「普遍」の「地位」(血筋?)と「三権」の関係をみていくと、どうなるか。「変化するもの」は「あてにできない」。「変化しないもの」は「あてにできる」。つぎつぎにかわる人間が「統治する」よりも、かわらない「人間/地位」が「統治する」という方が、統治のあり方としては安定するかもしれない。
 でも、自民党の改正草案には「天皇が統治する」とは書いていない。あくまで「三権」によって「統治される」(三権が統治する)と書いてある。
 しかし、片方に「絶対的」に普遍の「地位」があり、他方にひとが入れ替わる「権力」あるというのは、不安定だねえ。どうも、ぎくしゃくするねえ。これを解決するにはどうすればいいか。
 「統合の象徴」という便利なことばがある。
 「象徴」とは「実体」そのものではない。何かの代用。
 ということは、「三権」は、「象徴」を利用して、自分の意志で日本を「統治する」ということだね。

 ここで、「統治する」という動詞にもどってみる。
 自民党改正案では「三権」を主語にしているが、「三権」のうち、実際に「統治する」という行動ができるのは「立法/司法」ではない。「立法」は法律をつくること。「司法」は法が正しく反映されているか判断する。
 「行政」とは「政治を行う」こと。ここに「行う」という「動詞」がある。
 「政府」が「統治(政治)」を「行う」ということになる。
 「政府」が「天皇/象徴」を利用しながら「国民を統合する」というかたちで「統治する」ことを自民党の改正案はもくろんでいる。
 「統合する/統治する」には「統」という文字が共通している。

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し

 という現行憲法の文言が削除されているのは、

政府の行為によつて再び戦争おこすことを決意する

 が隠されていると読むべきである。「秘密保護法」「戦争法」と憲法の周辺から徐々に「統治しはじめている」のが安倍なのだ。
 そして、最初の文章を「政府」を主語として読み直すとどういうことになるか。

日本国「というの」は、長い歴史と固有の文化を持「っていると、政府は考える」、
日本国「というの」は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であ「ると政府は考える」、
日本国「というの」は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される「と政府は考える」。

 「政府」を「安倍」に置き換えてもいい。「考える」というのは、名詞化すると「思考」あるいは「思想」になるかもしれない。自民党憲法改正草案は、いわば「思想」の「押しつけ」なのである。これ以外の「思想」を持つことを許さない、と「政府(安倍)」が国民(私たち)に押しつけようとしているのである。


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ブライアン・ヘルゲランド監督「レジェンド 狂気の美学」(★★★)

2016-06-24 00:32:38 | 映画
ブライアン・ヘルゲランド監督「レジェンド 狂気の美学」(★★★)

監督 ブライアン・ヘルゲランド 出演 トム・ハーディ、エミリー・ブラウニング

 トム・ハーディの唇は女っぽくないか。上唇がめくれていて、下唇とおなじくらいの厚みがある。どうでもいいことなのかもしれないが、これが不気味。
 双子のギャングをひとりで演じているのだが、そのうちの弟(かな?)は眼鏡をかけていて、太っていて、男色家。その弟の方が、上唇のめくれかげんが大きくて、それが特に気持ちが悪い。兄の方は、いくぶん上唇を引き気味にしているのか、めくれてはいるんだけれど異様な厚みではない。で、その唇のめくれかげんというのは……。
 ことばの国(イギリス個人主義)のせいか、何と言えばいいのか、「ことば」を言う前から「内面」の声を剥き出しにしている感じがする。
 目は口ほどに物を言うというのは世界共通の感覚かもしれないが、この弟は眼鏡をかけていて、目を半分隠しているというか、間接的な「場」に遠ざけている。そのかわり、ひとが言わないようなことを「唇」で言ってしまう。「内面」の声を「唇」でさらけだしている。
 兄が、どちらかというと「内面」の声を押し隠し、「冷静」なのに対し、弟は「内面」の声をあからさまに出して「乱暴/強暴」なのだが、この正確が「唇」に出ていると、私は思う。声の出し方と言えばいいのか、発音の仕方と言えばいいのかわからないが、それも「唇」のめくれかげんを反映して、弟の方はイギリス英語なのにエッジが甘い。不明瞭。でも、その不明瞭なのに、「欲望」だけは、どろりと出ている。それが相手に伝わる。(観客に伝わる。)これが、不気味で、こわい。兄の方は、明瞭。その分、嘘っぽいものがある。「ことば」で「許した」というようなことを言いながら、殴りつける。弟はそんなことはしない。怒っているとつたえて殴る。あるいは殺す。
 唇とことばと人格。この関係がというか、こんな関係を具体的に映画にするのが、やっぱりシェークスピアの国、ことばの国、ことばと個人主義が硬く結びついているイギリスならではだなあと思う。
 映画なので。
 つまり芝居とは違って、顔をアップで見ることができるので、どうしても顔に反応して見てしまうのだが、ヒロインのエミリー・ブラウニング。この女優、キャメロン・ディアスを歪めたような顔していない? 美人なの? キャメロン・ディアスを思い出させるところをみれば、「美人」なのかもしれないけれど、「歪めている」という感じがするから「ブス(歪んでいる)」なんだろうなあ。兄の方のトム・ハーディを映画に出てくる人物が口をそろえて「ハンサム」というのだけれど、彼がギャングたちといっしょにいるときよりも、エミリー・ブラウニングといっしょのときの方が私には「ハンサム」に感じられる。
 と、いろいろ余分なことばかり書いてしまったが。
 映画は、何と言えばいいのか、シックだなあ。アメリカのギャング映画は「ゴッドファザー」を筆頭に豪華だが、(それに対抗してあえて抑制をきかせた映画もあるが)、この映画はイギリスそのもののシックさが全編を覆っている。トム・ハーディの顔もエミリー・ブラウニングの顔も、私は嫌いだが、ロンドンのシックな街並みは美しくていいなあ。貧乏なのに汚れていない、というか、「つかいこんだ」暮らしの落ち着きがある。
 貧乏な男たち(少年たち)のスポーツはボクシング。道具がなくても、できるからね。そうやってボクシングをして鍛えた「肉体」がギャングたちの「肉体」に共通するように、貧しい街並みには何か「暮らし」が鍛えた美しさが貫かれていて、それがギャングをしっかりと支えている感じがする。ときどきあらわれる「肉体」のアクションは、実に引き締まっていて、美しい映画を見るよう。かっこいい、超人的というのではなく、あくまで「現実の肉体」の完成されたアクションを見ている感じ。(ジェーソン・ボーンや最近のジェームズ・ボンドのアクションとは違うということ。)映画そのものも、この昔のつくり方を反映している。
 ということから、この映画を見直せば、たぶん★5個の映画。
 でも、私は、トム・ハーディ、エミリー・ブラウニングの「顔」にひきずられてこの映画を見てしまったので★3個どまり。
           (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ4、2016年06月23日)







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