日本国憲法改正草案(自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定))
その前文、
この最初の文章の「主語」は何か。
書き出しを読むと「日本国」である。しかし、途中から「日本国」は主語ではなくなる。
国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
この文章の主語は書かれていない。「日本国」は主語ではなく、「テーマ」である。「主題」である。
書き出しのふたつの文についても「日本国」は主語ではなく、「テーマ」と読み返す必要がある。「日本国というのは……である」と「というのは」を補うと「テーマ」であることがはっきりする。そう読み返さないと、文章として不統一(主語の乱れ)が生じることになる。
もちろんすべての文で「日本国」が主語であるとして読むこともできるが、そのとき主語の性質が違ってくる。(これが、実はとても大切。)「動詞」に注目して読み直す。
(3)の部分で、突然「受け身」になる。「受け身」の主語になる。ということは、そこには「能動/働きかける」主語があるはずだ。
それは何か。
書いていない。
いろいろ考えながら読むと「立法、行政及び司法の三権」の「三権」が「日本国」を「統治する」という具合に読むことができる。
でも、「三権」というのは「実態」がよく見えない。それは「人間」ではない。「人間」を補うと、その「三権の立場についた人間」ということになる。
ここに、たとえば、私は「参加」することができる。その「一員」になることができるか。むずかしいなあ。
でも、逆は簡単。
「三権」に「統治される、日本国民」になることは簡単だねえ。
「統治するひと」(三権につくひと)は少数であり、その少数のひとが多数の国民を統治するというのが、自民党草案の「意図」なのである。
現行の憲法と比較すると、わかりやすい。
ここでは主語は常に「日本国民」である。「正当に選挙された」という「受け身」の動詞は、国民が「正当に選挙して、選んだ」という意味である。「日本国民」は「われら」と言い直されている。「国民」が「行動する」のである。「行動させられる/統治される」のではない。
さらに、
この部分に、わざわざ「政府の行為によって」という一文があることに注目すべきである。「政府」が「国民」を支配し「戦争を起こす」ようなことがあってはいけない、と書いている。「政府」が主語になることを禁じている。「政府」の行動を縛っている。そのために憲法をつくったのである。
「政府」が「国民」を統治するのではなく、「国民」が「政府」を「統治する」のである。「統治される」ということばの「テーマ」となっているのは「政府」である。
ここが、自民党の改正案とまったく違う。
このことを明確にするために、
と言い直している。「主権」は「国民」にある。あくまで「国民」が主語(主役)であって、「政府」はそれに従うもの。憲法は政府を拘束するもの、と宣言している。
これを
と言い直している。この書き出しの「政府は」は主語ではなく「テーマ」。これから「政府のことについて語ります」という主題の明示。「国民に由来し」「国民の代表者がこれを行使し」「国民がこれを享受する」と、しつこいくらいに「国民」ということばを補っている。「政府」は独立して「主語」にはなりえない、と語っているのである。
自民党の改正草案は、「国民」は「主語」ではない、と言っているのである。
さらに注目すべきことは、自民党改正草案に出てくる「人間」である。「天皇」が「国民」よりも前に出てくる。「天皇」というのは「人間」というよりも「地位」かもしれないが、「立法/行政/司法」の「三権」に比べると、「変動(?)」の少ない「地位」である。だれでも「天皇」になれるわけではない。選挙によってえらばれるのではなく、出産/誕生によって、自動的(必然的?)に「天皇」に「なる」。
この一種の「普遍」の「地位」(血筋?)と「三権」の関係をみていくと、どうなるか。「変化するもの」は「あてにできない」。「変化しないもの」は「あてにできる」。つぎつぎにかわる人間が「統治する」よりも、かわらない「人間/地位」が「統治する」という方が、統治のあり方としては安定するかもしれない。
でも、自民党の改正草案には「天皇が統治する」とは書いていない。あくまで「三権」によって「統治される」(三権が統治する)と書いてある。
しかし、片方に「絶対的」に普遍の「地位」があり、他方にひとが入れ替わる「権力」あるというのは、不安定だねえ。どうも、ぎくしゃくするねえ。これを解決するにはどうすればいいか。
「統合の象徴」という便利なことばがある。
「象徴」とは「実体」そのものではない。何かの代用。
ということは、「三権」は、「象徴」を利用して、自分の意志で日本を「統治する」ということだね。
ここで、「統治する」という動詞にもどってみる。
自民党改正案では「三権」を主語にしているが、「三権」のうち、実際に「統治する」という行動ができるのは「立法/司法」ではない。「立法」は法律をつくること。「司法」は法が正しく反映されているか判断する。
「行政」とは「政治を行う」こと。ここに「行う」という「動詞」がある。
「政府」が「統治(政治)」を「行う」ということになる。
「政府」が「天皇/象徴」を利用しながら「国民を統合する」というかたちで「統治する」ことを自民党の改正案はもくろんでいる。
「統合する/統治する」には「統」という文字が共通している。
という現行憲法の文言が削除されているのは、
が隠されていると読むべきである。「秘密保護法」「戦争法」と憲法の周辺から徐々に「統治しはじめている」のが安倍なのだ。
そして、最初の文章を「政府」を主語として読み直すとどういうことになるか。
「政府」を「安倍」に置き換えてもいい。「考える」というのは、名詞化すると「思考」あるいは「思想」になるかもしれない。自民党憲法改正草案は、いわば「思想」の「押しつけ」なのである。これ以外の「思想」を持つことを許さない、と「政府(安倍)」が国民(私たち)に押しつけようとしているのである。
その前文、
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
この最初の文章の「主語」は何か。
書き出しを読むと「日本国」である。しかし、途中から「日本国」は主語ではなくなる。
国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
この文章の主語は書かれていない。「日本国」は主語ではなく、「テーマ」である。「主題」である。
書き出しのふたつの文についても「日本国」は主語ではなく、「テーマ」と読み返す必要がある。「日本国というのは……である」と「というのは」を補うと「テーマ」であることがはっきりする。そう読み返さないと、文章として不統一(主語の乱れ)が生じることになる。
もちろんすべての文で「日本国」が主語であるとして読むこともできるが、そのとき主語の性質が違ってくる。(これが、実はとても大切。)「動詞」に注目して読み直す。
(1)日本国は、長い歴史と固有の文化を「持つ」。
(2)日本国は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家で「ある」。
(3)日本国は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて「統治される」。
(3)の部分で、突然「受け身」になる。「受け身」の主語になる。ということは、そこには「能動/働きかける」主語があるはずだ。
それは何か。
書いていない。
いろいろ考えながら読むと「立法、行政及び司法の三権」の「三権」が「日本国」を「統治する」という具合に読むことができる。
でも、「三権」というのは「実態」がよく見えない。それは「人間」ではない。「人間」を補うと、その「三権の立場についた人間」ということになる。
ここに、たとえば、私は「参加」することができる。その「一員」になることができるか。むずかしいなあ。
でも、逆は簡単。
「三権」に「統治される、日本国民」になることは簡単だねえ。
「統治するひと」(三権につくひと)は少数であり、その少数のひとが多数の国民を統治するというのが、自民党草案の「意図」なのである。
現行の憲法と比較すると、わかりやすい。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
ここでは主語は常に「日本国民」である。「正当に選挙された」という「受け身」の動詞は、国民が「正当に選挙して、選んだ」という意味である。「日本国民」は「われら」と言い直されている。「国民」が「行動する」のである。「行動させられる/統治される」のではない。
さらに、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し
この部分に、わざわざ「政府の行為によって」という一文があることに注目すべきである。「政府」が「国民」を支配し「戦争を起こす」ようなことがあってはいけない、と書いている。「政府」が主語になることを禁じている。「政府」の行動を縛っている。そのために憲法をつくったのである。
「政府」が「国民」を統治するのではなく、「国民」が「政府」を「統治する」のである。「統治される」ということばの「テーマ」となっているのは「政府」である。
ここが、自民党の改正案とまったく違う。
このことを明確にするために、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
と言い直している。「主権」は「国民」にある。あくまで「国民」が主語(主役)であって、「政府」はそれに従うもの。憲法は政府を拘束するもの、と宣言している。
これを
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
と言い直している。この書き出しの「政府は」は主語ではなく「テーマ」。これから「政府のことについて語ります」という主題の明示。「国民に由来し」「国民の代表者がこれを行使し」「国民がこれを享受する」と、しつこいくらいに「国民」ということばを補っている。「政府」は独立して「主語」にはなりえない、と語っているのである。
自民党の改正草案は、「国民」は「主語」ではない、と言っているのである。
さらに注目すべきことは、自民党改正草案に出てくる「人間」である。「天皇」が「国民」よりも前に出てくる。「天皇」というのは「人間」というよりも「地位」かもしれないが、「立法/行政/司法」の「三権」に比べると、「変動(?)」の少ない「地位」である。だれでも「天皇」になれるわけではない。選挙によってえらばれるのではなく、出産/誕生によって、自動的(必然的?)に「天皇」に「なる」。
この一種の「普遍」の「地位」(血筋?)と「三権」の関係をみていくと、どうなるか。「変化するもの」は「あてにできない」。「変化しないもの」は「あてにできる」。つぎつぎにかわる人間が「統治する」よりも、かわらない「人間/地位」が「統治する」という方が、統治のあり方としては安定するかもしれない。
でも、自民党の改正草案には「天皇が統治する」とは書いていない。あくまで「三権」によって「統治される」(三権が統治する)と書いてある。
しかし、片方に「絶対的」に普遍の「地位」があり、他方にひとが入れ替わる「権力」あるというのは、不安定だねえ。どうも、ぎくしゃくするねえ。これを解決するにはどうすればいいか。
「統合の象徴」という便利なことばがある。
「象徴」とは「実体」そのものではない。何かの代用。
ということは、「三権」は、「象徴」を利用して、自分の意志で日本を「統治する」ということだね。
ここで、「統治する」という動詞にもどってみる。
自民党改正案では「三権」を主語にしているが、「三権」のうち、実際に「統治する」という行動ができるのは「立法/司法」ではない。「立法」は法律をつくること。「司法」は法が正しく反映されているか判断する。
「行政」とは「政治を行う」こと。ここに「行う」という「動詞」がある。
「政府」が「統治(政治)」を「行う」ということになる。
「政府」が「天皇/象徴」を利用しながら「国民を統合する」というかたちで「統治する」ことを自民党の改正案はもくろんでいる。
「統合する/統治する」には「統」という文字が共通している。
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し
という現行憲法の文言が削除されているのは、
政府の行為によつて再び戦争おこすことを決意する
が隠されていると読むべきである。「秘密保護法」「戦争法」と憲法の周辺から徐々に「統治しはじめている」のが安倍なのだ。
そして、最初の文章を「政府」を主語として読み直すとどういうことになるか。
日本国「というの」は、長い歴史と固有の文化を持「っていると、政府は考える」、
日本国「というの」は、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であ「ると政府は考える」、
日本国「というの」は、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される「と政府は考える」。
「政府」を「安倍」に置き換えてもいい。「考える」というのは、名詞化すると「思考」あるいは「思想」になるかもしれない。自民党憲法改正草案は、いわば「思想」の「押しつけ」なのである。これ以外の「思想」を持つことを許さない、と「政府(安倍)」が国民(私たち)に押しつけようとしているのである。