詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松田朋春『エアリアル』

2016-06-12 15:18:09 | 詩集
松田朋春『エアリアル』(ポエムピース、2016年05月15日発行)

 松田朋春『エアリアル』にはさまざまな詩があるが、「はなす」がおもしろかった。

はなしてごらん
しまってあるものを
言うのではなく
喋るのでもなく
はなしてごらん
はなしていないことを

自由にしてあげなさい
はなしていないことを
あなた自身も

 「はなす」は「話す」であり「放す」である。
 「しまう」ということばが二行目に出てくる。「しまう」は「しめる/閉める」「とざす/閉ざす」。その反対は「ひらく/開く」。この「開く」と「放す」を結びつけると「開放する」になる。
 自分のなかに「閉ざし」ていたものを「開いて」「放す」。
 そういうことが強く意識されているのだが、あえて漢字では書かない。漢字にすると「意味」が強くなりすぎる。それに「話す」ということばとの関係が見えにくくなる。

 「言うのではなく/喋るのでもなく」という二行は「話す」ではないんだよ、と言っているようにもみえるが、そうではなく「話す」ということばが意識されているからこそ、そう言うのだろう。
 「言う」「喋る」と「話す」はどう違うのか。
 「話す」には「放す/開放する」という意味がある、ということ。「自由にする」ということ。
 とらわれているものを自由にする。そのとき、自由は「はなす」ひとにも、はねかえってくる。「閉ざす」必要がなくなった。「閉ざす」という行動から開放/解放され、自由になる。
 「秘密/隠し事」を考えてみるといいかもしれない。自分のなかに隠していたものを、開いてみせる。ことばにして、告げる。
 「放す/話す」ことは何かを自由にする以上に、自分自身を自由にする。
 「放す/話す」ではなく、そのとき「開く」という「動詞」の方が、「肉体」に強く還ってきているかもしれない。
 自分が「開かれる」。「開かれて」、自分のなかに新しい空気や光が入ってくる。
 それが「自由」の「定義」になるだろう。

 「動詞」のなかで、「意味」が交錯する。ことばの「意味」がとけあって、新しく生まれ変わる。

 こういうことは、ほかの詩人も言っているかもしれない。
 しかし、ほかのひとが言っていてもかまわない。
 自分で言い直す。自分のリズムで、ことばをととのえる。ことばを自分のものにする。そのとき、自分自身が、自分から離れて自由になる。
 つまり、詩になる。

 「はなす」は「放す」であり、「離す」でもある。詩は、詩を書いた人を「離れて」、知らないところへ旅していく。

はなしてみなさい
小川に小舟を浮かべるように

 小川を流れる小舟のように。
 その小舟が、きょう、私のところへ流れてきた。
エアリアル
クリエーター情報なし
ポエムピース
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ノエミ・ルボフスキー監督「カミーユ、恋はふたたび」(★★)

2016-06-12 09:21:51 | 映画
ノエミ・ルボフスキー監督「カミーユ、恋はふたたび」(★★)

監督 ノエミ・ルボフスキー 出演 ノエミ・ルボフスキー、サミール・ゲスミ

 フランス個人主義と私が勝手になづけている「生き方」がある。この映画には、その「フランス個人主義」がいっぱい。
 主人公というよりも、その周辺、高校の教師に、それが濃厚に描かれている。どの教師も「平均的な教育」というのか、「日本の教科書に書かれている知識」を教えようとはしていない。自分の「好み」をことばにしてまくしたてる。自分の「好み」以外のことには関心がないというだけではなく、それを「自分のことば」として、「体系」として語る。「哲学(思想)」として、語る。「哲学(思想)」というものは、完全に個人のものであり、他人がとやかくいうものではないのだが、それを逆手にとって、ただ「自分の好み」まくしたてる。教師の「好み/好みを語ることば」が、つまり教師本人が教科書なのだ。
 「物理」の先生は、宇宙の深淵について「詩的」に語る。宇宙(物理)と詩の融合が、その教師の「哲学」なのだ。で、「いけない」と思いながら、主人公の女性と(40歳の熟女?)に手を出してしまったりする。詩が、恋愛が、倫理に優先する。そのひとを語ることばそのものが、すべてに優先する。
 「演劇(?)」の教師は、生徒の感情など気にしない。自分が演出する芝居の完成度のことしか考えていない。教師ではなく、芝居の「演出家」になってしまっている。
 そうか。フランスでは、「平均的な知識/受験に必要な知識」を学校で学ぶのではなく、「おとなの生き方」を学ぶんだな。「おとな」はどんなふうにして「わがまま」を言うか。「おとな」になるためには、どんなふうに「わがまま」を「ことば」にして、相手を説得するか。自分の思っていること、「わがまま」をきちんと「ことば」にして生きていく。それが、「おとな」だ。
 「イギリス個人主義」も「ことば」と強い関係にある。イギリスでは「本人がことばにしなかったこと」はすべて「存在しないこと」になる。周囲の人がいくら「秘密」を知っていても、本人が「ことば」として語らないかぎり、それは「プライバシー」であって、けっして「公開された事実」ではない。
 「フランス個人主義」では、どんなことでも「ことば」にして言えないなら、何をしても「個人」として存在したことにはならない。人間が人間として存在するために、「ことば」がいる。自分で自分を語ることが重要。どんなに「でたらめ(?)」であっても、自分で自分を語るとき、そこに「人格を持った人間」が生まれる。「人格を持った人間」になるためには、自分を語らなければならない。
 で。
 たとえば、たとえばたばこを吸う。おとなの女の小道具。でも、ただ、それをかっこよく吸うだけではなく、それを「自分のことば」で言い直す。ゆっくりと息を吐くのはどうしてなのか。そのとき「こころ」は何を思っているのか。どういう言い方ができるかが、「おとなの女の価値」なのである。
 主人公が、若い女子高校生にたばこの吸い方(ポーズのとり方)を教え、それにこたえて、女子高校生が「ことば」で自分を描写する。こういうことが「おとな」になること。まあ、たばこを吸うなんて、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことを、いかに「わがまま」に、つまり「自分」として語るか。それがフランス人の「生き方(思想)」なのだ。
 体育の授業で、平均台で演技している友達を見ながら、顔は何点、胸は何点、尻は何点などと騒いでいるのも、「フランス個人主義」のあらわれ。平均台の上でどんな演技ができるかという「体育」の「基準」など、どうでもいい。そんなものは「学校」が決めた「判断」。おとなの、個人の「好み」とは無関係。誰が何ができるかではなく、そのとき「自分の好みをどう語ることができるか」が重要なのだ。中年の、中年太りで垂れてしまった尻を批評して「尻は平ら(0点)、胸は巨乳(点数なし)」なんて、平然というところが、いかにもフランスの女子高校生。笑ってしまう。
 そして。
 この「自分のことばで語る」ということの重視は、逆に言うと、フランス人は「語られたことば」でしか、その人を判断しないということ。
 だから、主人公は40女で、泥酔したときにタイムスリップして女子高校生になっているのだが、周囲のひとは彼女を40女と見ないということろにも象徴的にあらわれている。「容姿」を見ていないのだ。「容姿」について批評はしても、それをそのひととは見ない。あくまで「ことば」で自分をどう語っているか、そのとき「好み」をどう語っているかでしか向き合わない。「好み」を語ることばだけが「事実/実在」であって、そのほかのものは「実在」しない。こんな「哲学的な」、つまり、こんなに現実を無視したでたらめな(いいかえると、形而上学的な)設定の映画は、フランス人にしかつくれない。
 この「自分の好みを、自分のことばで語ることで、ひとは個人(おとな)になる」という思想が、結局、恋愛→結婚→破綻という人生のなかで、さまざまに動く。ぶつかりあい、ゆらぎ、新しく何かを発見する。それが楽しい--ということなのだが。
 結末やストーリーは、関係がないなあ。
 「わがまま放題」のフランス人気質にどっぷりつかり、フランス人がどうやって「わがまま」を調整して生きているか、それを傍から見て楽しむ映画だね。フランスへ行ったら(特にパリでは)、いかに自分の「わがまま」を相手に伝えるか、それを学ぶ映画だね。(「わがまま」を言えないというとこは、そのひとの「人格」が確立されていないということ。)40女が物理の教師を口説き落とした(?)ときのように、あともう少し、もう一分、もう二分、あと五分だけという感じで、「自分のことば」を語る。語ることで、だんだん知り合いになっていく。親しくなっていく。「語る」ことだけが大切ということだね。(パリっ子になるには何としてもフランス語を身につける必要がある。わがままになる必要がある。)
 この「ことば」重視は、主人公がテープで「ことば」を録音しているところに象徴的に表現されている。「ことば」があるとき、そこには「ひと」がいる。「おとなのひと」がいる。主人公の母親が、スチームの配管で暖をとっているハチを見つけ、そっと外へ逃がしてやるまでの「ことば」なんか、とても泣かせる。あのハチを見守るように、きっと主人公のことも見守っていたのだろう。テープで「ことば」を聞くたびに、主人公はその母親を思い出す、母親の真実(思想)を知る、というのが、とても気持ちがいい。忘れられないシーンだ。
                      (KBCシネマ2、2016年06月08日)







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