ピカソ「生きるよろこび」(ピカソ美術館@アンティーブ、2016年05月20日、21日)
ピカソ「生きる喜び」は、フランス・アンティーブの「ピカソ美術館」にある。この絵を見に行ったとき、幼稚園児くらいの子どもを相手に、女性が絵の説明をしていた。これがとてもおもしろかった。
この絵には直線と曲線がある、というような説明から始まった。左上のヨットは帆が直線で描かれている。三角形である。この三角形は海に映るヨットの影にもつかわれている。さらに笛を吹く男(獣、山羊?との組み合わせ)の体のなかや、遊ぶ子山羊たちの体のなかにも、女の足の交錯したところにも隠れている。その組み合わせが、まるで音楽のようである。(ということまで説明していたかどうか、私のフランス語ではよくわからないのだが、女性が絵のいろいろな場所を指し示しながら語るので、かってに想像した。)
右の男の、右下の茶色い、うんこというか、ひげというか、それを指して「これは何?」と聞いている。子どもたちは、すぐには答えられない。でも、同じ部屋にある別の絵を指し示しながら、それが動物の尻尾であることを教えている。「同じ形をしてるでしょ」。そう、右の男は、ちょっと目にはわかりにくいが、やっぱり山羊と男が合体した生き物なのだ。
それからタンバリンを取り出した。女のひとが手の先の「まるい白」。あれは手で輪っかをつくっているのではない。タンバリンを持っているのだ。男は笛でメロディーをかなで、女はタンバリンでリズムを刻む。その音楽にあわせて、女と子山羊たちがいっしょに踊っている。そう説明している。さらにタンバリンを子どもたちにまわして、「叩いてみて」と言っている。(子どもだから、軽く叩く子もいるが、思いっきり叩いて、叱られたりもしている。)そのあと、プレイヤーで、笛とタンバリンの音楽を実際に流し、それも聞かせている。
その音楽を聴きながら、絵を見ながら、私が考えたのは(感じたのは)。
このタンバリンの丸は、子山羊たちの「顔」の形にもなっているということだ。「顔」が「音楽」になっている。「音」を奏でている。
前日、ひとりで見ていたときは気がつかなかった。あっ、子山羊たちが、こっちをみている。子山羊は「あ、見られた」と思いながらも、踊ることをやめることができない。この瞬間、あ、見てはいけなかったのかな、と思ってしまう。そんなことを感じさせるくらい、楽しさにリアリティがある。そう思いながら見ていたのだが、タンバリンが「顔」になっている、「肉体」になっていると思うと、その踊る喜びがいっそう強く感じられた。後ろ脚で立ち上がったり(左の子山羊)、飛び上がったり(右の子山羊)、「体」が音楽になって、かってに動いてしまう。やっぱり、見てはいけない「喜び」を見てしまったのかなあ。
こういう「動きのリアリティ」を含んだ線(デッサン)は、ピカソは、まさに天才。「写真」のように「リアル」な「形」ではないのだが、そのひとつひとつが、目に見たままなのだ。「肉眼」というのは、どんな精密機械よりもすばやく対象に焦点をあてて、何かを見てしまう。「肉眼」には何かが見えてしまう。
私たちは(私は、というべきなのかもしれない)、何かを見たとき、その形を「わかる」ようにととのえてしまう。絵に描いて誰かに示すときは、そのととのえ方はさらに厳しくなる。「見たまま」ではなく、誰かに「見えるように」描く。ことばで言えば、肉体からあふれてくる音をそのまま無秩序にあふれさせるのではなく、単語にし、さらに「文法」にあわせてととのえ、文章にするように、絵の場合も「形」をととのえている。「ととのえた形」を「わかる絵」として学んでいる。
でも、ピカソは違うのだ。
子山羊の足の力が入っている感じ、立ち上がったときの胴の豊かな感じ、それから「顔」が「山羊」なのにまるで「人間」のように見える、その見えるままを描くことができる。
おかあさんの丸くておおきなおっぱい。細い腰。おしりのしっかりした丸さ。まげた膝。伸ばした足。足の裏。足の甲。みんな、それを見た瞬間の、見えたままの形を描く。それはほんとうに「見てはいけない」秘密の「リアリティ」かもしれない。ピカソは、それを自在に組み合わせる。
ふつうはそんなことをすると「デッサン」がばらばらになる。「歪む」。
ピカソの絵を、そんなふうに「歪んだデッサン」「狂ったデッサン」「子どもよりもへたくそな電算」と見るひともいるかもしれないが、私には「見えたまま」を描き、そのバランスがまったく正しいものに見える。「写真」のように「動き」を一瞬を切り取ったのではなく、「いのち」が動いている、その「動き」そのものを「動かして」描いているように見える。
幼い子どもの描く絵は、「デッサン」が狂っているように見える。学校では「デッサン」を正確に描くこと(写真のように描くこと)が求められる。そのための「教育」もする。でも、あれは「見えたまま」描くというよりも、「こう描けば誰にでもわかる」という「形のととのえ方」の勉強であって、「見えたまま」を描くということではないと思う。
ピカソの絵を見ると、特に、そう感じる。
ピカソは、子どもが何かを見たときの「見える」驚きをそのままに描く。「見てはいけないもの」を見たときの驚きのまま描く子どもの力強さを、さらに突き進めて、「いのち」に高めている。子どもの絵の「稚拙さ」に似ているかもしれないが、子どもにはこんなに「強く」は「見たまま」を描けない。「動き」を「動かしながら」描くということはできない。
そんなことを思った。
絵の説明は20分以上つづいた。30分くらいあったかもしれない。
最後に、ここにはいろいろな青がつかわれているが、それはどうやってつくり出すのか。「先生」は女の体の青い色を絵の具を実際にまぜてつくってみせた。びっくりしてしまった。えっ、こんなことまで、こんな子どもたちに教えるのか。色をまぜることで、他の色とのバランスがとれる。そう語っている。わかるかなあ。いまはわからなくてもいい。でも、きっといつか思い出すだろうなあ。
ウィーンでクリムトの「接吻」を見たとき、ここでも偶然、子どもたちに絵の解説をしているところに出くわした。そのとき、子どもたちにほんものの「金箔」を手に取らせてみせているのに驚いたが、ヨーロッパでは、幼いときから「ほんもの」に触れさせ、ほんものについて真剣に語るのだ。(洋服の幾何学模様についても、そのハーモニーについて、真剣に説明していた。)
ウィーンでも感心してしまったが、ここでも感心してしまった。
アンティーブの「ピカソ美術館」には、ピカソがヴァロリスでつくった陶器の作品もある。皿にいろんな模様が描かれ、彩色されている。その形、皿を指でえぐって描いた線が、子どもの無邪気な強さを感じさせ、とても楽しい。
さらに。
この美術館は、ピカソがアトリエとしてつかっていた城。つかわせてもらったお礼に作品を残していって、それで「美術館」になったのだという。窓から地中海の青い海が見える。その透明な光を見て、さらにもう一度ピカソを見つめなおす。なんとなく、ピカソになった気分。