詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピカソ「生きるよろこび」

2016-06-13 08:26:19 | その他(音楽、小説etc)


ピカソ「生きるよろこび」(ピカソ美術館@アンティーブ、2016年05月20日、21日)

 ピカソ「生きる喜び」は、フランス・アンティーブの「ピカソ美術館」にある。この絵を見に行ったとき、幼稚園児くらいの子どもを相手に、女性が絵の説明をしていた。これがとてもおもしろかった。
 この絵には直線と曲線がある、というような説明から始まった。左上のヨットは帆が直線で描かれている。三角形である。この三角形は海に映るヨットの影にもつかわれている。さらに笛を吹く男(獣、山羊?との組み合わせ)の体のなかや、遊ぶ子山羊たちの体のなかにも、女の足の交錯したところにも隠れている。その組み合わせが、まるで音楽のようである。(ということまで説明していたかどうか、私のフランス語ではよくわからないのだが、女性が絵のいろいろな場所を指し示しながら語るので、かってに想像した。)
 右の男の、右下の茶色い、うんこというか、ひげというか、それを指して「これは何?」と聞いている。子どもたちは、すぐには答えられない。でも、同じ部屋にある別の絵を指し示しながら、それが動物の尻尾であることを教えている。「同じ形をしてるでしょ」。そう、右の男は、ちょっと目にはわかりにくいが、やっぱり山羊と男が合体した生き物なのだ。
 それからタンバリンを取り出した。女のひとが手の先の「まるい白」。あれは手で輪っかをつくっているのではない。タンバリンを持っているのだ。男は笛でメロディーをかなで、女はタンバリンでリズムを刻む。その音楽にあわせて、女と子山羊たちがいっしょに踊っている。そう説明している。さらにタンバリンを子どもたちにまわして、「叩いてみて」と言っている。(子どもだから、軽く叩く子もいるが、思いっきり叩いて、叱られたりもしている。)そのあと、プレイヤーで、笛とタンバリンの音楽を実際に流し、それも聞かせている。
 その音楽を聴きながら、絵を見ながら、私が考えたのは(感じたのは)。
 このタンバリンの丸は、子山羊たちの「顔」の形にもなっているということだ。「顔」が「音楽」になっている。「音」を奏でている。
 前日、ひとりで見ていたときは気がつかなかった。あっ、子山羊たちが、こっちをみている。子山羊は「あ、見られた」と思いながらも、踊ることをやめることができない。この瞬間、あ、見てはいけなかったのかな、と思ってしまう。そんなことを感じさせるくらい、楽しさにリアリティがある。そう思いながら見ていたのだが、タンバリンが「顔」になっている、「肉体」になっていると思うと、その踊る喜びがいっそう強く感じられた。後ろ脚で立ち上がったり(左の子山羊)、飛び上がったり(右の子山羊)、「体」が音楽になって、かってに動いてしまう。やっぱり、見てはいけない「喜び」を見てしまったのかなあ。
 こういう「動きのリアリティ」を含んだ線(デッサン)は、ピカソは、まさに天才。「写真」のように「リアル」な「形」ではないのだが、そのひとつひとつが、目に見たままなのだ。「肉眼」というのは、どんな精密機械よりもすばやく対象に焦点をあてて、何かを見てしまう。「肉眼」には何かが見えてしまう。
 私たちは(私は、というべきなのかもしれない)、何かを見たとき、その形を「わかる」ようにととのえてしまう。絵に描いて誰かに示すときは、そのととのえ方はさらに厳しくなる。「見たまま」ではなく、誰かに「見えるように」描く。ことばで言えば、肉体からあふれてくる音をそのまま無秩序にあふれさせるのではなく、単語にし、さらに「文法」にあわせてととのえ、文章にするように、絵の場合も「形」をととのえている。「ととのえた形」を「わかる絵」として学んでいる。
 でも、ピカソは違うのだ。
 子山羊の足の力が入っている感じ、立ち上がったときの胴の豊かな感じ、それから「顔」が「山羊」なのにまるで「人間」のように見える、その見えるままを描くことができる。
 おかあさんの丸くておおきなおっぱい。細い腰。おしりのしっかりした丸さ。まげた膝。伸ばした足。足の裏。足の甲。みんな、それを見た瞬間の、見えたままの形を描く。それはほんとうに「見てはいけない」秘密の「リアリティ」かもしれない。ピカソは、それを自在に組み合わせる。
 ふつうはそんなことをすると「デッサン」がばらばらになる。「歪む」。
 ピカソの絵を、そんなふうに「歪んだデッサン」「狂ったデッサン」「子どもよりもへたくそな電算」と見るひともいるかもしれないが、私には「見えたまま」を描き、そのバランスがまったく正しいものに見える。「写真」のように「動き」を一瞬を切り取ったのではなく、「いのち」が動いている、その「動き」そのものを「動かして」描いているように見える。

 幼い子どもの描く絵は、「デッサン」が狂っているように見える。学校では「デッサン」を正確に描くこと(写真のように描くこと)が求められる。そのための「教育」もする。でも、あれは「見えたまま」描くというよりも、「こう描けば誰にでもわかる」という「形のととのえ方」の勉強であって、「見えたまま」を描くということではないと思う。
 ピカソの絵を見ると、特に、そう感じる。
 ピカソは、子どもが何かを見たときの「見える」驚きをそのままに描く。「見てはいけないもの」を見たときの驚きのまま描く子どもの力強さを、さらに突き進めて、「いのち」に高めている。子どもの絵の「稚拙さ」に似ているかもしれないが、子どもにはこんなに「強く」は「見たまま」を描けない。「動き」を「動かしながら」描くということはできない。
 そんなことを思った。

 絵の説明は20分以上つづいた。30分くらいあったかもしれない。
 最後に、ここにはいろいろな青がつかわれているが、それはどうやってつくり出すのか。「先生」は女の体の青い色を絵の具を実際にまぜてつくってみせた。びっくりしてしまった。えっ、こんなことまで、こんな子どもたちに教えるのか。色をまぜることで、他の色とのバランスがとれる。そう語っている。わかるかなあ。いまはわからなくてもいい。でも、きっといつか思い出すだろうなあ。
 ウィーンでクリムトの「接吻」を見たとき、ここでも偶然、子どもたちに絵の解説をしているところに出くわした。そのとき、子どもたちにほんものの「金箔」を手に取らせてみせているのに驚いたが、ヨーロッパでは、幼いときから「ほんもの」に触れさせ、ほんものについて真剣に語るのだ。(洋服の幾何学模様についても、そのハーモニーについて、真剣に説明していた。)
 ウィーンでも感心してしまったが、ここでも感心してしまった。

 アンティーブの「ピカソ美術館」には、ピカソがヴァロリスでつくった陶器の作品もある。皿にいろんな模様が描かれ、彩色されている。その形、皿を指でえぐって描いた線が、子どもの無邪気な強さを感じさせ、とても楽しい。

 さらに。
 この美術館は、ピカソがアトリエとしてつかっていた城。つかわせてもらったお礼に作品を残していって、それで「美術館」になったのだという。窓から地中海の青い海が見える。その透明な光を見て、さらにもう一度ピカソを見つめなおす。なんとなく、ピカソになった気分。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウッディ・アレン監督「教授のおかしな妄想殺人」(★★★★)

2016-06-13 02:25:44 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ホアキン・フェニックス、エマ・ストーン

 ウッディ・アレンの映画は、アメリカ映画にしては緑がとても美しい。私の印象で言えば、イギリス映画の緑に似ている。陰影があるのだ。
 で。
 最近の映画に特徴的なのだが、この緑の陰影の、「影」のなかで女優を撮ることが多い。実際にシーンの数を比較したわけではないのだが、なぜか、そう感じる。(「マジック・イン・ムーンライト」のエマ・ストーンの撮り方で、私は、それに気がついた。)
 大学のキャンパスをホアキン・フェニックスとエマ・ストーンが会話しながら歩くシーンなんか、背後の芝生というか広場には光があふれているのに、手前の二人は「緑陰」のなか。木の緑も、日の当たった部分と影になった部分をしっかりとみせている。
 私は目が悪いので、この「緑陰」のなかな表情というのは、ちょっとつらいのだけれど、「緑陰」のなかだと、女優の肌がやわらかな透明感をもってひろがる。目の色との対比も静かになり、「毒」がなくなる。
 「毒」というと、まあ、変かもしれないけれど。
 たとえば、「テス」のナスターシャ・キンスキーのような、あ、この目で見つめられたら何でもしてしまう。この肌、唇に触れることができるなら、自分がどうなってもいいと感じるような、強い「魔力」がない。
 とても静か。何か、「のみ込まれてしまいそう」というよりも、「支えてくれる」という感じかもしれないなあ。「落ち着ける」という感じかなあ。
 昔から、ウッディ・アレンは、女性の「純な感じ」に支えられる男というものを描きつづけているような気がするけれど、(たとえば「マンハッタン」)、最近、それがいっそう強くなっていると感じる。
 エマ・ストーンは、撮影の仕方によっては、とても強烈な「顔」になるはずなのに、一歩引いている感じ。遠くから目立たなくてもいい、そばにいるときだけわかってもらえればいいという感じということもできるかな?
 それがね。
 書いていることと矛盾するけれど、「どうして私のことをわかってくれないの」という感じでホアキン・フェニックスに迫るところが、矛盾しているだけに、とてもおもしろい。静かな「緑陰の映像」に、激しい感情が動く。この対比が、わっ、刺激的。
 ウッディ・アレンは、ほんとうに女の描き方、女優のつかい方がうまい。
 一方、ホアキン・フェニックス。すごい中年太り。最初はシャツの下に詰め物でもして「体型」をつくっているのかと思ったが、裸になって醜い腹をさらけだしている。本物だったのか、と思わず、うなるね。
 この、ホアキン・フェニックスだが、いままでのウッディ・アレンの「主演男優」とはかなり異なる。「ブルージャスミン」のケイト・ブランシェットが異質の女優だったように、とても強烈。演技のアンサンブルをはみ出して動く。ストーリーではなく、「肉体」そのものが、何かを語っている。「役」ではなく、そこにしかいない「個人」になっている。こんな役者だったかなあ、と驚いてしまう。
 ウッディ・アレンの映画では、女優ばかりがアカデミー賞を取っているが、この演技でホアキン・フェニックスが賞を取るならば、ちょっとおもしろいなあ、と思う。
                     (KBCシネマ1、2016年06月12日)






「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
マジック・イン・ムーンライト [Blu-ray]
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする