詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩を書くひとへ、詩を読むひとへ

2016-06-22 11:14:08 | その他(音楽、小説etc)
 2016年06月22日は参院選の公示日。
 この選挙で自民党・公明党が勝利し、参議院の議席が三分の二を超えたら、安倍はかならず憲法を改正するだろう。その結果、もう二度と公正な選挙はおこなわれなくなるだろう。政府を批判する意見は抹殺されるだけでなく、批判意見をいう人間は自由を奪われるだろう。

 朝日新聞06月20日朝刊(西部版・14版)一面に次の記事があった。
 改憲議論「次の国会から」(見出し)と報じたあと、

首相は現段階で憲法審査会の議論がまとまっていないことから、「(今回の)選挙で争点とすることは必ずしも必要がない」との考えを示した。

 「必ずしも必要はない」。これは微妙な言い方である。「必要だが、必ずしも必要ではない」。「必要である」ということを隠しているのか。「本来なら必要だが、争点にしてしまうと批判を浴びるので、争点にしたくない。だから、争点として取り上げない」ということだ。
 かわりに「経済」を争点とする。「アベノミクス」を「争点」の前面に押し出す、ということだ。
 「だまし討ち」をすると、自ら言っているのである。
 選挙が終われば、そして参議院の議席の三分の二をとれば、「憲法審査会の議論は終わった。憲法改正草案は何年も前から発表している。国民に知れ渡っている」と言い張るだろう。

 「秘密保護法」「戦争法(安保関連法)」は、いずれも「経済政策」を争点にした国政選挙後の国会で強引に可決された。「経済」をどうするかはそっちのけにして、憲法と相いれない法律を成立させた。
 今回も同じことを狙って行動している。

 さらに、2016年6月22日の読売新聞朝刊(西部版・14版)に、21日開かれた党首討論の記事よると。
 民主党の岡田が、憲法改正をめぐって、「しっかり参院選で議論すべきだ」と語っている。
 これに対して、安倍は

「憲法審査会で逐次的な議論を静かに行い、国民投票で問うべきだ」

 と答えている。
 「静かに」ということばに注目したい。
 これは、ほぼ「密室で」と同じ内容だろう。
 あるいは「結論が出るまで、情報公開は一切しないで」という意味でもあるだろう。
 「議論」に対して、国民から批判が殺到すると、その批判に「憲法審査会委員」の考えが左右される恐れがある。
 「秘密に」というのと同じである。
 もしかすると、「憲法審査会」の「議事録」は「秘密保護法」の対象に指定され、国民はどんな議論がおこなわれたのか知らされないまま、「国民投票」だけを求められるということになるかもしれない。

 もし、自民党の憲法改正草案のまま、憲法が改正されたらどうなるか。
 国民は「政府が保証する」ことしか言えなくなる。思想、言論の自由がなくなる。自由に書き、自由に読むということができなくなる。(「自民党憲法改正草案」をどう読むかは、すでに二回書いてきたので、今回は省略する。)
 あらゆる人権が政府の独自の判断で制限される。もちろん戦争も始まる。
 そうなったとき、「こうなることはわかっていた」とか「わかっていたから、私は自民党や公明党には投票しなかった」と「自己弁護」しても遅い。「野党に投票しなかった人たちが悪い。私はわかっていたが、ほかのひとはわからなかった。私は悪くない。私は犠牲者だ」と泣き言を言っても何にもならない。「安倍が間違っていることがわからないばかが多すぎる」と批判しても、その批判によって、あなたの「聡明さ」が証明されるわけではない。
 あなたが自民党、公明党の考えに賛成できない。自民党の憲法改正草案に賛成できない、というのであれば、そのことを「声」に出して言おう。ひとりでも多くのひとに語りかけよう。あなたの思っていることがどれだけ正しくても、それをひとにつたえないかぎり、それはひとりで思っていることにすぎない。ひとりで思っているだけの「正しい」は空論である。

 自民党の憲法改正草案に賛成、というひともいるだろう。そういうひとも発言してほしい。どうして賛成なのか。それを語ってほしい。語らずに、黙って自民党に投票し、憲法を改正してしまえばいい。その方が面倒がなくていい。勝ってしまえば、自分の正しさが証明される、と思っているかもしれない。
 でも、それでいいのか。
 ほんとうに「正しい」と思っているのなら、それをことばにして、反対するひとと対話し、意見の変更を促すというのが、民主主義というものだろう。
 ことばを書き、ことばを読むことが好きなら、その好きなことを実践してもらいたい。安倍のまねをして、「対話することは必ずしも必要ではない」という態度をとらないでもらいたい。

 私は「対話」がしたい。「対話」ができることが民主主だと思っている。「対話」のなかにしか、ことばの生きる場所はない。ことばが交流できなければ、どんな詩も、生きていけない。死んでしまう。




 (これから以下に書くことは、参院選とも憲法改正の動きとも「無関係」なのだが、もしかすると「安倍一強」に群がることで、生き抜こうとするひとたちの動きとどこか似ているかもしれない。)

 「現代詩手帖」2015年07月号に「ポスト戦後詩、20年」という特集が組まれている。その「鼎談」のなかで、三人の詩人が2000年ごろから詩のことばがかわったというようなことを語っている。私は、それぞれの作品を歴史と比較しながら詩を読むということはしないので、詩のことばがかわったかどうか、よくわからない。ただ、私自身の経験から、ことばの環境は変わったと感じている。詩のことばというよりも、詩の周辺のことばがかわった。
 私の個人的体験、個人的感想であるが。
 ある詩人が、当時の首相の「神の国」発言を肯定したとき、私はそれについて批判した。すると、その詩人からではなく、その周辺のひとたちから猛烈な抗議を受けた。それは抗議から、私の名前をつかっての発言の捏造、最後は「玄界灘に沈めてやる」というようなことまで言われた。
 またある詩人は、私がそのひとの書いた作品を誤読したとき、「詩壇から追放してやる」と言った。私は「詩壇」というものとつきあいがないから、そんなことはどうでもいいが、「詩壇」ということばを「権威」のように使い、その詩人が「権威」に寄りかかっていることに、とても驚いた。私は「詩壇」で発言しているのではなく、ブログで発言している。
 またある詩人は、私がそのひとの詩集の感想として「おもしろくない」と書いたことに対して、とても怒った。そして「谷内に詩集を送るのはやめよう。そうすれば詩集を読むことができず、その結果、現代詩手帖のアンケートにも答えることができなくなる」とネットで呼びかけているのを読んだ。「現代詩手帖」が「権威」であるかどうか、よくわからないが、「詩壇から追放する」という発言に似たものを感じた。批判者を除外することで、自分の「正しさ」を証明するという方法である。
 またある賞を受賞した詩人は、私がそのひとの詩集を全部読まずに感想を書いたところ(目が悪くて、全部読むのは肉体的に無理だった)、「全部読まずに感想を書くのは失礼だ」と怒った。まあ、確かにそうかもしれないが。「そう言わずに、また読ませてください」「読みたかったら買って読め」。買って読んで感想を書いたら「買うのは勝手だが、感想を書くな」と言われた。
 こういうことは、「ポスト戦後詩」で語られている「ことばの変化」とは関係がないかもしれない。しかし、どこかで関係しているかもしれない。自分は、これこれの「権威」に通じている。批判すると、あるいは気に入る感想を書かないなら、「権威」から追放してやる、というような奇妙な言い方は、かつてはなかったと思う。
 「権威主義」が増えてきていると感じる。
 そして、この「権威主義」というのは、安倍のめざしている「独裁」と、とても似ていると私は感じる。そういう「変化」が詩の書かれている場、読まれている場では始まっているように感じる。
 安倍の「独裁」が始まるとき、詩のことばをとりまく「独裁の雰囲気」はもっともっと強くなるだろうと感じる。

 そういうものと「没交渉」の場で詩を書けばいい、詩を読めばいいという意見もあるだろう。孤高の場で詩を守り抜くという生き方もあるとは思う。
 でも、私は、それはつまらないなあと思う。
 ことばは行き来してこそ楽しい。けなして、けなして、けなし抜いて、もうけなすことがなくなったとき、突然、その詩が絶対的なすばらしいものに見えてくるということもある。嫌いだ、気持ち悪いと書いている内に、なんだか好きになる、快感だなあ、と感じるときもある。私はそういうことを何度も経験している。そして、そのとき、「あ、昔の感想は間違っていた」とは少しも思わない。「批判」を書かなければ、けっして「快感」にはたどりつけなかっただろうと思う。
 ことばも気持ちも変化していくから楽しい。
 これが「政府の保証する思想(ことば)」という具合に決めつけられるというのは、とても変だ。私は、自分のことばを、誰かから「保証」されたなくない。誰の「保証」からも関係なく動かせるのが、「自由」だと考えている。

 戦争もいやだし、誰かに「思想/表現」を「保証」されるのもいや。だから自民党の憲法改正案には反対。自民党、公明党の争点隠しの選挙運動を批判しつづけたい。

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ジョディ・フォスター監督「マネーモンスター」(★★★)

2016-06-22 09:19:22 | 映画
監督 ジョディ・フォスター 出演 ジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ、ジャック・オコンネル

 株投資、投資の裏操作にからむストーリー。これをテレビという舞台で展開したところが目新しい。テレビを通すことで、「経済のブラックボックス」みたいなものが、家庭に(庶民に)開かれた。あ、開かれたといっても、そうなんだ、不正がおこなわれているのだということがわかるくらいで、実際にどうすれば、どうもうかるのか、というようなことは、私にはわからないのだが。やっぱり、経営者が自分の懐を膨らませるというのが現代の資本主義。庶民はどんなに貧乏になろうが知ったことじゃない、という安倍・麻生のような人間が蠢いているということなんだね。
 おもしろいのは、このテレビという媒体が、その情報操作に加担することもあれば、「真実」を暴くこともある。そして、それは常に視聴者と直結している、ということ。アメリカのテレビは、まだ、健在。日本の場合は、情報操作に加担するだけで、真実を明るみに出すということは、テレビメディアはしない。NHKの籾井は「公式発表されたもの以外は伝えない」とはっきり宣言している。と、書いていると映画から離れてしまうが……。
 と、書いてきてわかること。
 この映画のおもしろい点は、テレビを「昔のテレビ」に引き戻している点だ。「原点」で描いている点だ。生放送。しかせ、ここ(家庭の茶の間)ではないどこか遠くで起きていることを、リアルタイムに、家庭で起きているできごとのようにしてつたえる。ひとの知らないことを、表面を描きながら、内部にまで切り開いていく。えっ、現実って、こういうことだったのかと、テレビを見ていてだんだんわかっていく。
 おもしろいねえ。
 この「無樫のテレビ」に「いまのテレビ(情報社会)」が加わる。
 さまざまな映像資料は、いま起きていることの補足。内部にはどんな問題があるのか、隠れている事実とは何なのか、「過去」を暴くことで、「いま」をより鮮明にする。登場人物の「言い訳」を映像情報で否定する。「嘘」を暴く。「この映像は、あなたのことばの情報とは違う。あなたは嘘をついている」と迫る。ジャーナリズムの真骨頂。それを、そのままやっている。
 で。
 そういうことを、やると。そこに出ている「当事者」も変わっていく。「事実」が「わかる」と登場人物もそれにあわせて変わっていく。「内面」に深みが出てくる。何をやるべきかが、だんだんわかってきて、「事実」にもとづいて「真実」の姿を見せはじめる。「真実」をつたえることこそ、自分の仕事なのだと気づきはじめる。
 この変化の過程を、主役のジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ、ジャック・オコンネルの三人が三人三様の形で演じて見せる。ジョージ・クルーニーは、ひょうきんものから、「事実」をつたえるという仕事に目覚めていく。自分は何も考えずに「情報」をつたえていたということを反省しはじめる。ジュリア・ロバーツは「裏方」なのだが、「裏方」に徹することで「事実」を補強する。的確に指示を出し、ジョージ・クルーニーの変化を縁の下から支える。ジャック・オコンネルは、思わぬ変化(ストーリー展開)に驚きながら、徐々に、自分の怒りのほんとうの「対象」を見つけ出していく。テレビ番組(ジョージ・クルーニー)が庶民の敵なのではなく、資本家が敵なのだとわかっていく。資本家が自分の利益だけを考えて株を操作している。そのことをはっきりさせないといけないと気がつく。でも、庶民なので、「悪の構造を告発する」というよりも、「感情」を納得させようとする。株の暴落を引き起こした経営者(株操作で巨額の金を手に入れた)に、「悪かった」と言わせるしかないのだけれど。
 「放送」によって、テレビ局という内部と庶民という外部をつなぎ、さらにテレビ局からビルの外へ出ることで、「外部」そのものをドラマ化(?)し、さらに建物の内部にこもり、「肉眼」ではみえないものを「テレビ画像」をとおして庶民につたえる--この三段論法のような仕組みがなかなか効果的である。
 効果的すぎて、じっくりと考えるという具合にはいかない。それが欠点でもある。ひきこまれながらも、どこかでこれは映画(あるいは、これはテレビ)と思って安心してしまう。「やっぱり、経営者が悪いんだろう。わかっていたさ」と、「現実」ではなく「ドラマ」を見たような感じで終わってしまうのが、かなり残念。「テレビって、何んでも金儲けにするね」というところに、最後は落ち着いてしまうかもしれない。
 むずかしいね、「傑作」をつくるというのは。
                (天神東宝・ソラリアシネマ7、2016年06月19日)







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