福岡ポエイチ2016トークイベント(@福岡市・都久志会館、2016年06月19日)
福岡ポエイチ2016トークイベントは谷川俊太郎を迎えておこなわれた。聞き手は渡辺玄英。詩に関して、意味、音楽など、いろいろな話が出たのだが、私は、渡辺の「さばき」に感心してしまった。事前にどういう展開にするか打ち合わせがあったのかもしれないが、とても要領がよくて、てきぱきしている。きっとみんな安心して谷川の話に耳を傾けることができたと思う。渡辺のことばを介することで、谷川のことばを反芻しなおし、確かめる。そういうことを繰り返しながら、谷川の話したことを、しっかり記憶して帰ったことだろう。
でも、私は、もう少し、つまずいてほしいなあ、谷川のことばをつついて、暴走してほしいなあと思った。あんまりスムーズなので、これでは谷川の話を聞いた、ということしか思い出せないかもしれない、と私自身は不安になった。
実際、こうして思い出しながら何か書こうとすると、谷川の話のほとんどを忘れてしまっている。
あ、いけない。何を思い出せるだろうか。
最初に、渡辺が、きのうの谷川の様子を話した。「リノベーションミュージアム冷泉荘」というところを谷川が訪れた。そこにはおもちゃのようなものがあった。谷川は、そのおもちゃのなかの仮面ライダーのベルトにとても興味をもっているように見えた、と語った。
渡辺「おもちゃが好きなんですか?」
谷川「キッチュなものが好きなんです」
この最初の発言が、いちばん正確に思い出せることである。しかし、ふたりの対話の中では、この「キッチュが好き」という発言は置き去りにされた。でも、私に思い出せるのはその「キッチュが好き」ということばなので、私は、その谷川の発言のあらゆる部分に復活させてみたい。
「キッチュ」について深入りする前に、「おもちゃ」についても触れたい。
おもちゃというのは、大人から見ると無意味なもの、役に立たないもの。「役に立たない」という意味では、詩に似ているかもしれない。
けれど、こどもにとっておもちゃとは何だろう。私の記憶では「超現実的なもの」である。この「超現実」というのは「現実を超える」という意味ではない。「現実」そのもの、「現実の本質」のようなものである。それは、私を否定して(超越して)存在する何かである。私は貧乏だったのでおもちゃというものを持たなかったが、友達がわりと裕福でおもちゃをもっていた。それは私には絶対に手に入らない「現実」、ほしいもの、手に入らさないからこそ、「好き」という気持ちが暴走してしまう何か。それがあれば「世界」が変わってしまうものであった。もしおもちゃが手に入れば私は貧乏ではなく、とともだちがおもちゃをもっていなければ貧乏だという、世界の逆転(革命)さえも起きてしまうくらいの「絶対的事実」でもあった。
この「私を超えて存在している現実(事実)」という何かは、ある意味で「詩」に似ている。私は、谷川のおもちゃに関する好奇心を、詩と結びつけて、あ、いま、詩のことを語った、と思ったのである。
このおもちゃを谷川は「キッチュ」と読んだ。「キッチュ」とは何か。まがいもの、俗悪なもの、というような「定義」が辞書に載っているが、これは「大人の定義」だね。こどもはおもちゃをまがいものとも俗悪なものとも思わない。逆に絶対的な真実(崇高なもの)と思う。
「大人の定義」と「こどもの実感」は違う。(こどもは「定義」しない。ただ実感する。)
で、「こどもの実感」は少し脇に置いておいて、私は「大人の定義」を点検してみたい。
「キッチュ」の反対は何だろう。「洗練」かもしれない。「洗練」は「スマート」と言い換えることができるかもしれない。そして、この「スマート」を大人は「便利、合理的、経済的」ということばに言い直すこともできるかもしれない。
そして。
この「便利、合理的、経済的」というのは、「共有された意味」(流通する意味)と言い直すこともでき、その「定義」を「ことば」にあてはめてみると、とてもおもしろいことが浮き彫りになる。
世の中に流通していることばには「意味」があり、ことばを語るとき「ことば」が流通するのではなく、「意味」が流通する。より的確に「意味」をつたえることばが世の中では歓迎される。ことばの「意味」が限定されていれば、「意味」を考えなくてもすむ。説明しなくてもすむ。ことばの流通はより経済的、合理的になる。
詩は、そういうものではないね。むしろ逆。無意味。「意味」を「合理的、経済的(より少ないことば)」で誰かに伝えるのに役に立たない。「好き」というかわりに「嫌いだ、嫌いだ、きみといると何もできない。殺してしまいたい」と言えば、「殺人者」になってしまう。また、そのことばに「ばか、ばか、ばか」と返事して、その瞬間に愛が成就するなら、そこには「辞書に書かれた意味」以外のものがあることになる。詩が、感情を独特の形で伝える詩が動いていることになる。
そういう会話は不経済。非合理的。ばかばかしい。ときには「俗悪」と言われることもある。低級なメロドラマ、キッチュな歌謡曲。
詩には「キッチュ」ということばと、どこかで通じるものがある。
谷川の発言した順序とは無関係な展開になるが、こういうことをいくつかの発言とからめて見よう。
谷川は、「ことば(日本語)の中に生き残っている何か」を引き出し、それを書くと詩になるというようなことを語った。この「生き残っている」を、古いおもちゃ(キッチュ)と結びつけのも楽しい。
谷川は古いおもちゃのなかに、ただおもちゃを見たのではない。おもちゃのなかに生きている何かを見たのだ。それは、いまは見向きもされない。(いや、一部の人は、それを愛好しているのだが。)生き残っている何かが「キッチュ」なのだ。「現代の尺度」からみるとまがいもの、俗悪なのだが、「現代の尺度」を捨てると、きっと違うものとして動きはじめる。
これを詩にあてはめて言い直すと、「現代に流通している意味」を捨てて、そこにある「ことば」を動かすと、詩が生まれる、ということになる。そのとき「ことば」はキッチュという定義から外れるが、「現代に流通している意味」を捨てるという運動の中で重なる。
谷川は「荒れ地からことばをつかむ」というようなことを言った。この「荒れ地」とは捨てられた(忘れられた)おもちゃのようなことばと言い直すことができるだろう。「荒れ地/見捨てられたおもちゃ」のなかにも生きているものがある。その、いのちを引き出す。「荒れ地」というのは「合理主義から見放された土地/経済主義から捨てられた土地」と考えるならば、それは「キッチュな土地」と言い換えることもできるはずである。
ことばと意味について、意味だけでは詩はおもしろくない。意味とは違う詩を書きたい。そういうことを思って「ことばあそび」の詩を書いた。戦後の「荒地派」の詩人たちとは違う「意味」の詩ではないものを書きたいと思った。そうやってできたのが「かっぱ」などの詩。ことば遊びの詩は、意味を重視する「現代詩」からみると、軽くて、くだらない、無意味(ナンセンス)なもの、つまり、まがいものということになるかもしれない。でも、谷川は、意味ではない何かを書きたくて、意味ではない何かを詩として存在させたくて、そういう詩を書いた。
というような論の展開の中で、谷川は、ことばには「意味」のほかに「調べ」があると言った。(リズムという表現は、谷川の感じている「音楽」を伝えるには不適切で、谷川は「調べ」ということばをつかう、とも言った。)
この発言を聞いた瞬間、私は「調べ」こそ「意味」なのだと思った。「肉体」を貫き、統一する「力」なのだと思った。どのことばをつかって語るか。それを「選択」しているのは「世間で流通している意味」ではなく、そのことばをつかうときに自分に響いてくる「音」だと私は感じている。自分の耳に聞こえない「音」は語れないし、嫌いな「音」は口にしたくない。知らずに、自分の「好み」の「音」を選んでいる。
「かっぱらっぱかっぱらった」は「河童がラッパを盗んだ」というのと「意味」は同じだが、それを「声/音」にするときの「肉体」の反応が違う。「肉体」の何かわからないところの、動きが違う。「河童がラッパを盗んだ」と言えば簡単に「意味」が通じるのに、「かっぱらっぱかっぱらった」と言うと「意味」よりもほかのことに「肉体」が反応してしまう。あ、いま、おもしろい音を聞いた、と余分なことを考える。この余分なことを考える/感じるというのは、「意味」的には、とても不経済。合理的ではない。そんなことば遊びの手間をかけずに、「流通言語」のまま言ってしまえという批判がどこかから聞こえてきそうだが、でも「かっぱらっぱかっぱらった」と言ってしまう。
非合理な何か、いまの合理主義にあわない何か、つまり「キッチュ」がここにもあるのだ。もちろん、これは「キッチュ」そのものではないのだが、キッチュに通じる何かなのだ。「意味」という「合理的、経済的」なことばについていくのではなく、「意味」のほかに変なものをくっつけていることば、その「調べ/音」そのものについていく快感。快感という自分だけのものを楽しむ。これが「好き」っていうことかなあ。
「ことばあそび」に関連して、谷川は、こどもに「社会」ということばをどう教えるか、どう発見させるか、ということを頼まれたことがある、というようなことを語った。結局、こどにも「社会」を教えることはできなかったとも言ったと思うけれど。
私はこのとき、「おなら」の詩が「社会」じゃないか、と勝手に思った。
ひとりひとりが違うおならをする。ひとりひとりのおならの音が違う。それを聞いて、楽しくなる。あれは「社会」を語ったすごい詩だと私は思っている。
おならの音の違いが「個人の違い」、その音の交錯が「ひととひとの交流」というのは「俗悪な比喩」、「まがいもの比喩」かもしれないね。「キッチュな比喩」かもしれない。でも、その「キッチュ」のなかに、だれでもが知っている「肉体」がある。「うんち」もそうだなあ。だれでもが知っている「ことばにしないつながり」がある。
それが「社会」でいいのじゃないかな、と思う。
おならのひとつひとつの音なんて、一回きりの、「流通させることのできないもの」。でも、その「流通させることができない」ということが、結局、詩なのだと思う。自分で勝手に、これが「好き」と思うしかないのが詩なのだと思う。
おならやうんこの話、あるいは詩が好き、それを「社会の比喩」だと言うのは、俗悪な定義、まがいものの定義--そうだよね。確かに。しかし、そのまがいもの、俗悪なものが好き、そういうことばを語っていると「肉体」が安心する。だからやめられない。それに、おなら、うんこの話をすると、良識あるひとが顔をしかめる。それを見るのが、さらに楽しいなあ。
あ、こんな感想で何か伝わるかな?
伝わらなくてもいい。
私が、谷川と渡辺の対話を聞きながら感じたのは、渡辺はせっかく、詩集や本では出合えないおもちゃ(仮面ライダーの変身ベルト)にこころを動かしている谷川に出会って、そのことに気付きもしたのだから、それをもっと対話のなかにしつこくからめてくれれば、ほかのところではあらわれなかった谷川が動いたかもしれないのになあ、と感じたのだ。
ちょっと残念だったのだ。
福岡ポエイチ2016トークイベントは谷川俊太郎を迎えておこなわれた。聞き手は渡辺玄英。詩に関して、意味、音楽など、いろいろな話が出たのだが、私は、渡辺の「さばき」に感心してしまった。事前にどういう展開にするか打ち合わせがあったのかもしれないが、とても要領がよくて、てきぱきしている。きっとみんな安心して谷川の話に耳を傾けることができたと思う。渡辺のことばを介することで、谷川のことばを反芻しなおし、確かめる。そういうことを繰り返しながら、谷川の話したことを、しっかり記憶して帰ったことだろう。
でも、私は、もう少し、つまずいてほしいなあ、谷川のことばをつついて、暴走してほしいなあと思った。あんまりスムーズなので、これでは谷川の話を聞いた、ということしか思い出せないかもしれない、と私自身は不安になった。
実際、こうして思い出しながら何か書こうとすると、谷川の話のほとんどを忘れてしまっている。
あ、いけない。何を思い出せるだろうか。
最初に、渡辺が、きのうの谷川の様子を話した。「リノベーションミュージアム冷泉荘」というところを谷川が訪れた。そこにはおもちゃのようなものがあった。谷川は、そのおもちゃのなかの仮面ライダーのベルトにとても興味をもっているように見えた、と語った。
渡辺「おもちゃが好きなんですか?」
谷川「キッチュなものが好きなんです」
この最初の発言が、いちばん正確に思い出せることである。しかし、ふたりの対話の中では、この「キッチュが好き」という発言は置き去りにされた。でも、私に思い出せるのはその「キッチュが好き」ということばなので、私は、その谷川の発言のあらゆる部分に復活させてみたい。
「キッチュ」について深入りする前に、「おもちゃ」についても触れたい。
おもちゃというのは、大人から見ると無意味なもの、役に立たないもの。「役に立たない」という意味では、詩に似ているかもしれない。
けれど、こどもにとっておもちゃとは何だろう。私の記憶では「超現実的なもの」である。この「超現実」というのは「現実を超える」という意味ではない。「現実」そのもの、「現実の本質」のようなものである。それは、私を否定して(超越して)存在する何かである。私は貧乏だったのでおもちゃというものを持たなかったが、友達がわりと裕福でおもちゃをもっていた。それは私には絶対に手に入らない「現実」、ほしいもの、手に入らさないからこそ、「好き」という気持ちが暴走してしまう何か。それがあれば「世界」が変わってしまうものであった。もしおもちゃが手に入れば私は貧乏ではなく、とともだちがおもちゃをもっていなければ貧乏だという、世界の逆転(革命)さえも起きてしまうくらいの「絶対的事実」でもあった。
この「私を超えて存在している現実(事実)」という何かは、ある意味で「詩」に似ている。私は、谷川のおもちゃに関する好奇心を、詩と結びつけて、あ、いま、詩のことを語った、と思ったのである。
このおもちゃを谷川は「キッチュ」と読んだ。「キッチュ」とは何か。まがいもの、俗悪なもの、というような「定義」が辞書に載っているが、これは「大人の定義」だね。こどもはおもちゃをまがいものとも俗悪なものとも思わない。逆に絶対的な真実(崇高なもの)と思う。
「大人の定義」と「こどもの実感」は違う。(こどもは「定義」しない。ただ実感する。)
で、「こどもの実感」は少し脇に置いておいて、私は「大人の定義」を点検してみたい。
「キッチュ」の反対は何だろう。「洗練」かもしれない。「洗練」は「スマート」と言い換えることができるかもしれない。そして、この「スマート」を大人は「便利、合理的、経済的」ということばに言い直すこともできるかもしれない。
そして。
この「便利、合理的、経済的」というのは、「共有された意味」(流通する意味)と言い直すこともでき、その「定義」を「ことば」にあてはめてみると、とてもおもしろいことが浮き彫りになる。
世の中に流通していることばには「意味」があり、ことばを語るとき「ことば」が流通するのではなく、「意味」が流通する。より的確に「意味」をつたえることばが世の中では歓迎される。ことばの「意味」が限定されていれば、「意味」を考えなくてもすむ。説明しなくてもすむ。ことばの流通はより経済的、合理的になる。
詩は、そういうものではないね。むしろ逆。無意味。「意味」を「合理的、経済的(より少ないことば)」で誰かに伝えるのに役に立たない。「好き」というかわりに「嫌いだ、嫌いだ、きみといると何もできない。殺してしまいたい」と言えば、「殺人者」になってしまう。また、そのことばに「ばか、ばか、ばか」と返事して、その瞬間に愛が成就するなら、そこには「辞書に書かれた意味」以外のものがあることになる。詩が、感情を独特の形で伝える詩が動いていることになる。
そういう会話は不経済。非合理的。ばかばかしい。ときには「俗悪」と言われることもある。低級なメロドラマ、キッチュな歌謡曲。
詩には「キッチュ」ということばと、どこかで通じるものがある。
谷川の発言した順序とは無関係な展開になるが、こういうことをいくつかの発言とからめて見よう。
谷川は、「ことば(日本語)の中に生き残っている何か」を引き出し、それを書くと詩になるというようなことを語った。この「生き残っている」を、古いおもちゃ(キッチュ)と結びつけのも楽しい。
谷川は古いおもちゃのなかに、ただおもちゃを見たのではない。おもちゃのなかに生きている何かを見たのだ。それは、いまは見向きもされない。(いや、一部の人は、それを愛好しているのだが。)生き残っている何かが「キッチュ」なのだ。「現代の尺度」からみるとまがいもの、俗悪なのだが、「現代の尺度」を捨てると、きっと違うものとして動きはじめる。
これを詩にあてはめて言い直すと、「現代に流通している意味」を捨てて、そこにある「ことば」を動かすと、詩が生まれる、ということになる。そのとき「ことば」はキッチュという定義から外れるが、「現代に流通している意味」を捨てるという運動の中で重なる。
谷川は「荒れ地からことばをつかむ」というようなことを言った。この「荒れ地」とは捨てられた(忘れられた)おもちゃのようなことばと言い直すことができるだろう。「荒れ地/見捨てられたおもちゃ」のなかにも生きているものがある。その、いのちを引き出す。「荒れ地」というのは「合理主義から見放された土地/経済主義から捨てられた土地」と考えるならば、それは「キッチュな土地」と言い換えることもできるはずである。
ことばと意味について、意味だけでは詩はおもしろくない。意味とは違う詩を書きたい。そういうことを思って「ことばあそび」の詩を書いた。戦後の「荒地派」の詩人たちとは違う「意味」の詩ではないものを書きたいと思った。そうやってできたのが「かっぱ」などの詩。ことば遊びの詩は、意味を重視する「現代詩」からみると、軽くて、くだらない、無意味(ナンセンス)なもの、つまり、まがいものということになるかもしれない。でも、谷川は、意味ではない何かを書きたくて、意味ではない何かを詩として存在させたくて、そういう詩を書いた。
というような論の展開の中で、谷川は、ことばには「意味」のほかに「調べ」があると言った。(リズムという表現は、谷川の感じている「音楽」を伝えるには不適切で、谷川は「調べ」ということばをつかう、とも言った。)
この発言を聞いた瞬間、私は「調べ」こそ「意味」なのだと思った。「肉体」を貫き、統一する「力」なのだと思った。どのことばをつかって語るか。それを「選択」しているのは「世間で流通している意味」ではなく、そのことばをつかうときに自分に響いてくる「音」だと私は感じている。自分の耳に聞こえない「音」は語れないし、嫌いな「音」は口にしたくない。知らずに、自分の「好み」の「音」を選んでいる。
「かっぱらっぱかっぱらった」は「河童がラッパを盗んだ」というのと「意味」は同じだが、それを「声/音」にするときの「肉体」の反応が違う。「肉体」の何かわからないところの、動きが違う。「河童がラッパを盗んだ」と言えば簡単に「意味」が通じるのに、「かっぱらっぱかっぱらった」と言うと「意味」よりもほかのことに「肉体」が反応してしまう。あ、いま、おもしろい音を聞いた、と余分なことを考える。この余分なことを考える/感じるというのは、「意味」的には、とても不経済。合理的ではない。そんなことば遊びの手間をかけずに、「流通言語」のまま言ってしまえという批判がどこかから聞こえてきそうだが、でも「かっぱらっぱかっぱらった」と言ってしまう。
非合理な何か、いまの合理主義にあわない何か、つまり「キッチュ」がここにもあるのだ。もちろん、これは「キッチュ」そのものではないのだが、キッチュに通じる何かなのだ。「意味」という「合理的、経済的」なことばについていくのではなく、「意味」のほかに変なものをくっつけていることば、その「調べ/音」そのものについていく快感。快感という自分だけのものを楽しむ。これが「好き」っていうことかなあ。
「ことばあそび」に関連して、谷川は、こどもに「社会」ということばをどう教えるか、どう発見させるか、ということを頼まれたことがある、というようなことを語った。結局、こどにも「社会」を教えることはできなかったとも言ったと思うけれど。
私はこのとき、「おなら」の詩が「社会」じゃないか、と勝手に思った。
ひとりひとりが違うおならをする。ひとりひとりのおならの音が違う。それを聞いて、楽しくなる。あれは「社会」を語ったすごい詩だと私は思っている。
おならの音の違いが「個人の違い」、その音の交錯が「ひととひとの交流」というのは「俗悪な比喩」、「まがいもの比喩」かもしれないね。「キッチュな比喩」かもしれない。でも、その「キッチュ」のなかに、だれでもが知っている「肉体」がある。「うんち」もそうだなあ。だれでもが知っている「ことばにしないつながり」がある。
それが「社会」でいいのじゃないかな、と思う。
おならのひとつひとつの音なんて、一回きりの、「流通させることのできないもの」。でも、その「流通させることができない」ということが、結局、詩なのだと思う。自分で勝手に、これが「好き」と思うしかないのが詩なのだと思う。
おならやうんこの話、あるいは詩が好き、それを「社会の比喩」だと言うのは、俗悪な定義、まがいものの定義--そうだよね。確かに。しかし、そのまがいもの、俗悪なものが好き、そういうことばを語っていると「肉体」が安心する。だからやめられない。それに、おなら、うんこの話をすると、良識あるひとが顔をしかめる。それを見るのが、さらに楽しいなあ。
あ、こんな感想で何か伝わるかな?
伝わらなくてもいい。
私が、谷川と渡辺の対話を聞きながら感じたのは、渡辺はせっかく、詩集や本では出合えないおもちゃ(仮面ライダーの変身ベルト)にこころを動かしている谷川に出会って、そのことに気付きもしたのだから、それをもっと対話のなかにしつこくからめてくれれば、ほかのところではあらわれなかった谷川が動いたかもしれないのになあ、と感じたのだ。
ちょっと残念だったのだ。
ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ) | |
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