詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

塩嵜緑『そらのは』

2016-06-02 08:37:07 | 詩集
塩嵜緑『そらのは』(ふらんす堂、2016年05月07日発行)

 塩嵜緑は他人のことばをかりずに語ることができる詩人だ。対象を、自分の肉体のなかへ取り込み、そのうえでことばを動かしている。

広げられ
たたまれるときの
しろい布地の ほのあかりを

 巻頭の「たたむ」という作品の三連目。洗濯したはんかち、きもの、シーツ。その「明るさ」を単に「ほのあかり」と言っているのではない。洗って、まず広げる。干して、たたむ。そういう実際の「肉体」の動きのなかで、白い布が「ほのあかり」として見えてくる。洗濯してということば、干すということばは書かれていないが、「広げる」「たたむ」という肉体の動きが、自然に洗濯する、干すという動きを含んでいる。そこから、正直ということばを思う。「感覚」に嘘がない。塩嵜は、とても正直な人間なのだろう。
 この正直は、対象を見つめ、そこに自分の考えを語るときにもしっかりと動いている。

壷から飛び出して
畳の長さほど先に
菊の茎が 花弁が散らばっていた               

(略)

花がその命を終えて
花弁を散らすときに
途方もない力を生むものかと
思いもした                         (「花がとぶ」)

 引用前半の「畳の長さ」ということばに「暮らし」があらわれている。目で見た「長さ」がそのままつかみとられている。そのあと、その「畳の長さ」を「視覚(目の感覚)」から、もっと「肉体の内部」へと、肉体をかきわけるようにして探している。「力を生む」には、塩嵜が何かをするとき、「力を込めて」したことが思い出されている。「思い」は「頭」で「思っている」のではない。「肉体」そのもので「思っている」。そこに、他人のことばをかりることのない正直さがある。
 私は何を書くにしても他人のことば(流通していることば)に頼ってしまうので、こういう正直さ、肉体の確実な動きを見ると、あっ、と声が漏れてしまう。
 どの作品もすばらしいが、私は特に「葵上」が気に入った。

能面の内側はとてもしずか
目と鼻の
小さな穴から入る灯りに
舞台の檜板を通し見る

面(おもて)に塞がれたくらがりの中に
私はひとりぼっちになる

繰り返し
稽古を重ねた身体の感覚
舞のかたちに
私ではない だれかを呼び入れる

 能「葵上」を舞ったときのことを書いている。
 私がこころを動かされたのは、「小さな穴から入る灯りに」「私ではない だれかを呼び入れる」という行の「入る/入れる」という動詞である。
 「入る灯り」は「灯りが入る」である。主語は「灯り」。一方「呼び入れる」の主語は「私」。主語は「灯り」「私」と違っているのだが、そして「述語」も「入る」「入れる」と微妙に違っているのだが、その「違い」が「肉体」をとおすと「違い」ではなくなる。
 「灯り」は能面の「穴」から能面の内部に入るのだが、能面の内部とは「私の肉体(顔/目)」である。「だれか(葵上)」を「私」は舞を舞う「私の肉体」に「呼び入れる」のだが、それは「葵上」が「私の肉体」に「入る」ということでもある。呼んでも「入らない」ならば「呼び入れる」とは言えない。呼んで、「入ってくる」からこそ「呼び入れるの」ということができる。
 このときの「私の肉体」を塩嵜は「身体の感覚」と呼んでいる。そしてそれはただの「身体の感覚」ではない。「繰り返し/稽古を重ねた」身体の感覚である。そこには、言い換えると「時間」がある。「歴史」がある。
 「ひろげられ/たたまれるときの」ということばが自然に抱え込む「時間」と同じように、「肉体」が動くことではじめて連続して動きはじめる「時間」がある。生まれる時間がある。こういう「時間」は塩嵜だけのものである。塩嵜が生み出した「時間」である。塩嵜ではないだれかがどれだけ稽古しようと、「葵上」は塩嵜の「身体の感覚」には入ってこない。塩嵜が肉体を動かし稽古したからこそ、塩嵜の「身体の感覚」になる。このとき塩嵜は「葵上」であり、「葵上」は塩嵜である。それは「一体」であり、区別ができない。

泥眼の面を戴いたとき
ようやく私はあなたとなり
橋がかりを
ゆっくりと歩みはじめた

 「私はあなたとなり」は「あなたは私となり」でもある。
 いつでも塩嵜は「肉体」をとおして、塩嵜以外のものに「なる」。ハンカチになり、シーツになり、「ほのあかり」なる。菊になり、花びらになり、畳の上に散らばり、菊になり、畳の上花びらを散らす「力」になる。

そらのは―塩嵜緑詩集
塩嵜 緑
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする