ピカソ「戦争と平和」(ピカソ美術館@ヴァロリス、2016年05月20日)
ヴァロリスはアンティーブとカンヌの中間くらいのところにある小さな街だ。ピカソは、ここで陶器に出合った。陶器に目覚めた。たくさんの陶器をつくっている。それを見に行ったのだが、思いがけず「戦争と平和」に出合った。
私は、実は、その絵を知らなかった。私の読んだ旅行ガイドには、「戦争と平和」のことが書いてなかった。
陶器の、立体のおもしろさ、立体を生かした絵(立体と一体になった絵)、油絵にはない強い色に夢中になって、何度も展示室を往復した。リトグラフも楽しかった。あとは広場で「山羊をかかえた男」の彫像といっしょの写真を撮って帰ろうと思っていた。すると、見知らぬひとが、陶器の前を行ったり来たりしている私の方に近づいてきて、「あっちもピカソがある」と言うのである。
指差す方向へ歩いていき、その部屋に入る。それは、蒲鉾形の、窓のない部屋である。この蒲鉾形の部屋は、実は礼拝堂である。その曲面に「戦争と平和」が描かれている。
その部屋に入った瞬間、動けなくなった。異様な緊張感がある。
入って左側が「戦争」、右側が「平和」と言われている。それが、向き合う形で、丸くなって(曲面を描いて)、天井でつながっている。ふいに、「胎内」ということばが思い浮かんだ。「赤ん坊」になって、「胎内」から、「母親の肉体」を通して、世界をみているような気持ちといえばいいのだろうか。
私は、これから、どっちの方へ生まれていくのか。それを思うと、こわくなったのである。
それだけではない。「胎内」「生まれる」ということばが、絵を見ている内に、「生む」ということばにかわっていく。私は男だから「子宮」はもちろんない。「産む」ということは肉体的に不可能なのだが、「生まれる」というのは「産む/生むということなのだと感じた。
「共感」が、そう感じさせる。描かれていることが「わかる」ということが、そう感じさせる。「わかる」のは、それを私が知っているから。実際に体験したことではなくても、「わかる」。その「わかる」とき、私の「肉体」のなかで「何か」が動いている。そこに起きていることに通じる「何か」が起きていて、それが瞬間的に「生まれ」、同時に私は「生み出している」。
「戦争」の、右の男の持つ刃物の先は赤く濡れている。その下には、手が助けを求めるように動いている。そのまわりは赤い。血だろう。大地が血に染まっている。影絵のアニメーションのように、黒い影が、誰かを殺すシーンを連続して描かれている。その動きに、なぜか魅了されてしまう。私はひとを殺したことはないが、子どものとき、遊びで蛙や蛇や魚を殺したことがある。私は「殺す」ということを「肉体」で知っている。やせて、あばらぼねが浮き出た馬(その白い線)の悲しみにも、ぞくぞくするものがある。友達をいじめたときの、その悲しみが目からあふれてくるのを、ぞくぞくする感じで見ていたことがある。あの、手だけになって、なおも誰かに助けを求める指の動きも、もっと見ていたい、これからどう動くのかを確かめたいという気持ちが生まれてくるのだ。
「平和」は、美しい。ペガサスの無邪気な動きが楽しいし、よそ見している右の子ども(ペガサスの手綱を持っている子ども)の明るさがいい。女のダンスの、下半身の動き、その線の速さはエロチックなものを含んでいて、思わずうれしくなってしまう。ピカソの線は、ともかく速い。「肉眼」が一瞬だけ見たものを、見たままに描きだすスピードがあって、どきどきしてしまう。右の方では子育てをしている。赤ん坊におおいかぶされるような女の形が、とてもなつかしい感じに見える。いちばん右の、顔のないのは男だろうか。考えを書き留めているのだろうか。
太陽の描き方もいいな。太陽のまわりに木が生えているなんて、うれしくなってしまう。笑い出してしまう。この「太陽」は、また産道にも、女性の性器にも見える。まわりの「木」と見えていたのは、陰毛である。クリトリスはどれ?などと、思ってもしまう。
これらの「妄想」は、「生まれる」のではなく私が「生み出す」もの。
私以外のひとは、私とは違う感想を持ち、その瞬間瞬間、私とは違う人間となって生まれているだろう。違う人間を産み出しているだろう。
「生む/生まれる」ということに、差はない。違いはない。
不思議な「混乱」のなかで、私はシスティナの大壁画を思い出していた。天井の中央に描かれたアダムの指。正面の壁の最後の審判。入り乱れる群像。こんなにごちゃごちゃ描いているのに、乱雑な感じがしない。なぜか。和辻哲郎は「イタリア古寺巡礼」のなかで、イタリアには「分割統治」の伝統がある。ローマ帝国の時代から、都市都市に、それぞれの地方の統治をまかせてきた。システィナの絵は、それぞれの「区切り」のなかで完結しているというわけである。
一方、ピカソの壁画には、そういう区切りはない。左の壁から天井へ、天井から右の壁へ、「曲面」がつづいている。区切りは、色と線のなかにしかない。それは「任意」であるというか、動いている。どこにどの線が描かれ、どこにどの色がおかれようと、それは絵を描くピカソの自由。そして、そのどれを見るかは見る人の自由。
あらゆる瞬間に「生む/生まれる」が起きる。そして、そこには「とぎれ/区切り」がない。
これが、この絵の「緊張」の原因だ。人間は、どんな動きもできる。どんな人間にもなれる。「生む/生まれる」は「なる」でもあるのだ。
この礼拝堂を出たら、外はどうなっているのだろう。「戦争」だろうか、「平和」だろうか。私は、外に出た瞬間、何になって生まれるか。何を生み出すのか。
ピカソは、「戦争」と「平和」を同時に描いた。それは人間が「戦争」も「平和」も自分の手でつくりだすことができるという「証明」かもしれない。
しかし、こんなことを考えるのは、私が「疲れている」からだろう。「頭」が疲れていて、「肉体」が楽しめないでいる。
もっと違う時代に、もう一度、この絵を見に来たいと思った。
「戦争」は終わった、「平和」のなかへ生まれていくのだという「わくわく」する感じを、「肉体」で味わえるときが来たら、もう一度見てみたいと思う。