詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有働薫『モーツァルトカレンダー』

2016-06-26 10:47:20 | 詩集
有働薫『モーツァルトカレンダー』(arxhaeopteryx、2016年05月20日発行)

 有働薫『モーツァルトカレンダー』はモーツァルトの曲(タイトル)と詩を組み合わせたもの。私は音楽をめったに聞かないので、有働が紹介している曲がどのようなものか知らない。だから、感想は、有働の意図からかけ離れたものになるが、詩を読んで感じたことだけを書く。
 「岩たばこの栽培」。その途中の部分。

正午の鐘が鳴った
はじめいくつかは一つずつ鳴り
やがて連続して激しく鳴り
はげしくしばらく鳴りつづけ
やがて低く
遠ざかるように消えていった

 ここがとてもおもしろいと思った。
 「はじめ」「激しく」「はげしく」「しばらく」ということばが鐘の音のように似ているけれど違う感じと重なる。同じ音なのか。違う音なのか。音痴の私には区別がつかないが、鐘が鳴り響くとき、その音と音とのぶつかりあいが、ここに再現されていると感じた。「は」の音が「濁音」もふくめて鳴り響く。」げ」「く」「く」と「か行(が行)」も響きあう。
 これに、「鳴った」「鳴り」「激しく鳴り」「鳴りつづけた」。「鳴る」の繰り返し、「な」の音が割り込んできて、「は」「か行」の音を散らばらせる感じがする。
 にぎやかで、とても楽しい。
 そのあとの、

日差しが強い
 セーヌ川という名前はね、ラテン語のSequanaつまり地質学でジュラ系セ
 カニア階の意味、ローマ人がつけたんだね
連れがあるつもりになる

 と展開する。「セーヌ川云々」は何が書いてあるのか、実は、さっぱりわからない。わからないのだけれど、それが効果的。まったく新しい音として響いてくる。「意味」はあるのかもしれないが、「意味」のない「音」そのものになって聞こえてくる。その音のなかには、Sequanaという「読めない」音がある。何これ? 読めないから、聞こえない。
 でも、これって、こういう感じって、鐘の音に似ている。
 全部聞こえているつもり。でも、そこには聞こえない音がある。鳴っているのはわかるが、それを自分で再現できない音。その「不可能性」が鳴っている。「自分」とは「無関係/無縁」のものが、そこにあって、それが「世界」を華やかにしている。「無意味」をきらきらとばらまいている。
 で、この「聞こえない/無意味」というのは、もしかすると、「他人」だね。自分とは完全に断絶した存在。
 「断絶している」「他人である」。でも、だからこそ、「接続」したい。「接触したい」。繋がりたい。「断絶した/他人」を「私」につなぎあわせるとき、「世界」に革命がおきる。「私」は新しい世界に必然的に入り込んで行く。
 音楽にのみ込まれるときというのは、こんな感じだなあ。
 「他人」は、このとき「連れ」になる。
 そして、この「他人」が「連れになる」というのは、どっちが先かよくわからない。「連れになった」ときに、「他人」がはっきり存在しはじめたのかもしれない。「連れにならない他人」というのは、たぶん、存在していない。「聞こえない音」なのだ。

 こういうことばのあとに、さらに

教会堂の柵のねもとで
サンドイッチをたべた

 あ、ここがいいなあ。「世界」に抱かれている感じ。「世界」と完全に「連れ」になった感じ。
 ほかは、よくわからないのだけれど。



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