パリのピカソ美術館(2016年05月22日)
アンティーブ、ヴァロリス、パリと三つのピカソ美術館を駆け足でめぐって、ピカソの「立体」のおもしろさを、あらためて感じた。特に、いろいろな素材をあつめてつくり出す形がおもしろい。この素材の集め方(コラージュの仕方)に、私は、やはりスピードを感じる。素材を見た瞬間に、ぱっと、それが動いて形になっていくのが見えるのだと思う。悩みというものを感じることができない。まるで、こども。
その点から言うと、「塑像」は少し違う。「素材」そのものが「形」をもっていない。だから、というと変なのかなあ。「素材」をいったん「形」にしてしまって、それを組み合わせている感じがする。そういう作品がおもしろい。
マリー・テレーズをモデルにしているのだと思うけれど、「女の胸像」が私はすきだ。女の頭部がおもしろい。目とか鼻とか頬(頬骨)とかを「顔」にぶっつける。そうすると、目や鼻や頬骨が「顔」を突き破って、顔の「外」に出てくる。つながっているのだけれど、「顔」を破ってでてつくる感じがする。その「出てくる」力がピカソには見えるのだと思う。
何でも、そうなのだと思う。
そこに「もの」がある。その「もの」を突き破って、「もの」のなかから力があふれる。「もの」を変形させて、自分の力を知らせる。それに即応する。
違う観点から。
ある彫刻家がフラメンコダンサーの「塑像」をつくっているのをネットで見たことがある。モデルにポーズを取らせるのではなく、そのポーズになるまで踊らせ、ポーズを取った瞬間をじっと見つめ、それを再現する。止まったポースなのだが、ダンスを見ることで、肉体の中に動いている力を「塑像」のなかに引き込もうとしているように見えた。ピカソと、こんな手間をかけない。一度見ただけで、「肉体」がどんな具合に動いているかをつかみ取り、それを動きそのものとして形にしてしまう。
もし、ピカソがフラメンコダンサーを何度も何度も踊らせながらポーズをとらせて作品をつくるようなことがあれば、ポーズが同じ形だとしても、そのポーズをとった回数だけの違う作品をつくってしまうだろう。一度見た、一度だけ見えたものを、瞬間的に、そのまま「運動」としてつくりあげるのがピカソなのだ。
あるいは女のトルソの「塑像」をつくる過程もネットで見た。腰骨や背骨からつくりはじめ、腹筋やさまざまの筋肉を「人体模型」にあるように、そっくりそのまま内部からつくっていく。乳房も内部からつくり、最後に「皮膚」をまとわせる感じで仕上げていく。見えないけれど「内面」から作品をつくっていく。
ピカソは、そういう「手間」もかけない。「内部」に「いのち」があることはわかっている。その「内部」をつくれば作品が「落ち着く」ということなど、わかってしまっている。ピカソは「落ち着いた姿」ではなく、「落ち着いて見える姿」を破って内部があらわれるときの「異様」の美しさを、見たままに、見えるままに形にするのだ。
ピカソを見た翌日、ロダン美術館でロダンとカミーユを見たが、ロダンの作品を見ながら展示室を進んでゆき、カミーユの部屋に入った瞬間に、雰囲気ががらりとかわる。肉体の捉え方が違う。カミーユは静かだ。しなやかだ。ロダンとピカソは、まだ共通点があるかもしれないが、カミーユとピカソは共通点はないなあ、と思った瞬間。
ふと。
ピカソは大理石を彫ったことがあるだろうか。リノカットやエッチングのように、あるいは陶器のようにやわらかいものは「彫る」ことがあっても、大理石を彫ったことはあるんだろうか、と疑問に思った。
カミーユは、大理石のなかに隠れている「いのち」のようなものを彫り出し/掘り出している。
ピカソは、「彫り出す/掘り出す=発掘する」ということがあるのだろうか。むしろ逆に、外にはみ出してしまうものを、そのはみ出す瞬間、外を突き破る瞬間をとらえる芸術家なので、「掘り出す/彫る」という仕事はしなかったのかもしれない、と思ったのである。
立体作品以外では「セレスティーナ」や「自画像」に、やはり引きつけられる。(マリー・テレーズをモデルにした作品は、私が見たときは展示されていなかった。どこかに貸し出し中なのかな。他の美術館でもそうだが、ここにこれがあるはずと思い見に行って、それが貸し出されているときは、とても残念だ。オルセーで見るつもりだったルノワールは東京で展示中で見ることができなかった。)
ただ、ひきつけられると言っても、晩年の作品ほど魅力的ではない。「内部」から滲み出してくるものが、「表面」と拮抗している。「表面」を突き破って、「存在」そのものを剥き出しにしない。「滲み出す」ときの、ゆっくりした感じが、視線を吸い込むという動きをする。