詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エルマンノ・オルミ監督「緑はよみがえる」(★★★★)

2016-06-01 13:34:14 | 映画
監督 エルマンノ・オルミ 出演 クラウディオ・サンタマリア、アレッサンドロ・スペルドゥーティ、フランチェスコ・フォルミケッティ、アンドレア・ディ・マリア

 北イタリアの山の中。塹壕と兵士を描いている。戦争をしているのだが、戦争そのものはあまり描かれない。新しい「基地」へ行こうとした兵士が撃たれる。撃たれて、山の中で死ぬのはいやだといって自殺する。塹壕が攻撃され、兵士たちが逃げる。そういうシーンが、いわば「戦争映画」らしいシーン、つまり銃撃があり、爆撃があるシーンなのだが……。
 見どころは、そういう「戦闘シーン」ではない。
 塹壕の二段ベッド(?)に張られた家族の写真、食事(スープ)の配給、配達されてくる手紙、ひっそりと置かれた本、あるいはインク壷とペン(家族あてに手紙を書こうとしている)というようなシーンである。ランプの明かり、将校の部屋のストーブ、コーヒーである。それらが、とても美しい。その美しさは、こんなたとえがいいのかどうかわからないが「長江哀歌」にとらえられた生活の痕跡の美しさに似ている。つかいこまれた美しさ。塹壕が「新しい」ものでなはく、そこで暮らしている「月日」の長さを感じさせる美しさ。どういうときでも、人間は「生活」をととのえる。その「ととのえる」時間の蓄積がつくりだす美しさと言い換えてもいいかもしれない。そこに、不思議な「強さ」がある。生きている力を感じさせる「強さ」が凝縮している。これを、少ない色彩のなかで描きだすカメラが、とてもいいと思った。
 インフルエンザのため、高熱でうなされる仲間のために、雪をあつめて氷嚢(?)をつくる、というシーンも、その場にあわせて「暮らし」をととのえる工夫である。なんでもないことだが、そのなんでもないことをていねいに「暮らし」として描いている。戦場なのに、非日常の「戦争」そのものではなく、戦争のなかで動いている「日常」を描きつづける。
 ひとつ、とてもおもしろいシーンがある。二段ベッドの、たぶん下の兵士が上のベッドを見上げている。組み合わされた板が見える。そこには何も張ってない。ただ板の組み合わせのずれ、あるいは板の組み合わせの隙間が見える。何の意味もない。そこに兵士が何を見ているのか、さっぱりわからない。わからないのだが、わかる。何もすることがない。そんなとき寝転んで部屋の天井を見つめる。「木目」を見ながら、その無意味な模様に空想を重ねる。あの節目は山、ゆっくりした曲線は河、その河をのぼっていくと友達の家がある。他人に説明してもわからない何かを、自分だけで見ている。あれは、孤島。あの島でロビンソン・クルーソーのように生きてみたい……。何も説明はないのだが、ベッドの裏側の木を見つめる兵士と、アップでとらえられた板の組み合わせのようなものを見ていると、そんなことを思ってしまうのである。あれやこれやを思いながら、自分の「空想」をととのえたことを思い出すのである。「空想をととのえる」ということも、また「暮らし」のひとつである。
 そういう人間の「暮らし」というか「時間」とは無関係に存在する自然。その絶対的な美しさもすばらしい。「緑はよみがえる」というタイトルに反して、「緑」なんかは出てこない。雪を被った木々が出てくる。雪山の上にのぼった月が出てくる。それは「戦争」とは無関係に、人間が「戦争」をしているという事情とは無関係にそこに存在している。非情の美しさがある。雪明かりのなか、まわりを気にしながら走っていくウサギ。そういう動物も美しい。一方、郵便物をいっぱいに振り分け荷物にして塹壕までやってくるロバがいる。その動物も描き方も、何とも美しい。 
 冒頭の、雪明かりの美しさに誘われて歌う兵士の歌も美しい。恋人を思って歌う歌も美しい。
 「美しい」ということばを何回書いたか、わからない。この「美しい」を破壊するのが戦争である、と、しかしエルマンノ・オルミ監督は声高に主張するわけではない。ただ、その戦争を生き延びた記録として、淡々と語る。
                       (KBCシネマ1、2016年06月01日)






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