詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子「頭のなかではねる単音」、橋本シオン「デストロイしている」

2016-06-15 10:56:33 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「頭のなかではねる単音」、橋本シオン「デストロイしている」(「ココア共和国」19、2016年06月01日発行)

 浦歌無子「頭のなかではねる単音」は

青から薄藍薄藍から紺碧紺碧から群青群青から瑠璃
瑠璃から藍藍から紺青紺青から漆黒って
グラデーション変わってく

 と始まる。
 あ、「頭のなかではねる単音」というけれど、音がぜんぜん「はねない」。おもしろくないなあ、と思っていたら、左目が左のページをぐいっとつかみとる。

バッタが見せる夢はすこし変わっていて
中央に大きな池のあるレストランで
わたしはバターのたっぷりぬられたハムトーストを食べていて
池にはハムレットの像が沈んでいて
頭のなかではアルファベットが脳みそにあたってはねて

 あ、ここはおもしろい。楽しい。「ハムレットの像」は「ハムレット」の方がもっと「音」になるかなあ。
 「バッタ」「バター」「ハムトースト」「ハムレット」「アルファベット」というのは、書き出しの尻取りの繰り返しのようでもあるけれど、そしてそれを「グラデーション」と呼ぶのもおもしろいと思うけれど。
 いや、ここに「グラデーション」という「意味」をひきずってはいけないなあ、と思う。「グラデーション」なんて、最初から「予定調和」。誰がやっても、「意味」っぽくなる。連続する変化というのは「ゲシュタルト」だからというか、「ゲシュタルト」というのは「変化の連続」をベクトル化したものだから--と、私はテキトウな嘘をつきたくなってしまう。
 つまり、そんなことを考えるとおもしろくなくなる。
 で、「ハムレットの像」に戻るのだけれど「像」がない方がいいのは、「ハムレット」だけの方が「固有名詞」だからだ。「ハムレットの像」にしてしまうと、そこに像をつくったひと、像の材質(ブロンズか、コンクリート化、大理石か)というようなものが、それこそ「グラデーション/連続する変化/接続する変化」として絡みついてきてしまう。「ハムレット」だけの方が、読者それぞれが知っているハムレットのまま孤立し、グラデーションを断ち切る。「単音」になりきれる。
 そう思いながら、この詩って、全体はどうなっているのだろうと、読み直してみる。
 途中に、

そとがわでは雨の音
もっとうちがわから聞こえるのは

 という二行が出てくる。「そとがわ」と「うちがわ」は「連続/接続」している。それを「もっと」ということばを差し挟むことで、その「連続/接続」を断ち切ろうとしているのだが、逆に動いてしまわないか。「そとがわ/うちがわ」の「連続/接続」をぐいぐい内部にひっぱりこんで、「うちがわのうちがわ」まで「そとがわ」と「連続/接続」させてしまうことになっていないか。
 「……だから」「……だから」「……して」「……して」という繰り返しも「連続/接続」をひきずっている。あえて、そういう「ひきずる」感じを強調することで「単音」を瞬間的に強調したいのかもしれないけれど。
 でも、それは効果的なのかなあ。
 浦の詩では「骨」の詩がとても印象的で、私はまだそこからぬけ出せないのだが、あの「骨」の詩では、骨それぞれの「固有名詞」が「単音」としてはじけていた。一方で繰り返しあらわれる「骨」そのものが、そこに「連続/接続」が具体的に書かれていないにもかかわらず、「肉体」に「連続/接続」してくる感じがした。「孤立」と「連続/接続」が、読んでいて、私の「肉体」のなかでぶつかりあう楽しさがあった。
 ああいう作品をもっと読みたいなあ、とどうしても思ってしまう。



 橋本シオン「デストロイしている」は小詩集。「ヨシエ」が登場する作品が、私は好きである。その「ヨシエ」の書き出し。

ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに、気づけば
トーキョーのネオンと踊る。ぐじゅぐじゅの夢から醒めて、あの夢はた
だしかばねを踏み潰すだけのほこりをかぶったゆめの夢の世界だった
と、ヨシエは遠い目で言う。

 「ヨシエは蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書かずに格助詞「は」を省略し、読点「、」にしたところに、橋本の「肉体/思想」があると言えばおおげさだろうか。
 「ヨシエ、蒲団の中で芋虫のように這いずりまわっていたのに」と書くとき、「ヨシエ」は登場人物(主役)ではなく、「主題(テーマ)」なのだ。「ヨシエという人間がいる。彼女は……」を短縮していうと「ヨシエ、蒲団の中で……」になるのだ。
 だから二連目、

だいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。

 この書き出しは、実は「ヨシエ、彼女はだいきらいだ都庁が、あの姿形が、そそり立つ男性器みたいで。」である。
 「主語」ではなく「主題」。どう違うのか。
 うーん。「意識」のありかたが違うとしか言えないのだが……。
 「ヨシエ」の行動がいろいろ描かれるが、橋本は「行為」そのものに溺れない。「行為」を書くのは「ヨシエ」という人間、彼女が考えていることを浮き彫りにするため、という意識が強く働いていると思う。
 ここに書かれている「行為」を「私/橋本」もするけれど、だからといって、ここに「私/橋本」が書かれているのではなく、そのことばのなかで動いているのは「ヨシエ」であるという、「切断」が強調されている。
 ちょっと外国語っぽい。フランス語やスペイン語で、こういう言い回しがあると思う。主役を最初に言って、それを代名詞で受けて文章がつづいていくというのが。「ヨシエは……」ではなく、「ヨシエ、彼女は……」という「構文」があるように思う。日本語で書かれているのに、「翻訳」みたいな、乾いた感じがするのは、そのせいかな?
 「ヨシエ」が登場する二つ目の作品は「ヨシエと性行為について」であり、

子供を持つ男の性器が、十五年ぶりに女に触れる。ヨシエはまだ二十四歳
と六ヶ月で、皮膚にはまだハリがある。

 と書き出される。それから性行為と、その感想が書かれるのだが、「肉体」を感じさせるというよりも、「距離」というか、「肉体」を見つめる「精神」の方が浮かび上がる。「肉体」を「精神」でみつめなおす「二元論」。とても「乾いている」。

男の汗を拭ってやりながら、約一時間の行為は終了し、男性器も女性器
も、何も変わりがないと、ヨシエは思った。形と意図が違うだけで、同
じ座標で蠢いているだけの、歳をとっても、果たして何も変わらないの
だと。

 「座標」ということば。「具体的な行為」を抽象化する「定義」。「実存/定義」の「二元論」というのだろうか。これも「我思う、ゆえに我あり」から始まる、フランスの「二元論」だなあ、というようなことを考えた。「ヨシエは思った。」の「思う」という「動詞」がとても印象に残る。

ep.
橋本しおん
キリンスタジオ
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ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション

2016-06-15 09:14:40 | その他(音楽、小説etc)

ピカソ展ルードヴィヒ・コレクション(佐賀県立美術館、2016年06月14日)

 ピカソ展ルードヴィヒ・コレクションで私がいちばん気に入ったのは「鶴」(ブロンズ)である。
 ガス管(ガス栓)とショベルとフォークを組み合わせて立体にしている。ガス栓のねじの部分を鶴の鶏冠にして、ショベルは胴と翼(ショベルの土を救う部分を半分に切って形を変えている)、フォークは足だ。
 この作品には、ピカソのデッサンのスピードがくっきりとあらわれている。何を最初に見て、それが「鶴」に見えたのかわからないが、どれが最初であっても、それが鶴の「肉体」の一部に見えたとき、他のものがぱっとそのまわりに集まってきて、一気に形なる。いつも見ていた何かが、突然、違って見えてしまう。ガス栓のねじが鶴の鶏冠に見えたとき、ショベルが翼になってみつかる。フォークは足になってやってくる。
 「材料」を変形させるのではなく、「材料」がそのまま「形」になっていくのが「見える」のだ。「材料」が隠している「形」が見えてしまう。違う形になりたがっている、その「もの」の欲望が見える。それを、そのまま後押しする。「材料」のなかから「形」があらわれてくるのを手助けしているという感じかもしれない。「材料」そのものがもっている力を、そのまま引き出すから、「加工」に手間がかからない。あっというまに作品になってしまう。実際にどれくらいの時間をかけてつくったものかわからないけれど、「一瞬」にしてつくったという感じがする。
 ピカソの何かを「見てしまう」視力には試行錯誤というものがない。ピカソの視力には迷いというものがない。
 そのスピードに、私の視力はのみ込まれてしまう。そこにあるのは「鶴」ではない。しかしし、ピカソの「鶴として見てしまう」スピードにひきずられ、「鶴」にしか見えなくなる。「これは何かなあ、鶴かなあ、ガス管かなあ」などと考えている「時間」がない。ボルトが百メートルを九秒台で走るのを見ているとき、ただそのスピードの美しさに感動して十秒を忘れるのに似ている。いや、それ以上。その作品にピカソがどれだけ時間をかけたのか、そんなことは「思いもしない」。「一瞬」にして完成したと感じてしまうのである。
 そして、何と言うのだろう、そこにある「不自由」をたたき壊していく「自由」の力も、そのときに感じるのだ。ガス管もショベルもフォークも、完成された形。(あるいは、それらはつかわれなくなった不良品かもしれないのだが。)その「完成されたもの」を縛っている既成の力を破壊し、もう一度エネルギーを与えなおし、「自由」へ向かって解放する力というものを感じる。「革命」というとおおげさかもしれないが、これから何がおきるのかわからない、何が起きてもかまわない、すでにあるものを違うものに変えていくのは楽しい、という無邪気な喜びがある。喜びの、はかりしれないスピードがある。

 陶器作品では「頬づえをついている顔の水差し」がおもしろい。水差しの形ができて、それからそれに絵を描いたのか、頬づえをついている女を描きたくて、その水差しをつくったのか、わからない。きっと、同時に思いついたのだろう。この「同時」というのがピカソのデッサンのスピードである。あらゆることが「同時」なのだ。この壷には、横を向いている顔と正面の顔が組みあわさっているが、それはひとりの女のなかで「同時」におきることである。女は頬づえをついたまま正面を見ているとしても、その顔には同時に横顔がある。立体のなかで、それが自然に融合している。「複数」の時間を「同時」につかまえてしまうのだ。

 「接吻」も好きな絵だ。男が女にキスをしている。キスをしながら体をまさぐっている。女は「やめて」というように、その手を拒んでいる。男は、女の顔を見つめながらキスをする一方、「同時」に、女の手を「そんなことするなよ、触らせろよ」という感じで見ながら手に力をこめている。ひとは「同時」にいくつものことをする。そして、それは「いくつものこと」でありながら「ひとつ」。キスは単に唇をあわせること、舌をからめることではない。そのとき「味わっている」のは唇の感触だけではない。「ひとつ」のことをしながら「同時」に「複数」のことを感じ、動いている。この「交錯する感じ/交錯する肉体の動き」を一瞬にしてとらえてしまうピカソのデッサンのスピードが、とても楽しい。快感である。笑い出したくなる。
 「読書する女の頭部」は、わかりやすい作品といえるだろう。左半分には光があたっている。右半分は影になっている。その影になった部分、うつむいた睫毛は、読んでいる本をすこし離れている。「活字」を追っているのではなく、ストーリーを追っているのではなく、そこで動いている「感情」に共感しているように見える。「読みながら共感する」というのは誰にでもおきること。それは「同時」に起きているのだが、「同時」ではあっても少し「時差」がある。この「時差」というか「ゆらぎ」を多くの画家は「ひとつの表情」にしてしまうのだが、ピカソの筆のスピードは「ひとつ」を「解体」し、もういちど「統合」する。いや、統合という「おとな」っぽい行為ではないかもしれないなあ。「解体」によって生まれたものをぶつけ合う。そのときの衝突、その衝撃を楽しんでいるといった方がいいのかも。何だって作り上げるときよりも、それをたたき壊すときの方がはるかに楽しい。ここまで壊すことができる、という喜び。壊すことではじめて見えてくる「秘密」のようなものが楽しいし、こわれたものをさらにぶつけて「形」ですらなくしてしまう。そこに「生まれてくるもの」は何? わからない。「知らないもの」が生まれてくる喜び。それは意外と「肉体が知っている」ものだったという、不思議な「安心感」もあるかもしれない。そういうものすべてが「同時」に、そして「一瞬」よりもはるかに短い時間の内に起きてしまうのがピカソなのだ。



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