山田由紀乃「音に替えたら」、陶山エリ「気象予報士」(「現代詩講座@リードカフェ」2016年06月01日)
円周率(数字)をピアノのキーに割り振り曲にした演奏がネットで評判になっているが、この作品は九重山の標高をメーンの旋律にした「九重讃歌」をテーマに書かれている。(山田から、「ドシドシ」というのはニ長調をドレミに言い換えたもの。♯がふたつついた曲という説明があった。)数字を音(音楽)に変えて曲をつくるということ、そういう曲が実際にあり、それを演奏するということに最初は関心が集まった。「音楽を愛している(マンドリンを演奏している)山田さんらしい作品」という感想が多かったのだが、
「数字を音にする」という「事実」。その「事実」をどう言い直すか。「数字を音にする」という「変化」のなかに「詩」があるのだが、その「詩」と向き合って、どうやってそれと向き合い、自分自身が「詩」になるか。
そういうことが、作品の評価の「核」になると思う。
「わたし」ということばが二回出てくるが、ここが大事だと思う。「音楽」のなかにマンドリンを演奏するという「動詞」で参加していく。書かれた曲を演奏するとき「わたし」が音楽になる。
「練習会場の外は満月」という行が「場面転換」になっていておもしろい、という感想があったが、ここから「わたし」の参加が始まっている。一連目は「事実」の「紹介」。「わたし」は隠れている。
「練習」するという「動詞」から「わたし」そのものがあらわれてくる。その「わたし」は満月を見る。「九重讃歌」は満月から着想された曲ではないが、「わたし」が演奏しながら満月を見ることで、山田の「肉体」のなかに別なものが動きはじめる。「肉体」は別のことを思い出す。
これは、山田自身が思いついたことではなく、だれかから聞いたことである。「月の光のエネルギーを音にすると/ラソミドだという」の「という」が、山田以外の人間の存在を告げている。しかし、そこに「他者」がいるとしても、その「他者」がここにでてきて発言しているわけではない。山田の「肉体」のなかから、山田の「覚えていること」として出てきて発言している。
音合わせの「ラ」というのも、いわば音楽の常識であり、山田自身の発見ではないのだけれど、練習する、演奏するという「肉体」を潜り抜けることで、山田自身の「肉体」になっている。
そこで、私は思うのだが。
この二か所にあらわれた「という」「といえる」という「伝聞」は、詩を弱くしている。山田の「正直」が、「伝聞」の形をとらせると思うのだが、もう山田の「肉体」になってしまっているのだから、山田のことばとして断定してしまえばいいのだ。
音楽のなかで「事実」になってしまっていて、音楽家のなかで共有されていることなら、それを「伝聞」にする必要はない。「共有」の「共」は「共感」の「共」でもある。その「共」は、そのままほうり出した方が、山田の肉体/思想が読者に直接伝わる。
せっかくマンドリンを弾き、音楽そのもののなかに入って、「音楽という場」からことばを発しているのだから、その「場」を離れて「伝聞」にすると、ことばが弱くなってしまう。「共有」戻っていくと、読者はその「共有」の「輪」から締め出されたと感じてしまう。「直接」が遠くなる。
「という」という「伝聞」を省略した方が、最終連の美しさが、より「直接」的になると思う。
*
福岡市の大濠公園のそばに福岡気象台がある。いま、その周辺の堀(福岡城の堀)にはハスの花が咲いている。そういうこともあって「大濠公園を思い出す。情景が浮かぶ」「小さいころを思い出す。傘のなかで雨音を聞いた。『遊ぶぜんせん』の、遊ぶということばに誘われる」という感想から、詩に向き合うことになった。
ことばの「ずれ」(重なりながら別なものになっていく)ということに関しては、「雨でも行くと言い残し雨の音がきこえますひとりの土曜日ですを書き忘れ」という一行は、これまでも読んできた陶山の作品と同じ。句読点を書かないことで、「切断」を排除し、「接続」させてしまう手法。
今回は、そういう手法よりも、
この二行の「雪柳」がそのまま「うなだれる」という「動詞」へと変化していくところが、いままでとは違う「切断/接続」として動いていると感じた。
では、「雨」が「泣く」という「動詞」になり、「墨絵」が「滲む」という「動詞」になる部分にも、同じ手法が動いている。「名詞」を「動詞」にすることで、そこに「肉体」が入ってくるのだが、その「肉体」の「動き/動詞」にむりがなく、同時に、その「動詞」が「世界」と和解するように情景の中へ広がっていく。
という一行は、陶山の詩を読みつづけている受講者や私にはなじみのものだが、それが
という「情景」へと変化していくというのは、いわゆる「象徴詩」のことばの動きのようで、おもしろい。受講者のひとりが「泣きそうになりながら」に強い共感を示したのも、この詩には、いつになく「抒情的」な「象徴詩」に通じることばの動きがあるからかもしれない。
感想を語り合っているとき、陶山の方から、
の行の「終わり方」をどうするか悩んだという声が出た。「だけだから」「だけだ」「だけだもの」のどちらを選ぶか。
私は、特に女性という感じを持たなかった。それよりも「もの」という「お」の音がつづくことばで終わると「だけだ」「だけだから」という「あ」の音の多いことばよりも、何か、内にこもった感じがすると思った。その「内にこもる」感じが「泣きたい」とか「滲む」に通じていて、とても自然に感じた。
また最後の「不等辺三角形」が、さっぱりしていて、不思議な感じで詩に清潔感を与えていると思った。
(次回は7月13日、水曜日。午後6時から。)
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
音に替えたら 山田由紀乃
九重山は1787メートル
高さを音に置き換えた人がいる
1787を下からドシドシ、次の小節でながいド
チエロ ギター ベースが音を鳴らすと
九重の威容が現れた
中音部が山の陰影をつけ
高音部が輝き歌う九重讃歌だ
練習会場の外は満月
月の光が九重連山にも降り注いでいるだろうか
光が降るそれはエネルギーだ
月の光のエネルギーを音にすると
ラソミドだという
オーケストラの音合わせの源はラの音だけど
それは月の光の最も美しい波長だといえる
毎朝 わたしは一杯の珈琲を飲みながら
ベランダ越しに公園の樹木に挨拶を送る
もう樹々たちはわたしを待っている
夕べの月の思い出を樹木の高低に置き換えて
奏でようマンドリン
レミファソで駆け上がりラソドで天辺だ
レドレドレド~~ラと滑り降りてくる
樹木の裾はいつも揺れている
低い枝の繁みの中に小鳥が沈んだり飛び出したり
綴れ織りの装飾音符をたどっている
円周率(数字)をピアノのキーに割り振り曲にした演奏がネットで評判になっているが、この作品は九重山の標高をメーンの旋律にした「九重讃歌」をテーマに書かれている。(山田から、「ドシドシ」というのはニ長調をドレミに言い換えたもの。♯がふたつついた曲という説明があった。)数字を音(音楽)に変えて曲をつくるということ、そういう曲が実際にあり、それを演奏するということに最初は関心が集まった。「音楽を愛している(マンドリンを演奏している)山田さんらしい作品」という感想が多かったのだが、
<質 問>数字を音楽に変えるということ以外では、どういうところが印象的?
<受講者1>最後連。小鳥で音符をつくる、小鳥を音符にしてしまうところ。
<受講者2>二連目の「練習会場の外は満月」という一行。
ここに場面転換がある。それがおもしろい。
<受講者3>5連目が楽しそう。
音が、山の高さから、月、樹木を組み込みながら変化している。
「レミファソで駆け上がり」からの二行が、目に見える。
最初は説明っぽい感じだが、終わり方が楽しい。
<受講者1>最終連の「小鳥が沈んだり」の「沈む」がおもしろい。
「レドレドレド~~ラと滑り降りてくる」は情景と音が重なる。
「数字を音にする」という「事実」。その「事実」をどう言い直すか。「数字を音にする」という「変化」のなかに「詩」があるのだが、その「詩」と向き合って、どうやってそれと向き合い、自分自身が「詩」になるか。
そういうことが、作品の評価の「核」になると思う。
「わたし」ということばが二回出てくるが、ここが大事だと思う。「音楽」のなかにマンドリンを演奏するという「動詞」で参加していく。書かれた曲を演奏するとき「わたし」が音楽になる。
「練習会場の外は満月」という行が「場面転換」になっていておもしろい、という感想があったが、ここから「わたし」の参加が始まっている。一連目は「事実」の「紹介」。「わたし」は隠れている。
「練習」するという「動詞」から「わたし」そのものがあらわれてくる。その「わたし」は満月を見る。「九重讃歌」は満月から着想された曲ではないが、「わたし」が演奏しながら満月を見ることで、山田の「肉体」のなかに別なものが動きはじめる。「肉体」は別のことを思い出す。
月の光のエネルギー
これは、山田自身が思いついたことではなく、だれかから聞いたことである。「月の光のエネルギーを音にすると/ラソミドだという」の「という」が、山田以外の人間の存在を告げている。しかし、そこに「他者」がいるとしても、その「他者」がここにでてきて発言しているわけではない。山田の「肉体」のなかから、山田の「覚えていること」として出てきて発言している。
音合わせの「ラ」というのも、いわば音楽の常識であり、山田自身の発見ではないのだけれど、練習する、演奏するという「肉体」を潜り抜けることで、山田自身の「肉体」になっている。
そこで、私は思うのだが。
月の光のエネルギーを音にすると
ラソミドだという
オーケストラの音合わせの源はラの音だけど
それは月の光の最も美しい波長だといえる
この二か所にあらわれた「という」「といえる」という「伝聞」は、詩を弱くしている。山田の「正直」が、「伝聞」の形をとらせると思うのだが、もう山田の「肉体」になってしまっているのだから、山田のことばとして断定してしまえばいいのだ。
音楽のなかで「事実」になってしまっていて、音楽家のなかで共有されていることなら、それを「伝聞」にする必要はない。「共有」の「共」は「共感」の「共」でもある。その「共」は、そのままほうり出した方が、山田の肉体/思想が読者に直接伝わる。
せっかくマンドリンを弾き、音楽そのもののなかに入って、「音楽という場」からことばを発しているのだから、その「場」を離れて「伝聞」にすると、ことばが弱くなってしまう。「共有」戻っていくと、読者はその「共有」の「輪」から締め出されたと感じてしまう。「直接」が遠くなる。
「という」という「伝聞」を省略した方が、最終連の美しさが、より「直接」的になると思う。
*
気象予報士 陶山エリ
お濠の淵に立つ気象予報士いつもの気象予報士
蓮の葉に遊ぶ大きな水滴ぜんせんぜんせん絡みついてはるなつあきふゆ遊ぶぜんせん
金曜日の雨は上手く躱して歩けば思いがけず自由
敷き詰められた記憶踏み締め歩く四月の階段の途中の雪柳
低くうなだれる風景
残さず再現できるいつでもできる眠るだけだもの
誰が泣いているかわからない雨が降りそうだけれど
雨でも行くと言い残し雨の音がきこえますひとりの土曜日ですを書き忘れ
今ごろはきっともうお濠の淵を泣きそうになりながら遠景に見ればそれはもう
墨絵のようならばあとはもう滲むだけだもの
もう少し時間をください滲む果てまでのもう少し時間ください
伝わりそうで待てないかもしれなくて伝わらない果てまで届かないかもしれないならばあとはもういつもそう蓮の葉に立ち零れる雨粒の表面張力に弾ける気がしない
いつもの気象予報士蓮の花横たわる前線
不等辺三角形に並ぶとき遠景に見れば
不安な美しい天気図出来上がる
福岡市の大濠公園のそばに福岡気象台がある。いま、その周辺の堀(福岡城の堀)にはハスの花が咲いている。そういうこともあって「大濠公園を思い出す。情景が浮かぶ」「小さいころを思い出す。傘のなかで雨音を聞いた。『遊ぶぜんせん』の、遊ぶということばに誘われる」という感想から、詩に向き合うことになった。
<受講者1>難しい。タイトルが中身と違う感じがする。
「泣きそうになりながら」から遠景が墨絵のように雨に「滲む」がいい。
その次の「もう少し時間をください」の一行が好き。
<受講者2>全体が好きだけれど、三連目が特に好き。
ことばが少しずつ重なりながら変化していく。
<受講者3>「ぜんせん」ということばで遊んでいるのが楽しい。
ことばの「ずれ」(重なりながら別なものになっていく)ということに関しては、「雨でも行くと言い残し雨の音がきこえますひとりの土曜日ですを書き忘れ」という一行は、これまでも読んできた陶山の作品と同じ。句読点を書かないことで、「切断」を排除し、「接続」させてしまう手法。
今回は、そういう手法よりも、
敷き詰められた記憶踏み締め歩く四月の階段の途中の雪柳
低くうなだれる風景
この二行の「雪柳」がそのまま「うなだれる」という「動詞」へと変化していくところが、いままでとは違う「切断/接続」として動いていると感じた。
今ごろはきっともうお濠の淵を泣きそうになりながら遠景に見ればそれはもう
墨絵のようならばあとはもう滲むだけだもの
では、「雨」が「泣く」という「動詞」になり、「墨絵」が「滲む」という「動詞」になる部分にも、同じ手法が動いている。「名詞」を「動詞」にすることで、そこに「肉体」が入ってくるのだが、その「肉体」の「動き/動詞」にむりがなく、同時に、その「動詞」が「世界」と和解するように情景の中へ広がっていく。
伝わりそうで待てないかもしれなくて伝わらない果てまで届かないかもしれないならば
という一行は、陶山の詩を読みつづけている受講者や私にはなじみのものだが、それが
あとはもういつもそう蓮の葉に立ち零れる雨粒の表面張力に弾ける気がしない
という「情景」へと変化していくというのは、いわゆる「象徴詩」のことばの動きのようで、おもしろい。受講者のひとりが「泣きそうになりながら」に強い共感を示したのも、この詩には、いつになく「抒情的」な「象徴詩」に通じることばの動きがあるからかもしれない。
感想を語り合っているとき、陶山の方から、
残さず再現できるいつでもできる眠るだけだもの
墨絵のようならばあとはもう滲むだけだもの
の行の「終わり方」をどうするか悩んだという声が出た。「だけだから」「だけだ」「だけだもの」のどちらを選ぶか。
<受講者2>「だもの」に女性らしさを感じる。
大切にしてやりたい、守ってやりたいという印象。
「もの」に自分で抱き留める感じもある。
<受講者1>「だもの」がつくと、こびている感じじ。「かわいいことば」になる。
私は、特に女性という感じを持たなかった。それよりも「もの」という「お」の音がつづくことばで終わると「だけだ」「だけだから」という「あ」の音の多いことばよりも、何か、内にこもった感じがすると思った。その「内にこもる」感じが「泣きたい」とか「滲む」に通じていて、とても自然に感じた。
また最後の「不等辺三角形」が、さっぱりしていて、不思議な感じで詩に清潔感を与えていると思った。
(次回は7月13日、水曜日。午後6時から。)
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。