金井雄二「りんごがひとつ」(「独合点」125 、2016年05月10日発行)
金井雄二「りんごがひとつ」の最後の方が、なんとなく、おかしい。
「あとかたもなくなる」が、おかしい。「ぼくが/食べてしまうからだ」と「理由」が書かれているが、そんなことに「理由」っている? いらない。だから、おかしい。
言い換えると、りんごを食べるとりんごがなくなるというのは、あたりまえ。そういう、わかっていることを、わざわざことばにしているからおかしい。
ことばにすると、わかっていることでもわからなくなる、というか、違ったものに見えてきてしまう。
「なくなる」「ない」ということが、「あらわれる」。「あらわれない/見えない」のが「ない」なのに、「あった」ことが「わかる」というか、「意識」のなかで動く。
ことばにするとなんだがめんどうくさいのだが、そのめんどうくささが、ことばのどこか、「意識」のどこかをくすぐっているらしい。
「なくなる」まえに、何が「あった」のか。
「白く輝きながら」。これはりんごの果肉が白いということだね。「赤」ではなくて(「皮」ではなくて)、果肉の「白」。これが「意識」されるのは、吉田拓郎の歌「リンゴ」が、その前に意識されているからだ。
拓郎のうたでは「ふたり」。でも、金井の詩には「ぼく」しか出て来ない。ここから「あとかたもなくなる」ということばは、りんごだけではなく、「君と一緒に食べた」という「過去」も「あとかたもなくなった」という感じがしてくる。しかし、「過去」というのは「あとかたもなくなる」ものではない。いつでも「思い出す」ことができる。「記憶」が残ってる。「思い出す」と、その「過去」が「過去」にだけあって、「いま/ここ」にないことがわかる。「あとかたもなくなった」のは「過去のしあわせ」ということかな?
あ、こんなことは、金井は書いていない。けれど、「あとかたもなくなる」ということばが、そういうことを感じさせる。
りんごというのは、「食べてしまう」とほんとうに「あとかたもなくなる」かというと、そうではなく、たいてい「芯」がのこる。姫りんごのように小さなものでも「芯」は残る。それはきっと「リンゴ」の「ふたりでリンゴをかじった記憶」のようなものかもしれない。
「あとかたもなくなる」ということはなくて、必ず何かが「残る」。
残っているのに「あとかたもなくなる」と言ってしまう。
これを「悲しみ」にせずに「おかしみ」にしているのが、金井の詩のいいところだろうなあ。「悲しみ」に共感する前に「おかしい」と思ってしまう。そこが、「抒情」を軽くしている。
この詩には、もうひとつ、おかしなところがある。部分部分を引用する。
これは「りんごがひとつ(ある)」、それを「(ぼくは)齧ろうとしている」ということ。だから、
としばらくすると言い直される。
(この、省略された「ある」は、最初に引用した最後の部分の「あとかたもなくなる」の「ない」と呼応しているのだけれど、こういうことは書くとうるさくなるので、省略ふる。)
さらに「りんご」は
これは「りんご」が登場する歌を歌おう。思い出してみようということだろう。で、拓郎の歌が引用され、そのあと
と最後の部分になる。
この「りんごもひとつ」の「も」は何? りんごがりんごを齧ろうとしている? まあ、詩だから、そういうことがあってもいいのかもしれないけれど。
「りんご(を)、もうひとつ」とも読める。「さらに、あと一個」ということ。「もう」と書くと(言うと)、しっかり食べる感じがするが、「もひとつ」というと、軽い。
「が」「を」「で」は助詞。「も」は助詞とも読めるし、副詞とも読める。
この変化が、妙におもしろい。
何か、私をつまずかせるものがある。
詩は、つまずいて、あれっ、今のは何? なんでつまずいたのかなあ、と思いながら自分をふりかえるときに、ふっと見えるものかもしれない。
金井雄二「りんごがひとつ」の最後の方が、なんとなく、おかしい。
りんご
ぼくがその前にいて
白く輝きながら
そのうち
あとかたもなくなる
ぼくが
食べてしまうからだ
「あとかたもなくなる」が、おかしい。「ぼくが/食べてしまうからだ」と「理由」が書かれているが、そんなことに「理由」っている? いらない。だから、おかしい。
言い換えると、りんごを食べるとりんごがなくなるというのは、あたりまえ。そういう、わかっていることを、わざわざことばにしているからおかしい。
ことばにすると、わかっていることでもわからなくなる、というか、違ったものに見えてきてしまう。
「なくなる」「ない」ということが、「あらわれる」。「あらわれない/見えない」のが「ない」なのに、「あった」ことが「わかる」というか、「意識」のなかで動く。
ことばにするとなんだがめんどうくさいのだが、そのめんどうくささが、ことばのどこか、「意識」のどこかをくすぐっているらしい。
「なくなる」まえに、何が「あった」のか。
「白く輝きながら」。これはりんごの果肉が白いということだね。「赤」ではなくて(「皮」ではなくて)、果肉の「白」。これが「意識」されるのは、吉田拓郎の歌「リンゴ」が、その前に意識されているからだ。
りんごでひとつ
うたをうたおう
ぼくの好きなうた
(ひとつのリンゴを君がふたつに切る)
(ぼくの方が少し大きく切ってある)
(そして二人で仲良くかじる)
拓郎のうたでは「ふたり」。でも、金井の詩には「ぼく」しか出て来ない。ここから「あとかたもなくなる」ということばは、りんごだけではなく、「君と一緒に食べた」という「過去」も「あとかたもなくなった」という感じがしてくる。しかし、「過去」というのは「あとかたもなくなる」ものではない。いつでも「思い出す」ことができる。「記憶」が残ってる。「思い出す」と、その「過去」が「過去」にだけあって、「いま/ここ」にないことがわかる。「あとかたもなくなった」のは「過去のしあわせ」ということかな?
あ、こんなことは、金井は書いていない。けれど、「あとかたもなくなる」ということばが、そういうことを感じさせる。
りんごというのは、「食べてしまう」とほんとうに「あとかたもなくなる」かというと、そうではなく、たいてい「芯」がのこる。姫りんごのように小さなものでも「芯」は残る。それはきっと「リンゴ」の「ふたりでリンゴをかじった記憶」のようなものかもしれない。
「あとかたもなくなる」ということはなくて、必ず何かが「残る」。
残っているのに「あとかたもなくなる」と言ってしまう。
これを「悲しみ」にせずに「おかしみ」にしているのが、金井の詩のいいところだろうなあ。「悲しみ」に共感する前に「おかしい」と思ってしまう。そこが、「抒情」を軽くしている。
この詩には、もうひとつ、おかしなところがある。部分部分を引用する。
りんごがひとつ
齧ろうとしている
これは「りんごがひとつ(ある)」、それを「(ぼくは)齧ろうとしている」ということ。だから、
りんごをひとつ
齧ろうとしている
としばらくすると言い直される。
(この、省略された「ある」は、最初に引用した最後の部分の「あとかたもなくなる」の「ない」と呼応しているのだけれど、こういうことは書くとうるさくなるので、省略ふる。)
さらに「りんご」は
りんごでひとつ
うたをうたおう
これは「りんご」が登場する歌を歌おう。思い出してみようということだろう。で、拓郎の歌が引用され、そのあと
りんごもひとつ
齧ろうとしている
りんご
ぼくがその前にいて
白く輝きながら
そのうち
あとかたもなくなる
ぼくが
食べてしまうからだ
と最後の部分になる。
この「りんごもひとつ」の「も」は何? りんごがりんごを齧ろうとしている? まあ、詩だから、そういうことがあってもいいのかもしれないけれど。
「りんご(を)、もうひとつ」とも読める。「さらに、あと一個」ということ。「もう」と書くと(言うと)、しっかり食べる感じがするが、「もひとつ」というと、軽い。
「が」「を」「で」は助詞。「も」は助詞とも読めるし、副詞とも読める。
この変化が、妙におもしろい。
何か、私をつまずかせるものがある。
詩は、つまずいて、あれっ、今のは何? なんでつまずいたのかなあ、と思いながら自分をふりかえるときに、ふっと見えるものかもしれない。
朝起きてぼくは | |
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