菅井敏文『コラージュ』(洪水企画、2016年06月15日発行)
私は、とても苦手なことがある。「語呂合わせ」である。この「語呂合わせ」のため、私は歴史が嫌いになった。もともと何かを覚えるということが苦手なのだが、歴史の「年号」を覚えるための「語呂合わせ」に出合って、そんな面倒なことはとてもできない、と感じてしまった。何年という数字と事実だけ覚えればすむはずなのに、「語呂合わせ」で関連づけるという「手間」が面倒で、これはやっていられない、と子どもごごろに思った。「語呂合わせ」の延長にある「だじゃれ」も、私は苦手。おもしろいというよりも、ふたつのことを結びつけるのが面倒くさいのである。
で。
菅井敏文『コラージュ』なのだが、ふんだんに出てくることば遊びが、私には、とても面倒くさい。延々とつづく遊びに、「楽しい」と感じるよりも、「わぁ、根気があるなあ」と思ってしまう。
これは「しりとり」と「韻」を踏む遊びをごっちゃにしたものだが、この「細かさ」に私はどうしてもついていけない。気配り(?)ということが、私は、どうも性分にあわない。
ただ「発哺」というのははじめて見ることばなのでどう読んでいいのかわからないのだが、次の「かっぽ、ちっそ、そっぽ」を参考にすれば「はっぽ」になるのかな、と思う。そして、そう読むときの、この行は、ちょっと楽しい。
音が弾むからである。
その弾みを利用して、「有為不作為即天嘆願」も、わりと気楽に読むことができた。「有為不作為」には「音」だけではなく「漢字」の「だじゃれ(?)」のようなものもあって、楽しかった。
は、この詩集のなかではいちばん楽しかった。特に「どれから」が楽しい。「名詞」ではないところが、いい。「音」だけになっている。もっと、こういう「ことば」、「音」で動いていくことばがあると、楽しいのだと思う。
「意味」が消えて、ことばが「音」になる。そこから始まる「音楽」なら楽しいのだが、「音」が「意味」をぶら下げていると、とても窮屈に感じる。
これは、まあ、単に私の好みの問題なのだろうけれど。
あ、音が楽しくないなあ、窮屈すぎるなあ、と思いながら読み進むと、「ひるむ」という詩が、唐突に、あらわれる。
詩集のタイトルの「コラージュ」ということばも出てくる。
あ、そうか、そういうことだったのか、と納得というか、私は勝手に「誤読」するのである。
「語呂合わせ/ことば遊び」ではなく、ことばの「コラージュ」。それは「意味」を「分解」し、つまり「解体」し、言い換えると「無意味化」し、それを「部品」としてはじけさせてしまう。ばらばらにしてしまう。
何かを「もの」を解体し、その奥に隠れていた部品をずらりと並べる感じ。並べなおす感じ。
目覚まし時計は、こういう部品でつくられているというのをきちんと並べてみせる。さらにオルゴールや薬罐やスマートフォンや、身の回りのものを全部、ねじ一個にまで分解して並べなおす。その「一覧表(一覧図?)」をつくる感じかなあ。そういうものがずらりと並ぶと、「視覚」が圧倒されるね。見えなかったものを、丁寧に見せつけられる感じ。
その「部品」は、
という感じで「分解/部品化」されていく。「ことば」の奥に、「意味」にはらないない「溜めてこらえていた思い」を見ているのか。「溜めて」「こらえていた」と畳みかけるリズムがいいなあ。「肉体」を感じる。
ことばが「溜めてこらえている思い」を、ことばとことばをぶつけることで、分解させているということなのか。
ここから「ことば遊び」の詩を読み返せば、きっと違ったもの(私が「面倒くさい」と呼んだもの以外のもの)が見えてくるのだろうけれど、でも、私は実は「引き返す」ということも「面倒くさい」と感じてしまう人間なので、先に進む。
「ミネさん」という詩。そのなかほど。
「関係ないと思っていたことが/そのように意識とは別にあるのが人間の記憶で/よみがえることで関係が再び生成される」という「意味」を「コラージュ」にあてはめて見つめなおすと、菅井のやっていることを語りなおすことになるだろう。
関係ないと思っていたことばがコラージュされると、ことばのそれぞれの「意味」と思っていたものとは別な「記憶」があらわれる。そしてそれは、よみがえることで、いままでのことばとは違う「関係」を生成しはじめる。
そういうことを、やっているのだ。
で、そのときの、「意識とは別にあるのが人間の記憶」、私はそれを「意味と思っていたものとは別の記憶」と言い直してみたのだが、それを菅井の書いている詩のなかのことばで言い直すと、
ここだね。「玄関」「トイレ」「部屋」というのは「意味」だ。それはそれぞれの「位置」をしめている。「位置」、つまり「配置」されることで生まれる「関係」があるのだが、「場所/配置/関係」の「閾(しきい)」を超えて「臭い」が動いている。「玄関」には「玄関の臭い」「トイレにはトイレの臭い」があるのかもしれないが、それとは別に「家」全体の「閾」を超えてひろがる「臭い」というものもあるね。何か、その家独特の、その家ならではの「臭い」。
それを「肉体/鼻」がおぼえている。思い出して「むずむず」している。「肉体」のなかに「臭い」をつくりだしているのかもしれない。
これと同じことが、ことばの「コラージュ」をするときに、菅井の「肉体」のなかで起きているのだ。それぞれの「ことばの場所」、ことばがある場所を占めることで獲得/確立する「意味」を菅井は明瞭に知っている。知っているけれど、同時に、そこに「意味」にならない「特有の臭い」を感じ、その「臭い」にしたがって、ことばを配置しなおす。ぶつけなおす。そこから「関係が再び生成される」。
あ、私は音痴(耳が悪い)だけではなく、鼻も悪い。「臭い」につつまれると、それがどんな臭いであれ、息苦しさにおそわれる。
菅井のやろうとしていることは、なんとなく「頭」でわかった。しかし、私は、それを「肉体」で体験しなおすことができない。私は耳も鼻も弱い。(目も悪く、長い間パソコンのモニターを見ながら書くというのも、実はとても苦しいのだが、私は、この詩集では「視覚」を主につかって読んでいるなあ、と反省している。)耳も鼻も頑丈な読者向けの詩集だと思った。強靱な「肉体」の読者が、もっと楽しく感想を書いてくれるのを期待しよう。
私は、とても苦手なことがある。「語呂合わせ」である。この「語呂合わせ」のため、私は歴史が嫌いになった。もともと何かを覚えるということが苦手なのだが、歴史の「年号」を覚えるための「語呂合わせ」に出合って、そんな面倒なことはとてもできない、と感じてしまった。何年という数字と事実だけ覚えればすむはずなのに、「語呂合わせ」で関連づけるという「手間」が面倒で、これはやっていられない、と子どもごごろに思った。「語呂合わせ」の延長にある「だじゃれ」も、私は苦手。おもしろいというよりも、ふたつのことを結びつけるのが面倒くさいのである。
で。
菅井敏文『コラージュ』なのだが、ふんだんに出てくることば遊びが、私には、とても面倒くさい。延々とつづく遊びに、「楽しい」と感じるよりも、「わぁ、根気があるなあ」と思ってしまう。
鰤武器桐箪笥寸胴鍋
禿げげそそ知らぬぬばたま
発哺闊歩窒素そっぽ
有為不作為即天嘆願 (「うん」)
これは「しりとり」と「韻」を踏む遊びをごっちゃにしたものだが、この「細かさ」に私はどうしてもついていけない。気配り(?)ということが、私は、どうも性分にあわない。
ただ「発哺」というのははじめて見ることばなのでどう読んでいいのかわからないのだが、次の「かっぽ、ちっそ、そっぽ」を参考にすれば「はっぽ」になるのかな、と思う。そして、そう読むときの、この行は、ちょっと楽しい。
音が弾むからである。
その弾みを利用して、「有為不作為即天嘆願」も、わりと気楽に読むことができた。「有為不作為」には「音」だけではなく「漢字」の「だじゃれ(?)」のようなものもあって、楽しかった。
レファラ
らっきょで絶叫京都でラファレ
ラファレレファレミソドどれから (「レファラ」)
は、この詩集のなかではいちばん楽しかった。特に「どれから」が楽しい。「名詞」ではないところが、いい。「音」だけになっている。もっと、こういう「ことば」、「音」で動いていくことばがあると、楽しいのだと思う。
「意味」が消えて、ことばが「音」になる。そこから始まる「音楽」なら楽しいのだが、「音」が「意味」をぶら下げていると、とても窮屈に感じる。
これは、まあ、単に私の好みの問題なのだろうけれど。
あ、音が楽しくないなあ、窮屈すぎるなあ、と思いながら読み進むと、「ひるむ」という詩が、唐突に、あらわれる。
一瞬唖然として凍り付く
青い色のコラージュがすべり落ちる
凝然と見る先に
激しい怒りの炎がある
命の火がある
簡単に分解は起こる
今まで支えていた多数の部品がはじけ飛ぶ
詩集のタイトルの「コラージュ」ということばも出てくる。
あ、そうか、そういうことだったのか、と納得というか、私は勝手に「誤読」するのである。
「語呂合わせ/ことば遊び」ではなく、ことばの「コラージュ」。それは「意味」を「分解」し、つまり「解体」し、言い換えると「無意味化」し、それを「部品」としてはじけさせてしまう。ばらばらにしてしまう。
何かを「もの」を解体し、その奥に隠れていた部品をずらりと並べる感じ。並べなおす感じ。
目覚まし時計は、こういう部品でつくられているというのをきちんと並べてみせる。さらにオルゴールや薬罐やスマートフォンや、身の回りのものを全部、ねじ一個にまで分解して並べなおす。その「一覧表(一覧図?)」をつくる感じかなあ。そういうものがずらりと並ぶと、「視覚」が圧倒されるね。見えなかったものを、丁寧に見せつけられる感じ。
その「部品」は、
溜めてこらえていた思いが
噴き出して止まらない
という感じで「分解/部品化」されていく。「ことば」の奥に、「意味」にはらないない「溜めてこらえていた思い」を見ているのか。「溜めて」「こらえていた」と畳みかけるリズムがいいなあ。「肉体」を感じる。
ことばが「溜めてこらえている思い」を、ことばとことばをぶつけることで、分解させているということなのか。
ここから「ことば遊び」の詩を読み返せば、きっと違ったもの(私が「面倒くさい」と呼んだもの以外のもの)が見えてくるのだろうけれど、でも、私は実は「引き返す」ということも「面倒くさい」と感じてしまう人間なので、先に進む。
「ミネさん」という詩。そのなかほど。
ミネさんの家は疾うに壊され
敷地を借りておれの車がそこに置いてある
玄関の場所 トイレの位置 部屋の配置
それを明瞭に思い出すことができる
家の中の臭いを感じて今鼻がむずむずしている
ミネさんの生活の断面がおれの記憶に刻印されている
関係ないと思っていたことが
そのように意識とは別にあるのが人間の記憶で
よみがえることで関係が再び生成される
「関係ないと思っていたことが/そのように意識とは別にあるのが人間の記憶で/よみがえることで関係が再び生成される」という「意味」を「コラージュ」にあてはめて見つめなおすと、菅井のやっていることを語りなおすことになるだろう。
関係ないと思っていたことばがコラージュされると、ことばのそれぞれの「意味」と思っていたものとは別な「記憶」があらわれる。そしてそれは、よみがえることで、いままでのことばとは違う「関係」を生成しはじめる。
そういうことを、やっているのだ。
で、そのときの、「意識とは別にあるのが人間の記憶」、私はそれを「意味と思っていたものとは別の記憶」と言い直してみたのだが、それを菅井の書いている詩のなかのことばで言い直すと、
玄関の場所 トイレの位置 部屋の配置
それを明瞭に思い出すことができる
家の中の臭いを感じて今鼻がむずむずしている
ここだね。「玄関」「トイレ」「部屋」というのは「意味」だ。それはそれぞれの「位置」をしめている。「位置」、つまり「配置」されることで生まれる「関係」があるのだが、「場所/配置/関係」の「閾(しきい)」を超えて「臭い」が動いている。「玄関」には「玄関の臭い」「トイレにはトイレの臭い」があるのかもしれないが、それとは別に「家」全体の「閾」を超えてひろがる「臭い」というものもあるね。何か、その家独特の、その家ならではの「臭い」。
それを「肉体/鼻」がおぼえている。思い出して「むずむず」している。「肉体」のなかに「臭い」をつくりだしているのかもしれない。
これと同じことが、ことばの「コラージュ」をするときに、菅井の「肉体」のなかで起きているのだ。それぞれの「ことばの場所」、ことばがある場所を占めることで獲得/確立する「意味」を菅井は明瞭に知っている。知っているけれど、同時に、そこに「意味」にならない「特有の臭い」を感じ、その「臭い」にしたがって、ことばを配置しなおす。ぶつけなおす。そこから「関係が再び生成される」。
あ、私は音痴(耳が悪い)だけではなく、鼻も悪い。「臭い」につつまれると、それがどんな臭いであれ、息苦しさにおそわれる。
菅井のやろうとしていることは、なんとなく「頭」でわかった。しかし、私は、それを「肉体」で体験しなおすことができない。私は耳も鼻も弱い。(目も悪く、長い間パソコンのモニターを見ながら書くというのも、実はとても苦しいのだが、私は、この詩集では「視覚」を主につかって読んでいるなあ、と反省している。)耳も鼻も頑丈な読者向けの詩集だと思った。強靱な「肉体」の読者が、もっと楽しく感想を書いてくれるのを期待しよう。
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