野崎有以『長崎まで』(思潮社、2016年05月20日発行)
野崎有以は昨年の現代詩手帖賞の受賞者。『長崎まで』は第一詩集。
詩集のタイトルになっている「長崎まで」については感想を書いたような気がする。何を書いたか、覚えていない。なんとなく、違和感を覚えたのだと思う。
で、今回詩集を通して読んでみて、というか、巻頭の「ネオン」を読んで、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
「現代詩」は「合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしてい生活の指定席券」という長い修辞(わざと書かれた表現)にあるのかもしれないが、私が「あっ」と叫んだのは、
の「から」。この「から」は別のことばで言えば「長崎まで」の「まで」。
野崎は「……から……まで」、つまり、「時間」を描いている。「時間」のなかでの「できごと」を書いている。
「生まれたときから」という部分にも「から」がある。生まれたとき「から」、いま「まで」のあいだ。「生まれたときからもっている」ということばは、「生まれたときから、いままでのあいだずーっと、もっている」であり、「私はこの男と出会ってから」は同じように、「私はこの男と出会ってから、いままでのあいだずーっと」なのである。
このとき、
この二行が微妙に交錯する。「私がこの男と出会ってから」は「私がこの男と出会ったときから」という意味であり、その「私がこの男と出会ったとき」の「とき」と「(私が)生まれたとき」の「とき」のあいだには、実際には長い時間があるはずなのだが、その「長い時間」が「いままでずーっと」ということばのなかで区別がなくなる。「一つ」になる。
「私がこの男と出会ったとき」「私が生まれたとき」というのは、それぞれに「分節」された「瞬間」なのだが、「いままでずーっと」という意識のなかで、「分節」以前にもどってしまう。「未分節」になる。(「未分節」は「一つ」、「一元論」の根本である。)
詩とは、「未分節」の「場」に立ち返り、そこから新しく「分節」をする瞬間に、「分節」されたことばといっしょに「生まれる」ものである。
端折って言い直すと。
野崎は「……から……まで」の「時間」を「いままでずっーと」という「場」にもどって、そこから「いま」をとらえなおしているのだ。「いままでずーっと」こうだった。しかし、「いま」、その「いままでずーっと」ではない何かが生まれ、動いていく。そうして「いままでずーっと」とは「違う時間」が始まる。
「違う時間」と言っても、どうしても「いままでずーっと」も接続してくるので、なんだか、ずるずるずるずるした感じ、飛躍、飛翔感のないことばがつづく感じになる。
で、私は、あ、これは「詩」というよりも「小説」かなあ、とも感じる。
ストーリーがある。ストーリーのなかで、ときどき、「肉体」が具体的に動く。そこが、とても印象に残る。「詩」は、こういうストーリーから逸脱して、「いままでずーっと」を「いま」そのものが分離する瞬間にあるのかなあと感じたりする。
ここには「……から……まで」がない。「いま」が「肉体」といっしょに「瞬間的」にある。
この作品の「泣かせどころ」かな。
ここでも、私は「……から……まで」という「時間意識」が野崎を動かしていると感じる。「いままでずーっと」の「ずーっと」が「不規則」によって乱れる。その瞬間が「詩」。「ずっーと」つづいていたものが、「あの時」切断されたのだ。もし、「あの時」にもどって、「あの時」の起きたことをなかったことにできれば、「いままでずっーと」が「……から……まで」という形でつづいたはずなのである。
こういう、何と言えばいいのか、「瞬間」とは対極にある「時間の長さ」というのは、私にはどうしても「小説」に見えてしまうのだが、野崎やこの賞の選者だった中本道代、中尾太一には「詩」ということになるのだろう。
あ、脱線した。
「……から……まで」「いままでずーっと」は、別な詩では、また別なことばとなって動いている。その例をひとつ。「女神」。
小さい頃にやった行為、その行為が「小さい頃からいままでずーっと」肉体の中に生きていて、それが「いま」動いている。動いた瞬間「いま」が「いままでずーっと」につながり、そのつながりが「私」というものを強く感じさせてくれる。その実感が「詩」として噴出してくる。
で、このときの体験が、最終連で、こうなる。
「また」は「……から」の「から」の瞬間を思い出させる。そして、その「また」が最後に「まだ」に変わる。「まだ」は「いまでも」であり、それは「いままでずっーと」を言い直したことばでもある。「手のひらにいる」というときの「肉体の連続感/存在感」がとてもいい。「……から……まで」を生きる野崎が「肉体」として実感できる。
うーん、でも、この「時間」と「肉体」の描き方は、やっぱり「小説」だなあ。
野崎有以は昨年の現代詩手帖賞の受賞者。『長崎まで』は第一詩集。
詩集のタイトルになっている「長崎まで」については感想を書いたような気がする。何を書いたか、覚えていない。なんとなく、違和感を覚えたのだと思う。
で、今回詩集を通して読んでみて、というか、巻頭の「ネオン」を読んで、思わず「あっ」と声を上げてしまった。
私はこの男と出会ってから
合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしい生活の指定席券を
生まれたときからもっていたふりをした
「現代詩」は「合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしてい生活の指定席券」という長い修辞(わざと書かれた表現)にあるのかもしれないが、私が「あっ」と叫んだのは、
私はこの男と出会ってから
の「から」。この「から」は別のことばで言えば「長崎まで」の「まで」。
野崎は「……から……まで」、つまり、「時間」を描いている。「時間」のなかでの「できごと」を書いている。
「生まれたときから」という部分にも「から」がある。生まれたとき「から」、いま「まで」のあいだ。「生まれたときからもっている」ということばは、「生まれたときから、いままでのあいだずーっと、もっている」であり、「私はこの男と出会ってから」は同じように、「私はこの男と出会ってから、いままでのあいだずーっと」なのである。
このとき、
私はこの男と出会ってから
生まれたときからもっている
この二行が微妙に交錯する。「私がこの男と出会ってから」は「私がこの男と出会ったときから」という意味であり、その「私がこの男と出会ったとき」の「とき」と「(私が)生まれたとき」の「とき」のあいだには、実際には長い時間があるはずなのだが、その「長い時間」が「いままでずーっと」ということばのなかで区別がなくなる。「一つ」になる。
「私がこの男と出会ったとき」「私が生まれたとき」というのは、それぞれに「分節」された「瞬間」なのだが、「いままでずーっと」という意識のなかで、「分節」以前にもどってしまう。「未分節」になる。(「未分節」は「一つ」、「一元論」の根本である。)
詩とは、「未分節」の「場」に立ち返り、そこから新しく「分節」をする瞬間に、「分節」されたことばといっしょに「生まれる」ものである。
端折って言い直すと。
野崎は「……から……まで」の「時間」を「いままでずっーと」という「場」にもどって、そこから「いま」をとらえなおしているのだ。「いままでずーっと」こうだった。しかし、「いま」、その「いままでずーっと」ではない何かが生まれ、動いていく。そうして「いままでずーっと」とは「違う時間」が始まる。
「違う時間」と言っても、どうしても「いままでずーっと」も接続してくるので、なんだか、ずるずるずるずるした感じ、飛躍、飛翔感のないことばがつづく感じになる。
で、私は、あ、これは「詩」というよりも「小説」かなあ、とも感じる。
ストーリーがある。ストーリーのなかで、ときどき、「肉体」が具体的に動く。そこが、とても印象に残る。「詩」は、こういうストーリーから逸脱して、「いままでずーっと」を「いま」そのものが分離する瞬間にあるのかなあと感じたりする。
あなたがテーブルの上に用意してくれた
氷の入ったオレンジジュースを飲んで
脇腹が動いた気がしてこわくなった
ここには「……から……まで」がない。「いま」が「肉体」といっしょに「瞬間的」にある。
時計の針が不規則に時を刻んだ
丁寧にたたまれたワンピースをとって
あなたを待たずに
あなたを避けるように
部屋を出て行ったあの時の私に追いついて
両手を広げて通せんぼしたい
この作品の「泣かせどころ」かな。
ここでも、私は「……から……まで」という「時間意識」が野崎を動かしていると感じる。「いままでずーっと」の「ずーっと」が「不規則」によって乱れる。その瞬間が「詩」。「ずっーと」つづいていたものが、「あの時」切断されたのだ。もし、「あの時」にもどって、「あの時」の起きたことをなかったことにできれば、「いままでずっーと」が「……から……まで」という形でつづいたはずなのである。
こういう、何と言えばいいのか、「瞬間」とは対極にある「時間の長さ」というのは、私にはどうしても「小説」に見えてしまうのだが、野崎やこの賞の選者だった中本道代、中尾太一には「詩」ということになるのだろう。
あ、脱線した。
「……から……まで」「いままでずーっと」は、別な詩では、また別なことばとなって動いている。その例をひとつ。「女神」。
降り際に中吊り広告のなかの彼女がほしくて
ポスターの前で手のひらを広げてさっと結んだ
小さい頃
欲しいものがあるとこんなことをよくやった
欲しいもののちょっと手前で手のひらを大きく広げて結ぶ
こうすると欲しかったものをどこかにしまえる気がした
小さい頃にやった行為、その行為が「小さい頃からいままでずーっと」肉体の中に生きていて、それが「いま」動いている。動いた瞬間「いま」が「いままでずーっと」につながり、そのつながりが「私」というものを強く感じさせてくれる。その実感が「詩」として噴出してくる。
で、このときの体験が、最終連で、こうなる。
昼間電車に乗るとまたあの中吊り広告を見つけた
今日のあの人に強烈な輝きはなかった
私の女神はまだ手のひらにいる
「また」は「……から」の「から」の瞬間を思い出させる。そして、その「また」が最後に「まだ」に変わる。「まだ」は「いまでも」であり、それは「いままでずっーと」を言い直したことばでもある。「手のひらにいる」というときの「肉体の連続感/存在感」がとてもいい。「……から……まで」を生きる野崎が「肉体」として実感できる。
うーん、でも、この「時間」と「肉体」の描き方は、やっぱり「小説」だなあ。
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