降戸輝「劣勢」、田島安江「ネバネバ」(「現代詩講座@リードカフェ」2016年06月01日)
情況がつかみにくい作品。「予定十五分前に扉が開いた」ということと「劣勢」が関係があるのだろうけれど。
一読して、ことばが「硬い」感じがする。「脳のシナプス」「間隙」「非対称」「規則」「構成」「共鳴」というようなことばが、そういう印象を引き起こすのだろう。このことについては、「もっとやわらかいことばで書いた方がいいのでは」という意見と、「ことばの一つ一つが透明な感じ、緊張感があっていい」という意見に分かれた。
私は「硬さが足りない」と感じた。たとえば「颯爽」は「漢字」で見ると「硬い」が、読むと(音にすると)、そんなに硬くない。むしろ「やわらかい」感じすらする。「深々」というのも「漢字」で書いているだけという印象である。ともに理性というよりも感覚に訴えてくることばだからである。「撒き始める」「取り囲む」「磨り潰す」などは「漢字」がつかわれているが「漢語(熟語?)」になっていない。「漢語」特有の凝縮感がない。
という二行は、「硝子」「花瓶」「一輪」「香水」「微笑(む)」と「漢字」が多用されているが、これも「漢語」という印象はない。そのせいだろうか、
私は、舞台で演じられている「劇」を描写しているのかと思ったが、どうやら「現実」を描いている。
私は先に書いたように、「漢語」になりきれていないことばに、ひっかかってしまった。「硬いことば」ではなく「硬くなりきれていないことば」がこの詩をあいまいにしているように思う。二連目の「赤い染み」からつづく四行は情景としては美しいが、なんとなく「ハードボイルド」になりきれていない。二行ずつ、分けて、他の場所に分散した方が効果的かもしれない。硬質なものに、ふいにやわらかなものをぶつけると硬さがきわだつ。ただし、そのやわらかいものが長々とつづくと、硬質な感じが損なわれる。
あるいは「情景」に頼らずに。
「乾いた男の咳払いに/両耳の鼓膜が共鳴した」「私は男の言葉を奥歯で磨り潰し」「分解されて溶かされて選別されて/私の中で新たな器官が築かれていった」というような「肉体」の「物理的運動」をもっと組み込むと、「私」の「生理」がまなまなしく浮き彫りになるのでは、と思った。
最後の連は、古戸の説明を聞いて何が書いてあるのかようやくわかったが、私は二連目で終わった方がいいのでは、と思った。詩の終わり方はとても難しい。どうしても、読者に通じるだろうかと不安になり、「補足」してしまう。そうすると、突然、「詩」が「散文」に変わってしまう。
「敗北のあと、相手のことばが、音楽のように響く。それが心地いい」ということなのだが、「結末」ではなく「劣勢」状態にあるときの「ライブ報告/実況中継」が読みたいと、私は思う。「肉体」の苦しみを読みたいと思う。
*
この詩では、受講者のあいだから、私には想像もつかない感想が聞かれた。
私は、受講者が「そっと抱きしめる」を「男を抱きしめる」と読んでいることにとても驚いてしまった。
私の印象では、「ネギ」を抱きしめる。一歩進んで考えるとしても、ネギを抱きしめることで自分自身を抱きしめるという感じにしかならない。田島は、「ネギを抱きしめる」と書いたと言った。
この詩は、畑からはじまり、その周辺の情況(駅があり、ときどきひとが降りてくる)が描かれる。駅から降りてくるひとは「待っている男ではない」というのは「小説」風だが、田島はストーリーへは動いていかない。
かわりに「パトリシア・ハイスミス」が登場する。「読んだ本/内容」が出てきて、「いま」を攪拌する。ここが、田島らしい。
先日紹介した山田由紀乃は「という」という形で自分の知っていることを書いていたが、田島は「という」をつかわずに断定する。断定することで「短篇」のなかに入り込んで、「短篇」を自分の「肉体」として語る。この瞬間が、なかなかおもしろい。
「短篇」の中に「入る」ということは、その「肉体」が「短篇」の世界に「なる」ということでもある。言い換えると、「短篇」を潜り抜けた「肉体」は「短篇」に書かれていないことも「肉体」が体験することとして語ることができる、そして実際に語りはじめる。
田島がいる部屋は、短篇の男がいる部屋ではない。しかし、短篇の世界を潜り抜けたあとの田島の肉体にはカタツムリが短篇の世界のまま迫ってくるのである。
最終行の「わからなくなる」は、学校文法の解釈では「ネギのネバネバ」と「カタツムリのネバネバ」の区別がわからなくなるということだが、感覚的には、「現実の世界」と「短篇の世界」の区別がわからなくなるということ。そして、その「区別」をあいまいにするのは、「ネギはネバネバする」ということを「指」で実際にたしかめたことがあるからだ。「肉体」が「現実」と「短篇」を、「現実」と「架空」の「区切り」を消してしまう。
そこが、おもしろい。
そして、この「現実」と「架空」という「区別」について言えば、二連目もまた「短篇」の「世界」かもしれない。小さな駅があり、そこからだれか降りてくる。それは「待っているひと(男)」、「シルエットが近づいてきて、それが待っている男」とわかるというのは「短篇」の世界で読んだこと。それは「現実」ではない。「現実」にはならない。
けれど、カタツムリに殺される男の「短篇」は「現実」のものとして、田島に迫ってくる。
なぜ?
ネギのネバネバに触ったからだ。ネギを抱きしめるとき、そのネバネバを抱きしめているからだ。ネバネバは田島の「肉体」と一体になっているからだ。
劣勢 降戸 輝
予定十五分前に扉が開いた
背中に光を浴びた男は
部屋の中心の黒革のソファに
颯爽と進んで深々と座る
非対称な表情で
変化球モードの言葉を撒き始め
脳のシナプスの間隙に
攻撃を仕掛けてくる
言葉は次第に規則を構成して
私を取り囲む
乾いた男の咳払いに
両耳の鼓膜が共鳴した
赤い染みを壁に残して
夕日が逃げようとしている
硝子の花瓶に差された一輪の花は
男の香水の匂いにかなしく微笑んでいる
私は男の言葉を奥歯で磨り潰し
阻止されていた私の言葉と
一緒に飲み込むと
分解されて溶かされて選別されて
私の中で新たな器官が築かれていった
喉の渇きは収まった
涙が頬を伝った
もう刺し違える必要などない
扉は閉じられた
男が届けてくれた曲は
聴くほどに
心地いい
情況がつかみにくい作品。「予定十五分前に扉が開いた」ということと「劣勢」が関係があるのだろうけれど。
一読して、ことばが「硬い」感じがする。「脳のシナプス」「間隙」「非対称」「規則」「構成」「共鳴」というようなことばが、そういう印象を引き起こすのだろう。このことについては、「もっとやわらかいことばで書いた方がいいのでは」という意見と、「ことばの一つ一つが透明な感じ、緊張感があっていい」という意見に分かれた。
私は「硬さが足りない」と感じた。たとえば「颯爽」は「漢字」で見ると「硬い」が、読むと(音にすると)、そんなに硬くない。むしろ「やわらかい」感じすらする。「深々」というのも「漢字」で書いているだけという印象である。ともに理性というよりも感覚に訴えてくることばだからである。「撒き始める」「取り囲む」「磨り潰す」などは「漢字」がつかわれているが「漢語(熟語?)」になっていない。「漢語」特有の凝縮感がない。
硝子の花瓶に差された一輪の花は
男の香水の匂いにかなしく微笑んでいる
という二行は、「硝子」「花瓶」「一輪」「香水」「微笑(む)」と「漢字」が多用されているが、これも「漢語」という印象はない。そのせいだろうか、
<受講者1>この二行は女性をあらわしていると思った。
「私」は男なのだが、この二行には「異性」を感じる。
ハードボイルドの色気がある。
<質 問>「私」は男なのかな? 女なのかな?
<受講者2>男。
<受講者3>男と思ったけれど、女でもいいかもしれない。
最後の連で、「私」と二行目に出てきた「男」が一体化すると読んだ。
「喉の渇き」からの三行にそれを強く感じた。
<受講者1>「ラブソング」のような印象がある。
松任谷由実の「翳りゆく部屋」の
「輝きはもう戻らない/私がいま死んでも」
という感じと重ねて読んだ。
外国のアパートで別れ話をしている情景かなあ。
<受講者3>「赤い染みを壁に残して/夕日が逃げようとしている」
この情景描写のことばが好き。
<受講者2>最後に「曲」が出てくる。この展開がおもしろい。
<古 戸>敵対関係にある男が十五分前にやってきて、態勢がととのわない。
そのために「劣勢」と感じるということを書いたのだが、
「私」を女性にしてもおもしろいかもしれない。
私は、舞台で演じられている「劇」を描写しているのかと思ったが、どうやら「現実」を描いている。
私は先に書いたように、「漢語」になりきれていないことばに、ひっかかってしまった。「硬いことば」ではなく「硬くなりきれていないことば」がこの詩をあいまいにしているように思う。二連目の「赤い染み」からつづく四行は情景としては美しいが、なんとなく「ハードボイルド」になりきれていない。二行ずつ、分けて、他の場所に分散した方が効果的かもしれない。硬質なものに、ふいにやわらかなものをぶつけると硬さがきわだつ。ただし、そのやわらかいものが長々とつづくと、硬質な感じが損なわれる。
あるいは「情景」に頼らずに。
「乾いた男の咳払いに/両耳の鼓膜が共鳴した」「私は男の言葉を奥歯で磨り潰し」「分解されて溶かされて選別されて/私の中で新たな器官が築かれていった」というような「肉体」の「物理的運動」をもっと組み込むと、「私」の「生理」がまなまなしく浮き彫りになるのでは、と思った。
最後の連は、古戸の説明を聞いて何が書いてあるのかようやくわかったが、私は二連目で終わった方がいいのでは、と思った。詩の終わり方はとても難しい。どうしても、読者に通じるだろうかと不安になり、「補足」してしまう。そうすると、突然、「詩」が「散文」に変わってしまう。
「敗北のあと、相手のことばが、音楽のように響く。それが心地いい」ということなのだが、「結末」ではなく「劣勢」状態にあるときの「ライブ報告/実況中継」が読みたいと、私は思う。「肉体」の苦しみを読みたいと思う。
<受講者3>「曲」ということばが物足りないのかも。
男のことばは新しい音楽のように私の中に鳴り響き
扉は閉じられた
という感じはどうかなあ。
<受講者2>「心地いい」ではなく、「悔しい」「意地」が書かれてもいいのでは。
*
ネバネバ 田島安江
悲しくなると畑にでかける
春には一斉に野菜の薹がたち
黄や白の花が咲く
ネギも膨らんでいつしか葱坊主になり
パカッと割れて細い茎が伸び
無数の小さな花が咲く
そんな葱坊主を摘むと
ぽんと渇いた音がする
指先がネバネバになる
そのネバネバを指でさすりながら
そっと抱きしめるのだ
畑からは
通り過ぎる列車が見える
ホームに降り立つ人が小さくシルエットになる
シルエットになったその人は
トランクを下ろし
畑の中の道をこちらに向かって歩いてくる
シルエットは大きく膨らみ人になる
それは待っている人ではなかった
畑に雨が降ると
カタツムリがどこからか現れる
パトリシア・ハイスミスの短篇に
カタツムリに殺される男の話が出てくる
繁殖しすぎたカタツムリが部屋を占領し
男の体中の穴めざして入り込んでくるのだ
また南洋の島に住むカタツムリは
巨大化して人食いカタツムリになる
カタツムリは人ではないし
人だってカタツムリを食べる
だから今度はカタツムリが人を食べる
夜更けてざわざわと部屋の隅で目覚め
耳を澄ませながら近づいてくるものが
あのカタツムリでないとどうしていえるだろう
手のネバネバが消えない
葱坊主のネバネバなのか
カタツムリのネバネバなのか
わからなくなる
この詩では、受講者のあいだから、私には想像もつかない感想が聞かれた。
<受講者1>おもしろい。一連目の最後の二行、「抱きしめる」に驚いた。
そこまでするんだ。色っぽい。
三連目、「カタツムリ」と「パトリシア・ハイスミス」が
音としておもしろい。
カタツムリを怖いと思ったことはなかったが、怨念を持っているのかな。
<受講者2>「そっと抱きしめる」の展開に驚いた。
二連目の「シルエットになったその人は」は何かなあ。
ストーリーとしてつなげていいのか、切り離していいのか。
タイトルはもっと重いものにできるかな、とも思った。
<受講者3>「悲しくなると畑にでかける」が印象的。
行けるところがある人はいいなあと思った。
「抱きしめる」は田島さんらしいなあ。
四連目の「ざわざわ」も田島さんらしい。独特な感じ。
私は、受講者が「そっと抱きしめる」を「男を抱きしめる」と読んでいることにとても驚いてしまった。
私の印象では、「ネギ」を抱きしめる。一歩進んで考えるとしても、ネギを抱きしめることで自分自身を抱きしめるという感じにしかならない。田島は、「ネギを抱きしめる」と書いたと言った。
この詩は、畑からはじまり、その周辺の情況(駅があり、ときどきひとが降りてくる)が描かれる。駅から降りてくるひとは「待っている男ではない」というのは「小説」風だが、田島はストーリーへは動いていかない。
かわりに「パトリシア・ハイスミス」が登場する。「読んだ本/内容」が出てきて、「いま」を攪拌する。ここが、田島らしい。
先日紹介した山田由紀乃は「という」という形で自分の知っていることを書いていたが、田島は「という」をつかわずに断定する。断定することで「短篇」のなかに入り込んで、「短篇」を自分の「肉体」として語る。この瞬間が、なかなかおもしろい。
「短篇」の中に「入る」ということは、その「肉体」が「短篇」の世界に「なる」ということでもある。言い換えると、「短篇」を潜り抜けた「肉体」は「短篇」に書かれていないことも「肉体」が体験することとして語ることができる、そして実際に語りはじめる。
夜更けてざわざわと部屋の隅で目覚め
耳を澄ませながら近づいてくるものが
あのカタツムリでないとどうしていえるだろう
田島がいる部屋は、短篇の男がいる部屋ではない。しかし、短篇の世界を潜り抜けたあとの田島の肉体にはカタツムリが短篇の世界のまま迫ってくるのである。
最終行の「わからなくなる」は、学校文法の解釈では「ネギのネバネバ」と「カタツムリのネバネバ」の区別がわからなくなるということだが、感覚的には、「現実の世界」と「短篇の世界」の区別がわからなくなるということ。そして、その「区別」をあいまいにするのは、「ネギはネバネバする」ということを「指」で実際にたしかめたことがあるからだ。「肉体」が「現実」と「短篇」を、「現実」と「架空」の「区切り」を消してしまう。
そこが、おもしろい。
そして、この「現実」と「架空」という「区別」について言えば、二連目もまた「短篇」の「世界」かもしれない。小さな駅があり、そこからだれか降りてくる。それは「待っているひと(男)」、「シルエットが近づいてきて、それが待っている男」とわかるというのは「短篇」の世界で読んだこと。それは「現実」ではない。「現実」にはならない。
けれど、カタツムリに殺される男の「短篇」は「現実」のものとして、田島に迫ってくる。
なぜ?
ネギのネバネバに触ったからだ。ネギを抱きしめるとき、そのネバネバを抱きしめているからだ。ネバネバは田島の「肉体」と一体になっているからだ。
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