山田亮太『オバマ・グーグル』(思潮社、2016年06月01日発行)
山田亮太『オバマ・グーグル』のタイトルになっている「オバマ・グーグル」は刺戟的である。googleで「オバマ」を検索する。そのとき表示された上位100件のウェブサイトの記事を引用し、構成している。ほんとうは、この作品について書かなければこの詩集の感想を書いたことにならないのだが、私は目が悪くて、「引用」と「出典」を引用することができないので、別の作品に触れる形で、山田の詩の魅力について語ってみたい。
「みんなの宮下公園」。この作品には「2010年4月22日時点に宮下公園内に存在した文字により構成した。」という「後注」がついている。googleではなく、自分の目で集めた「文字/ことば」を再構成している。
フットサル場がある公園だとわかる。そして、その公園は「ナイキ」に売却されようとしている。あるいはナイキがフットサル場を独占しようとしているのかもしれない。そういうことに対する反対運動がある。そういうことが、読んでいる内に、だんだんわかってくる。宮下公園に私は行ったことがないのに。そもそも、それがどこにあるかも知らないのに、渋谷にあるとわかる、というか信じてしまう。
このとき、私に何が起きているのか。
ことばを自分勝手につなぎあわせて、そこに「意味」を見出している。その「意味」が間違っているかもしれないのに、間違っているかもしれないとは考えずに、「意味」にしてしまっている。
これは、危険だね。
「意味」は、そのことばを発した人の意図したものとは違ったものとして、かってに広がっていく可能性(恐れ?)があるということだ。
この公園は、みんなに愛されています。つつじの花が咲いているきれいな公園です。それがナイキのものになってしまうというのは許せない、と読むことができるが、実は逆かもしれない。
「ゴミを持ち帰りましょう」「見つけた人は警察に通報してください」ということばからは、ゴミが放棄されている汚れた公園を想像することもできる。その公園を整備するために、ナイキが手をあげた、ということかもしれない。
汚い公園だけれど、汚いならきれいにすればいいだけであって、それをナイキに売るのは反対ということかもしれない。
どのことばも「ひとつづき」の「枠組み」のなかで、それぞれを「意味」をもっているはずである。それを「解体」してしまうと、実は「意味」はわからなくなる。
わからないのに、私は、それを自分が「わかる」ように、かってにつないでいる。
山田が、そこにあることばを「ばらばら」にしているのに、私は「ばらばら」をかってに整理し(?)、統合して、それを「意味」と思い込んでいる。
あ、これが、「現代」の「ことば」のおかれている情況なのだ。
ここから「オバマ・グーグル」へと飛躍してみる。「引用」を省略して、妄想してみる。
オバマについて書かれた「記事」は、それぞれの「文脈」を持っている。「文脈」によって同じことばであっても「意味」が違うということがあるのだが、無秩序に「引用」をつないでいくと、ほんらいの「意味」が消える。
山田のやっていることは、この「ほんらいの意味」を消すことである。「ほんらいの意味」を解体して、ただのことば、「意味のないことば」に、ことばを還元してしまう。
そんなことは、できるのか。
よくわからない。しかし、どんなに文脈を解体して、ことばを「意味」から解放しようとしても、読む人間化かってに「文脈」をつくってしまう。
Aの「記事」のなかの一行を、Bの記事の一行につなげ、さらにCの一行につなげる。注釈をていねいに参照すればと、それらの一行がA、B、Cという「違った記事」からの引用であることがわかるが、そういう「手間」を省略してしまうと、そこにはまったく違う「文脈」が生まれてきてしまう。「意味」が生まれてきてしまう。
ときには、Aという肯定のことばの後にBというAの見解を否定することばが書かれたはずなのに、Bを先に引用しAをそのあとに引用すると、AはBに対する「反論」になるという「意味時系列」の逆転がおきる。否定を再否定する肯定になってしまうということがおきる。
そして、それは新しい時系列がつくり出す「意味」が山田の意図を反映したものなのか、あるいは読者(私)が「読者」の欲望を反映する「文脈/意味」であるのかわからなくなる。ことばを読むというのは、それを書いた人の「欲望」を読むということだが、その「欲望」は実は自分の中に存在している「欲望」を作者のことばを借りてよみがえらせるということなので、……と考えると、うーん、ここに書かれていることばって、何?
最初の「記事」を書いた人の「文脈」どころか、山田の意識している「文脈」も無視して、私の「欲望」がかってに暴走する。(それが、この文章。)
こうなってくると、ことばを「どう読むか」ということは、問題ではなくなる。「どう読むか」ではなく、「どれだけ」読むか、である。「量」がすべてである。「量」を多く抱え込む「もの」が「正しい」ことになる。「正しさ」の基準というか、「支え/基盤」になる。
ここで、私は、とんでもない「飛躍」をする。
安倍政権のやっていることを思うのである。
安倍は、ことあるごとに野党に対して「対案を出せ」という。「対案を出さずに反対するのは無責任」だと批判する。民進党と言えばいいのか民主党と言えばいいのかわからないが、安倍に手玉にとられている「野党第一党」は「無責任」ということばにおびえて「対案」を考える。ときには提出する。そのふたつの「案」を比較するとき、それぞれの「案」がもっている「情報量」が圧倒的に違う。「与党(安倍)」には与党しか持ちえない圧倒的な「情報(ことば)」があり、その「量」に「野党第一党の対案」は負けてしまう。安倍の出す案には、その案を支える官僚の用意した「資料」がある。野党にはこの「資料」はない。独自調査で集めた「資料」は官僚の「資料」に比べると圧倒的に「量」が劣るから、その不足した「量」の部分を追及され、その結果「思慮不足の案」と追及される。最後には、議員の数という「情報量(賛成多数)」で押し切られる。
「対案なんて、ない。その案はだめだ。納得くできない。これこれの問題がある」と言い続けるのが野党の仕事。野党の要求を組み入れた「修正案」をつくれないのは、与党にその能力がないからだ、といいつづけるのが野党の仕事だ。「不満の量」は野党が圧倒的に多いのである。「対案」という限定的な「意味」ではなく、「不満」をどれだけいいつづけることができるか、「不満」を拡大し、増殖させ、新たな「不満」を国民から引き出し、それを自分のものとしてどれだけ吸収できるかが野党の「質」の問題点なのだ。「不満」の言い方を増やせないというのが、民進党(民主党)の弱さなのだ。国民は「不満」を無尽蔵にかかえている。それは刺戟を受ければさらに増殖する。「不満」の声が「不満」を呼び覚ます。「幼稚園落ちた、日本死ね」という直接的な「声」を集め、それを組織的なことばにできないのが民進党(民主党)の愚かさなのだ。山尾が少しがんばったが、まだまだがんばりが足りない。
「不満」は「意味」にしなくていいのだ。それなのに「意味(対案)」にしようとしているところが民進党(民主党)の幼稚なところである。「対案」を出さずに、「幼稚園落ちた、それは私だ」という国民を国会の前にどれだけ集めることができるかが、野党に問われている。自主的に集まってくる国民を「ほら、集まってきた」とよろこんでみているだけではだめなのだ。「集まれ」と「煽動」しないとだめなのだ。
あれもこれも不満なのだから、その場その場で「あれがだめ」「これがだめ」と無秩序に言い続けるエネルギーが民進党には完全にかけている。
ということろから、また山田の詩に戻る。
山田が検索して集めた「オバマの記事」は、それぞれがそれぞれの「意味」を持っている。肯定も否定も、それぞれの「文脈」のなかで「意味」となっている。山田は、それを「読まない」。読んだとしても、それを「意味」で「要約」しない。逆に、「文脈」を解体し、「意味の可能性」を「増殖」させる。「意味」を「違った意味」に暴走させるために、次々に違った文章を割り込ませ、「文脈」を切断する。
あるいは、こう言い直した方がいいのかもしれない。
「意味」にしばりつけられていることばを、別の「意味」をつくっていることばで切断する。それは「切断」なのだが、「切断」した瞬間に、新しい「接続」に変化し、「異種」の「意味」を「生み出す」。
オバマを肯定するAという文章がBによって批判されたはずなのに、A→Bではなく、B→Aという形で引用されると、Bを批判する形でAの論理が動いているように見えてしまう。最初の「意味」を超えるものが「生み出される」ことになる。
そのとき、接続によって生まれた新しい「文脈/意味」は、しかし、重要ではない。そんてものは、どっちにしろ「意味」にすぎない。
重要なのは、「切断」が「接続」に変化し、その変化が新しい「意味」を「生み出す」。その「生み出す」という「動詞/行為」なのである。
「意味」ではなく「意味を生み出す」という「動詞の瞬間」を山田はつかみとっている。そして、その「生み出す」という「動詞」は、洗練なんかとは無関係に、ただ「量」によって力になる--と書いてしまうと、かなり危なくなってしまうけれど、「量」がとても重要だと私は思う。山田のやっていることが「絶対量」ではないが、とっかかりはつくったのだ。
私は目が悪くて40分以上モニターに向かっていると、何も書けなくなる。で、大急ぎで、思いつくままに書くしかないのだが、この詩集は今年いちばんの傑作である。いや、この10年でいちばんだ。ことばをどう語るか、ということへの「問いかけ」がある。
ことばを集めると詩になる、ということならすでに谷川俊太郎が「カタログ」でやっているが、そこには「秩序(意味)」が指向/思考されていた。いろんな日本語のそれぞれ独自の「文体/効果的な意味の生成方法」を持っていることを明るみに出す、その「文体」の「音楽」を響かせてみるという「意味」があった。
googleは「意味」を指向しない。指向しないことで「意味」になっている。「量」を手にすることで、「力/正しい」そのものになっている。
ただ、私はその「量/力/正しい」というあり方に与したいとは思わない。
山田が、それに与していると感じているわけではない。むしろ「量/力/正しい」に向き合い、それを破壊するために「量」をつかおうとしているように感じる。そこに興奮した。
山田亮太『オバマ・グーグル』のタイトルになっている「オバマ・グーグル」は刺戟的である。googleで「オバマ」を検索する。そのとき表示された上位100件のウェブサイトの記事を引用し、構成している。ほんとうは、この作品について書かなければこの詩集の感想を書いたことにならないのだが、私は目が悪くて、「引用」と「出典」を引用することができないので、別の作品に触れる形で、山田の詩の魅力について語ってみたい。
「みんなの宮下公園」。この作品には「2010年4月22日時点に宮下公園内に存在した文字により構成した。」という「後注」がついている。googleではなく、自分の目で集めた「文字/ことば」を再構成している。
落書き禁止 「きれいなまち渋谷をみんなでつくる条例」 違反者は、処罰されます。 見つけた人は警察に通報してください。/おおむらさきつつじ つつじ科/ここはみんなの公園です。うらに書いてあるきまりを守って、みんなでなかよく遊びましょう。/NO NIKE!! ナイキ 悪/ゴミは持ち帰りましょう/水を大切にしましょう/公園はみんなのものだ! PARK is OURS/フットサル場 使用上の注意 このフットサル場は、ゴムチップス入り人工芝を使用しています。
フットサル場がある公園だとわかる。そして、その公園は「ナイキ」に売却されようとしている。あるいはナイキがフットサル場を独占しようとしているのかもしれない。そういうことに対する反対運動がある。そういうことが、読んでいる内に、だんだんわかってくる。宮下公園に私は行ったことがないのに。そもそも、それがどこにあるかも知らないのに、渋谷にあるとわかる、というか信じてしまう。
このとき、私に何が起きているのか。
ことばを自分勝手につなぎあわせて、そこに「意味」を見出している。その「意味」が間違っているかもしれないのに、間違っているかもしれないとは考えずに、「意味」にしてしまっている。
これは、危険だね。
「意味」は、そのことばを発した人の意図したものとは違ったものとして、かってに広がっていく可能性(恐れ?)があるということだ。
この公園は、みんなに愛されています。つつじの花が咲いているきれいな公園です。それがナイキのものになってしまうというのは許せない、と読むことができるが、実は逆かもしれない。
「ゴミを持ち帰りましょう」「見つけた人は警察に通報してください」ということばからは、ゴミが放棄されている汚れた公園を想像することもできる。その公園を整備するために、ナイキが手をあげた、ということかもしれない。
汚い公園だけれど、汚いならきれいにすればいいだけであって、それをナイキに売るのは反対ということかもしれない。
どのことばも「ひとつづき」の「枠組み」のなかで、それぞれを「意味」をもっているはずである。それを「解体」してしまうと、実は「意味」はわからなくなる。
わからないのに、私は、それを自分が「わかる」ように、かってにつないでいる。
山田が、そこにあることばを「ばらばら」にしているのに、私は「ばらばら」をかってに整理し(?)、統合して、それを「意味」と思い込んでいる。
あ、これが、「現代」の「ことば」のおかれている情況なのだ。
ここから「オバマ・グーグル」へと飛躍してみる。「引用」を省略して、妄想してみる。
オバマについて書かれた「記事」は、それぞれの「文脈」を持っている。「文脈」によって同じことばであっても「意味」が違うということがあるのだが、無秩序に「引用」をつないでいくと、ほんらいの「意味」が消える。
山田のやっていることは、この「ほんらいの意味」を消すことである。「ほんらいの意味」を解体して、ただのことば、「意味のないことば」に、ことばを還元してしまう。
そんなことは、できるのか。
よくわからない。しかし、どんなに文脈を解体して、ことばを「意味」から解放しようとしても、読む人間化かってに「文脈」をつくってしまう。
Aの「記事」のなかの一行を、Bの記事の一行につなげ、さらにCの一行につなげる。注釈をていねいに参照すればと、それらの一行がA、B、Cという「違った記事」からの引用であることがわかるが、そういう「手間」を省略してしまうと、そこにはまったく違う「文脈」が生まれてきてしまう。「意味」が生まれてきてしまう。
ときには、Aという肯定のことばの後にBというAの見解を否定することばが書かれたはずなのに、Bを先に引用しAをそのあとに引用すると、AはBに対する「反論」になるという「意味時系列」の逆転がおきる。否定を再否定する肯定になってしまうということがおきる。
そして、それは新しい時系列がつくり出す「意味」が山田の意図を反映したものなのか、あるいは読者(私)が「読者」の欲望を反映する「文脈/意味」であるのかわからなくなる。ことばを読むというのは、それを書いた人の「欲望」を読むということだが、その「欲望」は実は自分の中に存在している「欲望」を作者のことばを借りてよみがえらせるということなので、……と考えると、うーん、ここに書かれていることばって、何?
最初の「記事」を書いた人の「文脈」どころか、山田の意識している「文脈」も無視して、私の「欲望」がかってに暴走する。(それが、この文章。)
こうなってくると、ことばを「どう読むか」ということは、問題ではなくなる。「どう読むか」ではなく、「どれだけ」読むか、である。「量」がすべてである。「量」を多く抱え込む「もの」が「正しい」ことになる。「正しさ」の基準というか、「支え/基盤」になる。
ここで、私は、とんでもない「飛躍」をする。
安倍政権のやっていることを思うのである。
安倍は、ことあるごとに野党に対して「対案を出せ」という。「対案を出さずに反対するのは無責任」だと批判する。民進党と言えばいいのか民主党と言えばいいのかわからないが、安倍に手玉にとられている「野党第一党」は「無責任」ということばにおびえて「対案」を考える。ときには提出する。そのふたつの「案」を比較するとき、それぞれの「案」がもっている「情報量」が圧倒的に違う。「与党(安倍)」には与党しか持ちえない圧倒的な「情報(ことば)」があり、その「量」に「野党第一党の対案」は負けてしまう。安倍の出す案には、その案を支える官僚の用意した「資料」がある。野党にはこの「資料」はない。独自調査で集めた「資料」は官僚の「資料」に比べると圧倒的に「量」が劣るから、その不足した「量」の部分を追及され、その結果「思慮不足の案」と追及される。最後には、議員の数という「情報量(賛成多数)」で押し切られる。
「対案なんて、ない。その案はだめだ。納得くできない。これこれの問題がある」と言い続けるのが野党の仕事。野党の要求を組み入れた「修正案」をつくれないのは、与党にその能力がないからだ、といいつづけるのが野党の仕事だ。「不満の量」は野党が圧倒的に多いのである。「対案」という限定的な「意味」ではなく、「不満」をどれだけいいつづけることができるか、「不満」を拡大し、増殖させ、新たな「不満」を国民から引き出し、それを自分のものとしてどれだけ吸収できるかが野党の「質」の問題点なのだ。「不満」の言い方を増やせないというのが、民進党(民主党)の弱さなのだ。国民は「不満」を無尽蔵にかかえている。それは刺戟を受ければさらに増殖する。「不満」の声が「不満」を呼び覚ます。「幼稚園落ちた、日本死ね」という直接的な「声」を集め、それを組織的なことばにできないのが民進党(民主党)の愚かさなのだ。山尾が少しがんばったが、まだまだがんばりが足りない。
「不満」は「意味」にしなくていいのだ。それなのに「意味(対案)」にしようとしているところが民進党(民主党)の幼稚なところである。「対案」を出さずに、「幼稚園落ちた、それは私だ」という国民を国会の前にどれだけ集めることができるかが、野党に問われている。自主的に集まってくる国民を「ほら、集まってきた」とよろこんでみているだけではだめなのだ。「集まれ」と「煽動」しないとだめなのだ。
あれもこれも不満なのだから、その場その場で「あれがだめ」「これがだめ」と無秩序に言い続けるエネルギーが民進党には完全にかけている。
ということろから、また山田の詩に戻る。
山田が検索して集めた「オバマの記事」は、それぞれがそれぞれの「意味」を持っている。肯定も否定も、それぞれの「文脈」のなかで「意味」となっている。山田は、それを「読まない」。読んだとしても、それを「意味」で「要約」しない。逆に、「文脈」を解体し、「意味の可能性」を「増殖」させる。「意味」を「違った意味」に暴走させるために、次々に違った文章を割り込ませ、「文脈」を切断する。
あるいは、こう言い直した方がいいのかもしれない。
「意味」にしばりつけられていることばを、別の「意味」をつくっていることばで切断する。それは「切断」なのだが、「切断」した瞬間に、新しい「接続」に変化し、「異種」の「意味」を「生み出す」。
オバマを肯定するAという文章がBによって批判されたはずなのに、A→Bではなく、B→Aという形で引用されると、Bを批判する形でAの論理が動いているように見えてしまう。最初の「意味」を超えるものが「生み出される」ことになる。
そのとき、接続によって生まれた新しい「文脈/意味」は、しかし、重要ではない。そんてものは、どっちにしろ「意味」にすぎない。
重要なのは、「切断」が「接続」に変化し、その変化が新しい「意味」を「生み出す」。その「生み出す」という「動詞/行為」なのである。
「意味」ではなく「意味を生み出す」という「動詞の瞬間」を山田はつかみとっている。そして、その「生み出す」という「動詞」は、洗練なんかとは無関係に、ただ「量」によって力になる--と書いてしまうと、かなり危なくなってしまうけれど、「量」がとても重要だと私は思う。山田のやっていることが「絶対量」ではないが、とっかかりはつくったのだ。
私は目が悪くて40分以上モニターに向かっていると、何も書けなくなる。で、大急ぎで、思いつくままに書くしかないのだが、この詩集は今年いちばんの傑作である。いや、この10年でいちばんだ。ことばをどう語るか、ということへの「問いかけ」がある。
ことばを集めると詩になる、ということならすでに谷川俊太郎が「カタログ」でやっているが、そこには「秩序(意味)」が指向/思考されていた。いろんな日本語のそれぞれ独自の「文体/効果的な意味の生成方法」を持っていることを明るみに出す、その「文体」の「音楽」を響かせてみるという「意味」があった。
googleは「意味」を指向しない。指向しないことで「意味」になっている。「量」を手にすることで、「力/正しい」そのものになっている。
ただ、私はその「量/力/正しい」というあり方に与したいとは思わない。
山田が、それに与していると感じているわけではない。むしろ「量/力/正しい」に向き合い、それを破壊するために「量」をつかおうとしているように感じる。そこに興奮した。
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