詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子『漂う雌型』

2016-06-04 12:05:36 | 詩集
白井知子『漂う雌型』(思潮社、2016年05月31日発行)

 野崎有以『長崎まで』の直後に、白井知子『漂う雌型』を読むと、激しいめまいのようなものに襲われる。ことばといっしょにあらわれる「もの/こと」があまりにも違う。
 もちろん筆者が違うのだから違う「もの/こと」があらわれるのは当然なのだが……。
 なぜ、めまいを感じたか。
 野崎有以『長崎まで』はタイトルからわかるように、そしてきのうの日記に書いたように「……から……まで」移動するというストーリー(枠組み)を持っている。タイトルは「東京から長崎まで」と読むことができる。「旅」である。その空間の「旅」に、「昔/以前(ある瞬間)からいままで」という時間の「旅」が重なる。そして、それは言い換えると「日常の旅」である。
 白井も多く「旅」を描いている。実際に「旅」をしてことばを動かしている。コーカサスとかグルジアとか、ふつうのひとがあまりいかないところを「旅」して、そこに暮らすひととまじわり、ことばを動かしている。「旅」で出合った「日常」を描いている。「旅の日常」を描いている。
 「日常の旅」と「旅の日常」は、どう違うか。説明は難しいが、(もしかすると、逆に言った方がいいのかもしれないとも思うのだが)、その、どこかで似ていて、完全に違うことばのあらわれ方に、私は、めまいを感じる。

 「コーカサスの山竝」という作品に次の連がある。

いま目覚めれば
わたしは 畢竟 スキタイの女
ユーラシア大陸を家畜とともに移動していく一族の女になる
鉄の製造と騎馬の技術で
興亡をくりかえす民族の狂騒 鬨の声が 遥か

 「一族の女になる」の「なる」に白井の肉体/思想があらわれている。白井は白井であることをやめる。いや、白井は白井でいることができない。「旅の日常」では、それまでの自分を捨てないと「日常」が始まらない。自分をかかえたままでは、「旅行者/お客さん」であり、「お客さん」が体験するのは「非日常/いつもと違う雰囲気」である。
 この「非日常/いつもと違う雰囲気」というのは、もちろん「空間/風景」ということもあるのだが、それを「時間」をつかって言い直すと、「いままでいた東京の時間」とは違う「時間」ということである。「スキタイ時間」ということである。
 で。
 この「スキタイの時間」をただ「スキタイのひとの暮らし方のテンポは日本人と違うなあ」というだけなら、「非日常/東京とは違う時間」を思い出しているだけになるのだが、白井はちょっと「違う時間」をつかみとる。「スキタイのいま」という「時間」以上のものをつかみとる。
 「スキタイのいま」は「スキタイの過去(歴史)」があって、「いま」がある。「スキタイのいま」と「東京のいま」を比較するのではなく、「スキタイの歴史」に出合う「いま」という瞬間に、「いま」をささえる「歴史」が見え、それに出合う。そして、その「歴史」そのものに引き込まれ、生まれ変わる。「スキタイの時間/歴史」そのものが白井のなかに入ってきて、「東京の時間/東京のいま」を洗い流す。
 そのとき、「女」が鮮烈にあらわれてくる。
 「スキタイ」と「東京(日本)」の違いを洗い流して「女の時間」があらわれてくる。白井は「女」になって、それから「スキタイの女」として生まれ変わる。

残照の先陣 騎馬が戻る
魔境の異族たちをも起こしかねない声で
老婆から女衆に檄がとぶ
「料理は上出来か」と
犠牲獣 馬の皮を剥ぎ
骨から削ぎおとした肉を鉄鍋に入れ
薪がわりにした骨で煮込んでいる
「かまけるな
骨を火に投げ込め
焚け もっと焚け 火を焚くのだ
よいか おまえたちの血が 滾るほどにだ
馬の乳 蜂蜜 果実はそろったか」

 ここにあるのは「日常」というよりも「神話」である。「神話」の「時間」が「いま」に噴出してきて、そのなかで白井は「スキタイの女」に「なる」。「神話の時間」が白井を、白井ではない「女」を生み出す。
 「神話」、そこにあってそこに見えず、しかもひとが動くときいつでも「噴出してくる時間」。「原型」。ひとを動かす「原型」の力。
 「旅/非日常」なのに、もう「非日常」とは言っていられない。そこにしかない「日常の原型」が「旅」を支配してしまう。

入りくむ山襞 峡谷 果てしれぬ稜線
放牧された馬や牛 牛の群れとともに暮らしている多彩な民族
コーカサスの精霊がかき鳴らされる
スキタイ人のもと忍ばせてきた
わたしの素のままの声

 「スキタイの女になる」ことが、「わたしの素のままの声」になることでもある。「神話」をくぐり「女」そのものになる。「原型」になる。
 こういう書き方をすると「男女差別」ということになるかもしれないが、まあ、気にしない。
 白井は、コーカサスを旅し、そこに生きるひとに触れ、同時にそのひとたちを支える「神話」のようなものに触れ、「命の原型」を揺さぶられる。「命の原型」が「素のままの声」。
 「原型」に触れることで、自分自身の中にある「原型」を発見する。
 それが白井の「旅」であり、それは野崎の旅の時間が自分の体験した一瞬「あるときからいままでの時間」であるのに対して、白井の体験する旅の時間は「神話からいままでの時間」ということができるかもしれない。野崎は、いわば「等身大の時間(あくまで自分が生きてきた時間)」を丁寧に生きているのに対し、白井は「個人を超えてつづいている時間」を瞬間的に生きている感じがする。
 そして、このとき、ちょっと変なことが起きる。
 野崎の時間の方は「日常」にきわめて近く、現実的なのに、それが「ストーリー」のように感じられる。そこにストーリーが動いているように感じてしまう。
 白井の描いている「神話」は「話」ということばがあるくらいだから、それこそストーリー(絵空事)になってしまいそうなのだが、なぜかストーリーとは感じない。「物語」がはじまり、そこに起承転結があるとは感じない。ストーリーを気にしない「いま」という一瞬が「神話」として噴出している感じがする。ストーリーではなく「詩」を感じる。激しい命のリズムを感じる。
漂う雌型
白井 知子
思潮社
コメント
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