詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍のステルス作戦

2017-10-09 19:51:20 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍のステルス作戦
            自民党憲法改正草案を読む/番外122(情報の読み方)

 安倍が演説の「日程」を公表せず、神出鬼没に街頭にあらわれている。これをちまたでは「ステルス作戦」と呼んでいる。安倍が「日程」を公表しないのは、公表すると安倍を批判する国民があらわれ、演説を邪魔する。「安倍帰れ」「安倍辞めろ」「安倍が国難」という批判が飛び交う。それを避けるためだと言われている。
 それだけではない。それ以上の、とんでもない作戦である。安倍はただ批判から逃げているだけではない。

 昨年の参院選を思い出そう。
 私は投票日の一週間前、7月3日に、やっと安倍の作戦に気づいた。選挙前日なのに、私の職場は異様な静かさがおおっていた。安倍は「報道」を封じたのだ。もちろん「圧力」をかけてではない。そういう露骨なことをすれば、すぐ批判される。
 もっと巧妙だ。
 安倍は、「表に出ない」作戦をとったのである。
 それは、それまでの「選挙戦術」を根底からひっくり返すものだった。それまでの選挙戦では、候補者(党の代表者、スポークスマン)は、「顔」を出し、「名前」を叫んだ。(主張も訴えた。)国民に売り込まなければ票が入らない。誰もがそう考えていた。多く表に出たものが勝つ。「知名度」を高めるためには、積極的に「表に出る」必要があると考えていた。
 安倍は、逆手をとった。
 安倍が「表に出ない」と、ほかの政党(党首)の発言を報道できない。選挙報道にはあるルールがある。候補(政党)が不平等にならないように、「情報量(放送時間、記事の長さ)」を均等にする。このルールは、まず籾井NHKによって破られ、放送時間は政党の議席数に合わせる形で配分された。つまり自民党は長く、議席の少ない野党は少なく、という具合である。
 そうすると、どういうことが起きるか。
 少数政党(少数派)の主張は「情報」として、国民にはつたわらないのである。
 既成の、すでにあちこちで喧伝されている主張だけが繰り返される。議論は、もちろん深まらない。
 参院選のときの「党首討論会」は一回だった二回目以降を自民党(安倍)が、日程の調整が付かないという理由で拒否した。それは他党の主張を放送させないという「口実」だった。籾井NHKはもちろん、すぐにそれに飛びついた。応援した。この籾井NHK報道スタイルによって、少数派の意見は放送されず、存在しないことになってしまった。間接的に存在を「封印されてしまった」。

 あの大成功をおさめた作戦を安倍は繰り返そうとしている。私はこれを「沈黙作戦」と呼んでいる。

 安倍が遊説の日程を秘密にする。そうすると放送局も、新聞社も、それに対応できない。安倍が演説しても、それを報道できないとなれば、他の党の街頭演説も当然報道できなくなる。各候補の主張を公平につたえるというルールが崩れてしまうからである。安倍の街頭演説を報道せず、小池や枝野、志井の演説だけを報道すれば、「偏向している」という批判が安倍サイドから起きるだろう。
 安倍が街頭で、国民から「安倍帰れ」「安倍辞めろ」「安倍が国難」という批判を受けているということも、もちろん報道されない。テレビ電波に乗らないと、どんな事実も「存在しない」ことになる。テレビ電波に乗れば、ビルの下から犬が助け出されたということが「一大ニュース」になる。事実として「存在する」。

 安倍は、事実の存在を隠蔽する作戦をとっている。権力を利用して、指揮している。
 天皇の「生前退位」も同じである。籾井NHKをつかって「スクープ」させ、護憲派の天皇を「沈黙させる」ことに成功した。
 真珠湾慰霊は、単なる「人気取り」だけのものではない。天皇の戦跡慰霊の旅を封印するためのものだった。天皇の「平和への願い」を国民に知らせないための、一大イベントだった。
 「沈黙作戦」は、もちろん森学園、加計学園問題でも実施された。自衛隊日報でも実施された。何も語らない。情報をいっさい公開しない。「記憶にありません」ということで、事実を「存在しない」ものにしてしまった。
 国会での質疑応答は、「閉会中審査」という不規則な形で、国民の目から遠ざけられ、その報道も十分ではなかった。「沈黙」のなかにのみこまれてしまった。

 このあと、どうなるか。
 党首討論は、衆院選公示後、開催されるか。すでにネットでやった、記者クラブでもやった、二回もやったのだから十分、日程の調整が付かない、と安倍は再び拒否するかもしれない。

 この「沈黙作戦」に対抗するには、ひとりひとりの国民が「沈黙しない」という行動で訴えるしかない。
 ネットでは、「安倍追っかけ隊」が安倍の演説というか、安倍批判の声を報道している。「おまえが(安倍が)国難」というプラカードを必死で隠そうとする自民党の職員(?)の映像アップしている。こういう「情報」をつぎつぎに拡散することで、安倍の「沈黙作戦」のずるさを告発する必要がある。




#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
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西岡寿美子『シバテンのいた村』

2017-10-09 09:22:40 | 詩集
西岡寿美子『シバテンのいた村』(土曜美術社出版販売、2017年09月25日発行)

 西岡寿美子『シバテンのいた村』には生き物が出てくる。どの作品も好きだが、「鳥を見る」について書いてみたい。


ジュウィー、ピーィッ、
ピィーッ、ジッ、ジュウィーッ

絹を裂くとは
女性の悲鳴を形容する言葉だが
小さい者らが
胸毛を逆立て口を全開にして叫ぶ声はまさにそれで
何事の出来(しゅったい)かと外を窺わずにはいられない

 鳥の声に驚き、外を見る。残っている柿の実を食べ、水も飲んで、なぜまたあんなに険しく叫ぶのかと西岡はいぶかる。何という鳥かは書かれていない。西岡にもわからない鳥なのだろう。でも、その声をしっかりと聞いている。「音」として再現できるほど、「肉体」にしみこんだのだ。
 その声を聞きながら、西岡は、この鳥たちは次の餌場を探しに旅立つのだと推測している。
 それから、こんなふうに考え始める。

その日限りで訪れを断った鳥の夫婦よ
たかだか握り拳ばかりの身体で
手の変形である羽という器官を懸命に打ち振り
ひたすら空の道を往き来する者よ

行住定めない者らであれば
刻々が全身のいのち歌であろう
時にこちらの胸を裂く
一筋の喉の調べも
単純に生の讃歌とばかり聴いてはなるまい

 生硬な印象がぐいと迫ってくる。この「ぐい」はどこからくるのか。「握り拳」という「比喩」が「手」にかわり、「羽」にかわり、「打ち振り」という動詞になって、それがさらに「往き来する」という描写にかわる。
 このとき、私は、そのことばのなかに「鳥」ではなく、西岡を見る。西岡が見える。それが「ぐい」の正体である。小さな鳥ではなく、西岡が鳥になって空をわたっているということが、わかる。錯覚する、といった方がいいかもしれない。その印象の強烈さが「ぐい」である。
 「鳥」を「行住定めない者」と呼ぶとき、西岡は「行住定めない者」となって生きている自分を思う。詩を書くことは、西岡にとって「全身のいのち歌」である。一語一語、一行一行が「いのちの歌」である。西岡自身がそうであるから、「鳥」に西岡のすべてを託して、そこに「いのち」を見る。
 「時にこちらの胸を裂く/一筋の喉の調べも/単純に生の讃歌とばかり聴いてはなるまい」は、二連目の「絹を裂くとは/女性の悲鳴を形容する言葉」を連想させる。「女の悲鳴」は、ときには「生の讃歌」でもある。
 でも、こんな余分なこと(詩は、たぶん、こういう過剰な精神の動き、暴走のことなのだろうが)とは違うものを、西岡は瞬時につかみ、鳥の前に彼女自身の「いのち」を投げ出す。

食即生
一本の管さながらの
思考を切り捨てた生理
身一つで潔く進退するあの者らを見れば
人間は何と迂遠な生き物であろうか

 人間には「思考(ことば)」という「余分」がある。「生理(いのち)」を逸脱してしまう余剰/過剰がある。潔くないのである。「進退」ひとつひとつに「ことば」を必要としてしまう。
 「余剰/過剰」は「迂遠」でもある。
 そうわかっていても、人間は「迂遠」を生きる。生きるしかない。

 この西岡の詩には、激しいせめぎ合いがある。鳥の自然(生理)に感動し、人間の「迂遠」を思い、それでも「迂遠」を生きる。こんなふうに、反省しながら。

発声からして
あの者らの全身投入には敵うまい
例えばこのわたしが渾身で生の要諦を衝き
心肺に直刀を突き入れるつもりの念力で以て
人という種のいのちの歌を歌ったにしても
百倍の骨格を持つ異類を動かすことは出来まい
とてもとても

 しかし、私は西岡に言いたい。西岡の同じ骨格をもった人間「百人」を動かすことは出来る。いや、百人にはとどまらないだろう。詩を読んだ人すべてを動かすだろう。



 巻頭の「夢」は、西岡のことばが「同類/親しみやすい仲間」を超えて、「異類/さまざまな人間」を突き抜けて暴走する精神の強靱さを象徴する詩である。
 全行を紹介する。

--狼が付いているぞ

わが家への戻り峠の薄月夜
振り返れば
犬よりは頬のこせた
背から尾への毛並みも険しい
外股の獣(けもの)が一つぴたぴたと付けてくる

声も揚げず鼻息も荒げず
摺り足で付かず離れず添うて来るのは
話に聞く送り狼であろう
刃の上を渡る心地で
精神(こころ)の在り場所を異にした
牙を持つ者の体重音に守られて峠を越した

--狼(おいぬ)にお供料をお上げ

赤の飯(まま)を炊いて
お礼申しを急ぐ親の傍らで
背いて獣より獣の男に奔るわが心では
夢さえも険しく



*


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