谷合吉重『姉(シーコ)の海』(思潮社、2017年09月30日発行)
谷合吉重『姉(シーコ)の海』は、どう読んでいいかわからない。こう、始まる。
「飢えハ」「生マレた」という具合に、ときどき「カタカナ」がまじる。その「カタカナ」をどう読んでいいのか、私にはわからない。「飢えは」「生まれた」とは違う音で発音されることばなのか。読んでいるのが活字だから、そこに「声/音」は存在しないのだが、私は黙読しながら「音/声」を聞く。私の「肉体」のなかで「声/音」が動く。それを手がかりにしてことばを読む。そこに、どういう「音/声」なのか、わからないものがまじってくると、私は何も理解できなくなる。
「出会いのトキは」は「出会いのときは/出会いの時は」と読むことができる。「時(時間/瞬間)」を強調したくて書いているのだと読むことができる。ひらがながつづくとことばが見えにくくなることがある。ことばをはっきり見えるようにするためにカタカナで表記された文章に出会うことがある。黙読するひとに配慮しているのかもしれない。たとえば「姉のホト」の「ホト」は「陰」(女性性器)だろう。これは、文脈の中で「ホト」を浮かび上がらせるための工夫だろう。
しかし「飢えハ」「生マレた」は、どうなのだろう。「旅立トウ」もある。何かしら、「強い意味」をこめているのかもしれないが(文脈から浮かび上がらせたいものがあるのかもしれないが)、私には、それをつかみ取ることはできない。
このカタカナ表記を無視して、頭の中でことばを動かしなおせば、どことなく「神話」めいたことばの短さが印象に残る。「粘土から/生まれた」という「異質」な世界観がそう感じさせるのかもしれない。「粘土」から人間が生まれる、つくりだされる、というの「日本の神話」にあるのか、「外国の神話」にあるのかよくわからないが、どこかで聞いた記憶もある。「普賢菩薩」ということばが出てくるから、日本、あるいは東洋の「神話」と関係するのかも。しかし、これも、よくわからない。
よくわからない、というのは、そういう「音/声」の書き方を私は覚えていない、ということ。そういうことを「体験したことがない」ということ。私は自分が体験したことしかわからない人間なのかもしれない。
ここで、その体験したことのないことを、体験すればいいのかもしれないが、年をとってくると、そういうめんどうなことはしたくない。年をとると保守的になり、自分の知っていること(体験したこと)を繰り返すだけである。
「新しいこと」はほうりだして、無視する。どんどん読みとばす。こういうとき、目(肉体)というのは不思議なものである。「知っている/体験したことがある/おぼえている」ものは、すぐに目に留まる。
全部を「体験した」ことがあるとは言わないが、ここには私の体験したことがある。
「駿河湾」を私は見たことがないが、海を見たことがある。海に太陽が傾く(沈む)のも見た。漁港周辺に「残酷」を感じたこともある。「高さの欠けた三角形」というのは断面が「台形」の堤防、あるいは防波堤かもしれない。そのとき「底辺」とは道路である。海ではなく「土地」である。岬も、水平線も見たことがある。
友達を訪ねていって、いまはいないと言われたこともある。待っている間、何かをしていろと言われたこともある。いっしょに釣をしようといわれたことばないが、何か、そういうやりとりをしたことがある。
そういうことを思い出す。
その思い出すことのなかで、「残酷」だとか、「高さの欠けた三角形」だとか、ちょっと抽象的なことばが、不思議な「音楽」になって響いてくる。「現実」を「異化」するもののように感じられ、その「異化」から「神話」が始まる。「神話」は人間の世界と違って「抽象的」だが、同時に「具体的」でもある。そして、そのときの「抽象」とは「具体」を純化したもの、あるいは強化したもの、という感じがする。ことばのなかで、存在と運動が強く、明確になる。そういうことが、ここでは起きている。
突然出てくる「ジュンコ」は、このとき「女神」である。何かしら世界を支配している。こんな具合に。
「いう」、つまり「ことば(声)」にする。すると、世界が「ことば」にあわせて整うのである。こういうことを「神話化する」というと思う。世界が動き、ことばを整えるのではなく、ことばが世界を整えながら動かす。
こういう部分にとても強く引かれる。だからこそ、書くのだが、
助詞、動詞の活用の一部が「片仮名」なるのは、なぜなのか。「表記」の「異化」でなはく、もっと違う形でことばを異化できるのではないか。その方が「神話」がよりくっきり浮かび上がるのではないか。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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谷合吉重『姉(シーコ)の海』は、どう読んでいいかわからない。こう、始まる。
出会いのトキは
いつも回避され
あたしの飢えハ
略奪されたと
光った土の上に
姉のホトが落ちる
同じ粘土から
生マレた姉弟
あたしは
ココの生まれではないと
子供ラを罵倒し
あるトキがくれば
十人の子供だって
棄テて旅立トウと
普賢菩薩の絵を模写する
「飢えハ」「生マレた」という具合に、ときどき「カタカナ」がまじる。その「カタカナ」をどう読んでいいのか、私にはわからない。「飢えは」「生まれた」とは違う音で発音されることばなのか。読んでいるのが活字だから、そこに「声/音」は存在しないのだが、私は黙読しながら「音/声」を聞く。私の「肉体」のなかで「声/音」が動く。それを手がかりにしてことばを読む。そこに、どういう「音/声」なのか、わからないものがまじってくると、私は何も理解できなくなる。
「出会いのトキは」は「出会いのときは/出会いの時は」と読むことができる。「時(時間/瞬間)」を強調したくて書いているのだと読むことができる。ひらがながつづくとことばが見えにくくなることがある。ことばをはっきり見えるようにするためにカタカナで表記された文章に出会うことがある。黙読するひとに配慮しているのかもしれない。たとえば「姉のホト」の「ホト」は「陰」(女性性器)だろう。これは、文脈の中で「ホト」を浮かび上がらせるための工夫だろう。
しかし「飢えハ」「生マレた」は、どうなのだろう。「旅立トウ」もある。何かしら、「強い意味」をこめているのかもしれないが(文脈から浮かび上がらせたいものがあるのかもしれないが)、私には、それをつかみ取ることはできない。
このカタカナ表記を無視して、頭の中でことばを動かしなおせば、どことなく「神話」めいたことばの短さが印象に残る。「粘土から/生まれた」という「異質」な世界観がそう感じさせるのかもしれない。「粘土」から人間が生まれる、つくりだされる、というの「日本の神話」にあるのか、「外国の神話」にあるのかよくわからないが、どこかで聞いた記憶もある。「普賢菩薩」ということばが出てくるから、日本、あるいは東洋の「神話」と関係するのかも。しかし、これも、よくわからない。
よくわからない、というのは、そういう「音/声」の書き方を私は覚えていない、ということ。そういうことを「体験したことがない」ということ。私は自分が体験したことしかわからない人間なのかもしれない。
ここで、その体験したことのないことを、体験すればいいのかもしれないが、年をとってくると、そういうめんどうなことはしたくない。年をとると保守的になり、自分の知っていること(体験したこと)を繰り返すだけである。
「新しいこと」はほうりだして、無視する。どんどん読みとばす。こういうとき、目(肉体)というのは不思議なものである。「知っている/体験したことがある/おぼえている」ものは、すぐに目に留まる。
太陽は駿河湾に傾き
今という残酷が辺りに漂う
かつおぶしで知られる漁港に
高さの欠けた三角形の底辺が引かれ
岬の向こうに水平線が伸びてゆく
息子はもうすぐ帰るさかい
それまであたしと釣をしなせといって
ジュンコはぼくを港の岸壁に連れてきた
全部を「体験した」ことがあるとは言わないが、ここには私の体験したことがある。
「駿河湾」を私は見たことがないが、海を見たことがある。海に太陽が傾く(沈む)のも見た。漁港周辺に「残酷」を感じたこともある。「高さの欠けた三角形」というのは断面が「台形」の堤防、あるいは防波堤かもしれない。そのとき「底辺」とは道路である。海ではなく「土地」である。岬も、水平線も見たことがある。
友達を訪ねていって、いまはいないと言われたこともある。待っている間、何かをしていろと言われたこともある。いっしょに釣をしようといわれたことばないが、何か、そういうやりとりをしたことがある。
そういうことを思い出す。
その思い出すことのなかで、「残酷」だとか、「高さの欠けた三角形」だとか、ちょっと抽象的なことばが、不思議な「音楽」になって響いてくる。「現実」を「異化」するもののように感じられ、その「異化」から「神話」が始まる。「神話」は人間の世界と違って「抽象的」だが、同時に「具体的」でもある。そして、そのときの「抽象」とは「具体」を純化したもの、あるいは強化したもの、という感じがする。ことばのなかで、存在と運動が強く、明確になる。そういうことが、ここでは起きている。
突然出てくる「ジュンコ」は、このとき「女神」である。何かしら世界を支配している。こんな具合に。
あんたの仕掛けが引いとるよ
早く上げなせえとジュンコはいう
「いう」、つまり「ことば(声)」にする。すると、世界が「ことば」にあわせて整うのである。こういうことを「神話化する」というと思う。世界が動き、ことばを整えるのではなく、ことばが世界を整えながら動かす。
こういう部分にとても強く引かれる。だからこそ、書くのだが、
冬ニ向かフ消尽した朝の
ビン沼川のほとり、
抑揚のない楽がなりひびく
ソナール ソナール ソナール
風下の葦の葉裏の水鳥も鳴イテいます
助詞、動詞の活用の一部が「片仮名」なるのは、なぜなのか。「表記」の「異化」でなはく、もっと違う形でことばを異化できるのではないか。その方が「神話」がよりくっきり浮かび上がるのではないか。
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クリエーター情報なし | |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。