詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

管啓次郎「重力、樹木」、小松谷かや「蛇の瞼」ほか

2017-10-02 09:56:05 | 詩(雑誌・同人誌)
管啓次郎「重力、樹木」、小松谷かや「蛇の瞼」ほか(「妃」19、2017年09月25日発行)

 管啓次郎「重力、樹木」を読みながら、ベケットを思い出した。ベケットとは、私にとって「重力の作家」である。「ブラックホールの作家」と言い換えてもいいかもしれない。何もかもが飲み込まれていく。反動で何かを放出しているのだが、それは目には見えない。
 どの部分にベケット性を感じたかというと。

小刻みに舞台を歩きはじめた
大きな樹の幹を抱きしめている心
動けない木に小さな移動を与えている心
(依存と介助という二つの動きが見える)
でもそれは後になっての分析で
そのときはその動きに理由があるとは思わなかった

 「でもそれは後になっての分析で」の「後になって」である。「後になって」というのは「時間が経ってから」という意味である。「いま/そのとき」ではなく、「時間が過ぎ去ってから」。
 でも、そこに出現してくるのは「未来」ではなく、「過去」なのだ。「過去」なのに、「分析している」ときは「いま/ここ」のように「過去」が出現している。「未来」はどこにもない。「過去」もどこにもない。「いま」だけが「ある」。
 ベケットの戯曲に「クラップの最後のテープ」がある。この「最後の」とは別のことばで言えば「最新の(いちばん新しい/いまという時間にいちばん近い)」という意味でもある。
 ことばが、その指し示す「時間」が一瞬交錯する。
 何かを思うとき、それが「いちばん近くなる」。それが「10年前の過去」であっても、思うときは「きのうという過去」「一秒前の過去」よりも「近い」。
 この「近い」は「時間の単位」では測れない「近さ」であり、「空間の単位」でも測れない「近さ」である。「近い」は「密着している」でもあり、「密着」よりもさらに濃密な関係、「内部」という感覚でもある。
 「内部」が生まれる。
 「内部」に何もかもが飲み込まれていく。
 すべてが「内部」になる。
 これは、すべて「後になって」起きる。
 これが、さまざまなバリエーション(といって、非常に少ないバリエーション)をとおして描かれるだが、似たことばがもう一度出てくる。

踊りが移動なら/樹木は不動
踊りが風を起こすなら/樹木は風を受けるだけ
でもどちらも重力に対する反抗
おもしろいことにともだちがいうには
展示される絵はぜんぶ木の絵だそうだ
え、それは偶然だね
後になって思うと(後になって思うときにのみ)
ぼくはたしかに木のことを考えていた

 「後になって思うと」は「後になって思うときにのみ」と強調する形で言いなおされている。
 「後になって」というのは「思う」という「動詞」と切り離せない形で動いている。「後になって」は「時間」の経過をあらわすのではなく、「思う」という人間の「内部」の動きのことなのである。「内部」を、言い換えると「ブラックホール」をつくりだすことなのである。
 その「内部」というのは、

踊りが移動なら/樹木は不動
踊りが風を起こすなら/樹木は風を受けるだけ

 という具合に、「対」によって成立する。「対」というのは「二つ」の存在の関係。それは「引き合う」。つまり、そこには「重力(引力)」があって、それは「弱い」(はっきりとは感じられない)のだが、感じられないがゆえに、考え始めると飲み込まれてしまう。
 なんといえばいいのか。
 「論理」によって、その存在が想定され、それが「後になって」、「実証」されていくという感じ。
 それは「二つ」のものだけれど、「ひとつ」。
 「重力(引力)」だけがある。
 この詩は、

ともだちの仕事を場を訪ねてゆくと突然
踊って見せてといわれた

 と始まるが、そこには「ともだち」と「ぼく」の「ふたつ」が「踊って見せてという/踊って見せてといわれた」という形で結びつき(引力によって/結合され)、そこから一種の「負荷(重力)」が動き始め、「ぼく」はその「拘束」を逃れることができなくなる。
 ベケットは「不条理劇」と言われるが、私から見ると「絶対条理劇」である。
 管がベケットをどう把握しているかわからないが、管の書いていることはベケットの書いていることそのものだと思った。

 (ベケットと関係があるのかどうかわからないが、「妃」には「共同詩」というものが載っている。そのタイトルは「<タロー>を待ちながら」であり、それぞれの詩の最終行は「……はまだこない」という形でそろえられている。)



 小松谷かや「蛇の瞼」の詩は「後になって」思うという詩ではない。また別の「時間」が書かれている。

病院坂を降りてゆく
朱いヒラドツツジが満開だ
花の壁に目をうばわれているうちに
白くて長いものが絡んできた
蛇のぬけ殻だった
掴むと声がする

 アタシは昨秋まである男のステッキになっていた蛇です、
 またあの男のステッキになりたいです

それなら心あたりがある
素早くぬけ殻をたたみ財布に収めた

 「目をうばわれているうちに」。これは「現在進行形」である。「いま」が動いてゆく。「絡んできた」「ぬけ殻だった」という動詞の形に注目するならば、「現在進行形」とは「過去」を引き寄せ、それを「声がする」という動詞の形、現在形にかえることを意味することがわかる。
 この「わかる」を、小松谷は管のように「論理」として展開するのではなく、「心あたり」という「ずるい」ものにすりかえる。
 そうかね、ほんとうに「心あたり」はないかねえ。胸に手をあててよく考えてごらん、なんて言われると、つらいでしょ?
 小松谷は、そういうことを書いているわけではないが、「論理/理性」に対する向き合い方、世界を「客観化」すとのときのことばの選択が、こんな具合に管とは違う。だから、そこに描かれる「時間」というのものも、微妙に違う。
 「タブララサ」の一連目は、こうである。

この冬のこと
白玉粉で横したまな板に寄りそい
茹であずきの灰汁を掬いとる
霜ばしらを踏んでよろこんだ人
タブララサ、白い冬

 二行目の「寄りそい」が「目をうばわれているうちに」に似ている。あるいは「目をうばわれているうちに」が「寄り添う」に似ているといえばいいか。
 小松谷は「いま」へ「近づいてゆく」ひとなのである。「近づいてゆく」は、しかし、「移動」ではなく、むしろ「移動(過ぎ去る)」の否定、「(寄りそい)とどまる」に近い。
 「いま/ここ」にとどまっていると、何かが動き始める。それは世界であると同時に、小松谷でもある。融合して、動く。動きことで、あたらしい融合が生まれる。
 だから、この「とどまる」は「ゴドーを待ちながら」のように、ほんとうに「待っている(とどまっている)」というのとは違う。「待っている」のではなく「寄りそっている」。
 小松谷のことばと管のことばの動きは、正反対のベクトルをもっている。



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