詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

服部誕『右から二番目のキャベツ』

2017-10-17 10:22:33 | 詩集
服部誕『右から二番目のキャベツ』(書肆山田、2017年10月20日発行)

 服部誕『右から二番目のキャベツ』は、詩というよりも「散文」。散文を行変えしたもの、という印象がある。ただし、散文にしてしまうと(エッセーにしてしまうと)、一文の「息」が長くなりすぎる。行変えと、ときどき出てくる「体言止め」が「散文ではないぞ」と主張している。
 「箕面線の果てしない旅」は、こどもと箕面線を何度も往復するという内容。石橋駅と箕面駅を結ぶ短い線。駅に着くたびに先頭車両へ向かって移動する。必ず先頭車両で風景を眺めるということを書いている。

目の前に見えていた線路が行き止まってしまうこのふたつの終着駅は
おさない息子にとってはおそらく<我らが世界の果て>だっただろう
四輌連結の電車のなかを行ったり来たりしながら
世界の果てからもう一方の世界の果てまで
四本のレールの上の全世界を何度も何度も往き来した至福の時間

 一文が長くなるから、その長さを切断するために、「体言止め」の文章が挿入される。切断した瞬間に「詩」があらわれる。
 「至福の時間」ということばをつかわずに「至福の時間」を書くのが文学である、というようなことを言っても始まらない。
 このスタイルが服部の「詩」の掴み方なのだ。
 で、こういうとき。
 服部はどう思っているのかわからないが、私は、実は「至福の時間」「我らが世界の果て」という「詩っぽい」ことばではなく、別なところに詩を感じている。
 引用が逆になるが、この引用の前の部分が、私は好きである。

石橋駅に着くと降車側の扉がさきに開くが わたしたちは降りずに
乗車側扉が開くまえのまだ誰も乗り込んでこない電車のなかを
最後尾つまり箕面側先頭車輛まで大急ぎで移動する
箕面駅に着いたときにはおなじようにして
石橋側先頭車輛までそのまま車内を駆け戻るのだ

 行動が、しつこいくらい丁寧に描かれている。
 「降車側の扉」「乗車側扉」と具体的に世界が描写され、そこには「さきに開く」「開くまえ」という、ほかのひとにとってはどうでもいいような「無意識の時間」も濃密に描かれる。
 いま流行のことばをつかっていえば「世界が分節される」。つまり、はっとりのことばによって、「もの」と「こと」、世界が生み出される。
 ここには「至福の時間」「我らが世界の果て」というような「情感に満ちたことば」はないが、「情感のことば/思想のことば」ではあらわせない充実したものがある。「思い」が「感情」という形にならないまま、「肉体」としてなまなましく動いている。
 これを服部は「至福の時間」「我らが世界の果て」ということばで言いなおしている。言いなおすことで「詩に昇華した」つもりのなだろうけれど、こういうことを書かない方が「詩」になる。
 行動を描写した「散文」が、そのまま「詩」になる。
 「詩っぽく」言いなおした瞬間から、それは「散文以前(散文以下)」になってしまう。

 逆のことを試みた方がいいのではないだろうか、と思う。行分けという詩のスタイルではなく、「散文」という形式をつかい、まぎれ込んでくる「詩っぽいことば(既成のことば)」を排除すると、ことばはもっと生き生きする。
 「正直」が、そのままことばになって動く。

 詩集のタイトルになっている「右から二番目のキャベツ」は、簡潔でおもしろい。「正直」が、そのまま出ている。

八百屋の店先に並べてあるキャベツの
右から二番目のを買ってきて
おおきな鍋でまるごと煮ると
それを食べた人はきっと
しあわせになるという言い伝えが
北欧の細長い形の国にはあるとしゃべりながら
自転車に二人乗りして
わたしたちを追い抜いていった
中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ
わたしは今 娘の手をひいて
やわらかい春キャベツを買いに行く
ちょうどその途中なのだよ
ありがとう

 ここには服部の「思い」は書かれていない。ふと聞いたことば女子中学生のことばが、服部の「思い」を乗っ取ってしまう。自分のものではなかった「思い」が、自分のものになる瞬間、言い換えると「自分が自分でなくなる瞬間」が詩であって、「どんな自分になったか(どんな気持ちになったか/どんな思想にたどりついたか)」という「結論」を書いてしまうと、それは「意味だけをつたえる散文」になる。
 私の「好み」を言えば、最終行の「ありがとう」は「中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ」の直後の方がいい。
 感謝が先に動いて、それから「理由づけ」がある。「理由づけ」があって、「ありがとう」がくると、感情の気持ちと微妙にずれる。感情と理性では、感情が先に動く。おさえようとしてもおさえきれずに動くのが感情というもの。
 「理由」の説明のあとに「感情(思想)」が動くと、なんだか押し付けっぽい、と私は感じる。



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
おおきな一枚の布
クリエーター情報なし
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)

2017-10-17 01:49:22 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)
            自民党憲法改正草案を読む/番外127(情報の読み方)

 2017年10月16日の朝日新聞(西部版・14版)の1面。

自公 経済成果を前面/野党 増税や格差批判/選挙サンデー 街頭へ

 この見出しを読んで奇妙に感じるのは私だけだろうか。
 安倍は、今回の選挙(国会解散)を「消費税増税の使い道を変更する。借金返済に充てるのではなく、全世代型社会保障をすすめるために使う。税金のつかい方を変えるのだから、国民に信を問わなければならない」と言って強行した。
 ところが、いまは、そんなことをまったく言っていない。
 朝日新聞は、安倍の主張を、こう紹介している。

(安倍は)民主党政権時代の経済状況を「日本中が黒い雲が覆っていた」と批判。国内総生産(GDP)や株価、パートの時給などが自民党の政権復帰後改善したとしてアベノミクスの優位性を訴えた。

 民進党を初めとする野党が「アベノミクスは失敗した。責任をとれ」と言って内閣不信任案を提出し、それが可決された結果、今回の選挙がおこなわれているのなら、この安倍の言っていることは「論理」として成り立つ。
 そうではないだろう。
 なぜ、こんな「争点」ではないことを大問題であるかのように前面に押し出して報道するのか。

 ここに、「選挙報道」の罠がある。

 私は昨年の参院選の最中、7月3日に、この罠に気づいた。選挙期間中は活気づくはずの私の職場が異様に静かだった。選挙報道に「大異変」が起きていたのだ。
 安倍と懇意らしい籾井NHKが率先しておこなったのだが、「選挙報道をしない」という作戦が展開されたのだ。「選挙報道」をしないと、大政党の政策(意見)しか報道されないことになる。
 選挙報道にはルールがある。
 ひとつは、ある政党(候補)に肩入れしない。味方しない。公平に報道する。言い換えると、どの政党の主張も同じような時間、同じような記事量で紹介するというルールがある。(このルールは、籾井NHKが率先して破った。政党の議席数に合わせて時間は異聞をした。)
 もうひとつは、政党の主張を紹介するときは、現有議席の多い順(勢力順)におこなうということ。つまり、いまなら自民党の政策を真っ先に紹介する。そのあとで、希望の党、立憲民主党、公明党、共産党という具合だ。与党・野党という順を考えるときは、公明党が先に来るかもしれないが、いずれにしろ自民党(安倍)の紹介が真っ先である。
 これは、論争がはじまるにしろ、それをリードするのは自民党であるということだ。安倍が論点をかえれば、野党はその論点に合わせて反論(反撃)の内容をかえないことには「論争」にならない。
 ここに大きな罠がある。
 最初、安倍は、消費税の使い道を「全世帯型社会保障」にかえる、と言った。教育費の無償化も言った。後者はすでに民進党(民主党)が主張していたものだ。政策の横取りだと批判されると、論点を変え、「北朝鮮の脅威」とか「アベノミクスの拡大」とか、別のことを言い始めた。最初に引用した主張は「アベノミクスのさらなる推進」の一環として言われたことである。民主党の経済政策はひどいものであった。そのために日本経済は失速した、と安倍は言いたいのだ。
 論点が「消費税の使い道」ではなく、アベノミクスが成功しているか失敗しているかに変わってしまうと、野党はどうしても「増税や格差批判」をしなくてはならないことになる。そうしないと「論点」がかみ合わない。
 「論争」は、つねに最初に紹介される安倍の声にあわせて要約されてしまう。

 野党は、もっと別の問題も言っているはずである。
 たとえば森友学園・加計学園の問題について語っているはずである。核軍縮の問題、原発の問題も語っているはずである。しかし、マスコミは報道しない。安倍の主張を最初に紹介してしまうので、その論点とかみ合わない野党の主張は切り捨てられてしまうのだ。
 「争点」を明確にし、どちらの政権を選択すべきかという「情報」を提供しなければならない報道機関は、どうしても安倍の主張に対して、野党はどう言っているかを中心に報道するしかなくなる。安倍が森友学園・加計学園について語らず、アベノミクスについて語り続ける限り、野党の経済政策を最初に書かざるを得なくなる。
 野党の主張を先に書き、それにあわせて安倍が何を言っているかを書けば、ちがう「論理構造」の文章になるはずだが、第一党の主張を先に紹介するというルールがあるために、それができない。「争点(論争)」が安倍にリードされてしまうのである。
 そういうことが起きている。

 報道機関は、この安倍の仕組んだ「罠」に簡単にはまってしまってはいけない。
 最初の「争点」が何であったのか、そのことを常に安倍に問い続ける形で報道しないことには、安倍の思うがままの報道になってしまう。
 安倍批判派とみられている朝日新聞でさえ、こんな具合だから、ほかの報道機関はもっとひどい。
 安倍の「論点」が、どんなふうにずれてきているか、まったく検証せずに、ただ安倍の「論点ずらし」をそのまま追認している。
 報道の「基準」が定まっていないのだ。
 安倍が何を先に言おうが(あるいはいちばんたくさんの時間を割いて語ろうが)、国会解散を強行したときに言った「全世帯型社会保障と消費税の使い道」についてを出発点にして、安倍の論を紹介するなら、報道の内容は様変わりするはずである。安倍がどんなふうに論理をずらしたのか、それは何のためなのか、それを必然的に追及する報道になるはずである。
 野党は、今回の選挙が、森友学園・加計学園にまつわる「疑惑」隠しのためにおこなわれていると言っている。そのことを出発点として、なぜ、いま安倍がアベノミクスを持ち出し、さらには何年も前の民主党のことを引き合いに出すのか、その安倍の論理の有効性を追及すれば、もっと安倍の「腹黒さ」が浮き彫りになるはずである。
 「論点」をかみ合うように、きちんと紹介しないといけない。
 「論点」を「論点」として独立させていかなければならない。

 「言論」に意味(価値)があるとすれば、それは「論理」を独立させ、論理そのものを問い詰めることにある。
 「論理」がずれるのは、その「論理」に最初から問題があったということだろう。
 そのことを知らせる工夫をしないと、「言論」は死んでしまう。
 もうほとんど死んでいるが、ことばに携わる気持ちがあるなら、「言論」に息を吹き込む努力を報道機関はしなくてはならない。
 他人の「論理」にひきずられて、そのまま他人の「言い分」を追認していくのでは、「言論」とは言えないだろう。



 今回の「選挙サンデー(投票日前週の日曜日)」は、昨年の参院選以上に異様だった。もうみんな選挙結果がわかっている、という感じでたんたんとしている。関心を失っている。安倍に楯突けば、「収入の道」が閉ざされると、恐れている。
 アベノミクスが生み出したのは、この「経済恐怖心」だけである。安倍についていかないかぎり、アベノミクスの恩恵にあずかれない。少しでもずれると、確実に「低所得層」に切り捨てられる。恩恵は受けられない。その恐怖心がマスコミを支配している。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする