服部誕『右から二番目のキャベツ』(書肆山田、2017年10月20日発行)
服部誕『右から二番目のキャベツ』は、詩というよりも「散文」。散文を行変えしたもの、という印象がある。ただし、散文にしてしまうと(エッセーにしてしまうと)、一文の「息」が長くなりすぎる。行変えと、ときどき出てくる「体言止め」が「散文ではないぞ」と主張している。
「箕面線の果てしない旅」は、こどもと箕面線を何度も往復するという内容。石橋駅と箕面駅を結ぶ短い線。駅に着くたびに先頭車両へ向かって移動する。必ず先頭車両で風景を眺めるということを書いている。
一文が長くなるから、その長さを切断するために、「体言止め」の文章が挿入される。切断した瞬間に「詩」があらわれる。
「至福の時間」ということばをつかわずに「至福の時間」を書くのが文学である、というようなことを言っても始まらない。
このスタイルが服部の「詩」の掴み方なのだ。
で、こういうとき。
服部はどう思っているのかわからないが、私は、実は「至福の時間」「我らが世界の果て」という「詩っぽい」ことばではなく、別なところに詩を感じている。
引用が逆になるが、この引用の前の部分が、私は好きである。
行動が、しつこいくらい丁寧に描かれている。
「降車側の扉」「乗車側扉」と具体的に世界が描写され、そこには「さきに開く」「開くまえ」という、ほかのひとにとってはどうでもいいような「無意識の時間」も濃密に描かれる。
いま流行のことばをつかっていえば「世界が分節される」。つまり、はっとりのことばによって、「もの」と「こと」、世界が生み出される。
ここには「至福の時間」「我らが世界の果て」というような「情感に満ちたことば」はないが、「情感のことば/思想のことば」ではあらわせない充実したものがある。「思い」が「感情」という形にならないまま、「肉体」としてなまなましく動いている。
これを服部は「至福の時間」「我らが世界の果て」ということばで言いなおしている。言いなおすことで「詩に昇華した」つもりのなだろうけれど、こういうことを書かない方が「詩」になる。
行動を描写した「散文」が、そのまま「詩」になる。
「詩っぽく」言いなおした瞬間から、それは「散文以前(散文以下)」になってしまう。
逆のことを試みた方がいいのではないだろうか、と思う。行分けという詩のスタイルではなく、「散文」という形式をつかい、まぎれ込んでくる「詩っぽいことば(既成のことば)」を排除すると、ことばはもっと生き生きする。
「正直」が、そのままことばになって動く。
詩集のタイトルになっている「右から二番目のキャベツ」は、簡潔でおもしろい。「正直」が、そのまま出ている。
ここには服部の「思い」は書かれていない。ふと聞いたことば女子中学生のことばが、服部の「思い」を乗っ取ってしまう。自分のものではなかった「思い」が、自分のものになる瞬間、言い換えると「自分が自分でなくなる瞬間」が詩であって、「どんな自分になったか(どんな気持ちになったか/どんな思想にたどりついたか)」という「結論」を書いてしまうと、それは「意味だけをつたえる散文」になる。
私の「好み」を言えば、最終行の「ありがとう」は「中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ」の直後の方がいい。
感謝が先に動いて、それから「理由づけ」がある。「理由づけ」があって、「ありがとう」がくると、感情の気持ちと微妙にずれる。感情と理性では、感情が先に動く。おさえようとしてもおさえきれずに動くのが感情というもの。
「理由」の説明のあとに「感情(思想)」が動くと、なんだか押し付けっぽい、と私は感じる。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
服部誕『右から二番目のキャベツ』は、詩というよりも「散文」。散文を行変えしたもの、という印象がある。ただし、散文にしてしまうと(エッセーにしてしまうと)、一文の「息」が長くなりすぎる。行変えと、ときどき出てくる「体言止め」が「散文ではないぞ」と主張している。
「箕面線の果てしない旅」は、こどもと箕面線を何度も往復するという内容。石橋駅と箕面駅を結ぶ短い線。駅に着くたびに先頭車両へ向かって移動する。必ず先頭車両で風景を眺めるということを書いている。
目の前に見えていた線路が行き止まってしまうこのふたつの終着駅は
おさない息子にとってはおそらく<我らが世界の果て>だっただろう
四輌連結の電車のなかを行ったり来たりしながら
世界の果てからもう一方の世界の果てまで
四本のレールの上の全世界を何度も何度も往き来した至福の時間
一文が長くなるから、その長さを切断するために、「体言止め」の文章が挿入される。切断した瞬間に「詩」があらわれる。
「至福の時間」ということばをつかわずに「至福の時間」を書くのが文学である、というようなことを言っても始まらない。
このスタイルが服部の「詩」の掴み方なのだ。
で、こういうとき。
服部はどう思っているのかわからないが、私は、実は「至福の時間」「我らが世界の果て」という「詩っぽい」ことばではなく、別なところに詩を感じている。
引用が逆になるが、この引用の前の部分が、私は好きである。
石橋駅に着くと降車側の扉がさきに開くが わたしたちは降りずに
乗車側扉が開くまえのまだ誰も乗り込んでこない電車のなかを
最後尾つまり箕面側先頭車輛まで大急ぎで移動する
箕面駅に着いたときにはおなじようにして
石橋側先頭車輛までそのまま車内を駆け戻るのだ
行動が、しつこいくらい丁寧に描かれている。
「降車側の扉」「乗車側扉」と具体的に世界が描写され、そこには「さきに開く」「開くまえ」という、ほかのひとにとってはどうでもいいような「無意識の時間」も濃密に描かれる。
いま流行のことばをつかっていえば「世界が分節される」。つまり、はっとりのことばによって、「もの」と「こと」、世界が生み出される。
ここには「至福の時間」「我らが世界の果て」というような「情感に満ちたことば」はないが、「情感のことば/思想のことば」ではあらわせない充実したものがある。「思い」が「感情」という形にならないまま、「肉体」としてなまなましく動いている。
これを服部は「至福の時間」「我らが世界の果て」ということばで言いなおしている。言いなおすことで「詩に昇華した」つもりのなだろうけれど、こういうことを書かない方が「詩」になる。
行動を描写した「散文」が、そのまま「詩」になる。
「詩っぽく」言いなおした瞬間から、それは「散文以前(散文以下)」になってしまう。
逆のことを試みた方がいいのではないだろうか、と思う。行分けという詩のスタイルではなく、「散文」という形式をつかい、まぎれ込んでくる「詩っぽいことば(既成のことば)」を排除すると、ことばはもっと生き生きする。
「正直」が、そのままことばになって動く。
詩集のタイトルになっている「右から二番目のキャベツ」は、簡潔でおもしろい。「正直」が、そのまま出ている。
八百屋の店先に並べてあるキャベツの
右から二番目のを買ってきて
おおきな鍋でまるごと煮ると
それを食べた人はきっと
しあわせになるという言い伝えが
北欧の細長い形の国にはあるとしゃべりながら
自転車に二人乗りして
わたしたちを追い抜いていった
中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ
わたしは今 娘の手をひいて
やわらかい春キャベツを買いに行く
ちょうどその途中なのだよ
ありがとう
ここには服部の「思い」は書かれていない。ふと聞いたことば女子中学生のことばが、服部の「思い」を乗っ取ってしまう。自分のものではなかった「思い」が、自分のものになる瞬間、言い換えると「自分が自分でなくなる瞬間」が詩であって、「どんな自分になったか(どんな気持ちになったか/どんな思想にたどりついたか)」という「結論」を書いてしまうと、それは「意味だけをつたえる散文」になる。
私の「好み」を言えば、最終行の「ありがとう」は「中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ」の直後の方がいい。
感謝が先に動いて、それから「理由づけ」がある。「理由づけ」があって、「ありがとう」がくると、感情の気持ちと微妙にずれる。感情と理性では、感情が先に動く。おさえようとしてもおさえきれずに動くのが感情というもの。
「理由」の説明のあとに「感情(思想)」が動くと、なんだか押し付けっぽい、と私は感じる。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
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