詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井ひさ子『渡邉坂』

2017-10-06 10:47:28 | 詩集
中井ひさ子『渡邉坂』(土曜美術出版販売、2017年09月09日発行)

 中井ひさ子『渡邉坂』の「声」は、とても温かい。悲しい詩でも、あたたかいと感じてしまう。
 「わかる」という作品。

逝きました と
ご家族から

受話器を置いて
思わず
うそやとつぶやいた

ひんやり風が吹いてきて

ぽつり
隠れてしもた と
あんたの声がした

寂しいやんか
隠れたなら
出ておいで

いるとこ教えて
そこはどこ

言いたいけれど言われへん
そんなに悪いとこやない
そのうち来たらわかるやろ

 最後の「わかるやろ」が温かい。
 「わかる」とは何だろうか。どういう動詞だろうか。ここに書かれていることは「頭」で「理解する」というときの「わかる」ではない。それを「理解し」、理解したことを応用して何かをつくりだすというような「わかる」ではない。「技術」「科学」を「理解する」というような意味での「わかる」ではない。
 「わかる」ことを「知る」とか「知っている」と言うこともある。それとも違うなあ。「知っている」「思い出せる」でもない。やっぱり、「つかえない」何かである。「わかった」からといって、どうすることもできないようなことである。死んでしまったら、「わかる」も何もないからなあ。
 「納得する」という言い方もある。「理解する」や「知る」よりは、「納得する」の方が近いかなあ。「意味づけ」がうまくできない。なんとなく、「納得する」。このときの「主語」は何かなあ。
 「頭」ではなく「こころ」ということかもしれない。
 でも、これでは、落ち着かないなあ。疑問が残るなあ。「かもしれない」というような、あいないな形だけれど。
 私は「こころ」とか「精神」ということばが指し示しているものが、実は、よくわからない。「魂」になると、私は自分からは絶対につかわない。
 いまのように、説明するために必要なときしかつかわない。そんなものを見たことがないからだ。
 「こころ」「精神」も見たことはないが、まだ「魂」のように「意味」が強くない分だけ拒否感がない。絶対につかわない、という感じではない。
 で。
 そこまで思いをめぐらしたとき、ふいに、あ、これは

ふに落ちる

 ということか、と思った。
 「ふ」は「臓腑」の「腑」だろうなあ。「肉体の内部」、どことは特定できないが「肉体の内部」。「腹の中」。胃とかか、腸とか、肝臓、膵臓、あれやこれ。もちろんそういうものも、私は直接目で見たり、さわったりしたことはないのだが、なんとなく「肉体の内部」が痛んだり、苦しんだりするのを感じる。だから、「臓腑」というのは絶対に(客観的に)、ある。解剖図や肉体の模型でも見たことがあるし、病気のときにたしかにそういうものがあるのだと、「客観的」に理解できる。病気のとき、私と医者は「臓腑」の存在を「共有する」。
 「ふに落ちる」というのは、何かことばでは「客観化できないもの」が「肉体の内部」に落ちてきて、「肉体の内部」が「落ち着く」ということ。「もやもやしていた感じ」が、その瞬間、すーっと消える。
 「あ、わかった」
 「何が?」
 この質問には答えられないが、「わかった」と「声」に出さないまま、「わかる」。「ことば(声)」を必要としない「わかる」が「ふに落ちる」。
 面倒くさいことを書き続けてしまったが。

 中井の詩を読むと、そこには「わからないことば」(わからない声)がない。どのことば、どの声も「ふに落ちる」ことば、声である。
 別のことばで言いなおしたりしなくてすむ。「説明」がいらない。いや、言いなおしたり、説明しなおしたりする前に、中井のことばにつかみとられてしまう。あまりに自然につかみとられてしまうので、自分がつかみとられていることにさえ気づかない。
 たとえば、

逝きました と
ご家族から

 この書き出し。誰が「逝きました」なのか。それは書かれていない。「ご家族から」とあるから、「ご家族」の誰かが死んだのだ。そして、それは、こういうとき「はっきり」とは言わないものなのだ。「主語」を省略する。「主語」を省略するというのは、その「主語」が共有されているからだけではない。「逝きました」と言うとき、言わなければならないときの「感情」も共有されている。「悲しみ」だけではなく、「尊敬」とか、あれこれの「思い出」とかが、からみあって共有されている。いっしょに生きてきた「時間」が共有されていて、その瞬間、死んでしまっているのに、その人が「生きている」。
 そういうことが、全部、わかる。
 否定することができない。反論することができない。

うそやとつぶやいた

 「事実/ほんとう」であるから「うそ」ということばをぶつけて、自分を瞬間的に引き離すことくらいしかできない。そのまま受け取るしかない。
 あ、「ふに落ちる」は、「そのまま受け取る」なのかも。
 そして、「肉体」が無意識に「ありがとう」ということなのかな?
 このやりとりは「ことば」にはされないけれど、「肉体」が対応している。
 「ふに落ちる」ということを体験したとき、「ありがとう」と体のどこかが言っているよね。大事なものをもらえて、ありがとう、と。

 中井は「わかる」ことばで「わかっていること」だけを書いている。
 「現代詩」という範疇からははずれるのかもしれないけれど、詩が「現代詩」でなければならないわけでもない。
 読んだあとで、知らず知らず、「肉体」が「ありがとう」という声を発してしまう詩というのは、いいなあ、と思う。


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