中井ひさ子『渡邉坂』(土曜美術出版販売、2017年09月09日発行)
中井ひさ子『渡邉坂』の「声」は、とても温かい。悲しい詩でも、あたたかいと感じてしまう。
「わかる」という作品。
最後の「わかるやろ」が温かい。
「わかる」とは何だろうか。どういう動詞だろうか。ここに書かれていることは「頭」で「理解する」というときの「わかる」ではない。それを「理解し」、理解したことを応用して何かをつくりだすというような「わかる」ではない。「技術」「科学」を「理解する」というような意味での「わかる」ではない。
「わかる」ことを「知る」とか「知っている」と言うこともある。それとも違うなあ。「知っている」「思い出せる」でもない。やっぱり、「つかえない」何かである。「わかった」からといって、どうすることもできないようなことである。死んでしまったら、「わかる」も何もないからなあ。
「納得する」という言い方もある。「理解する」や「知る」よりは、「納得する」の方が近いかなあ。「意味づけ」がうまくできない。なんとなく、「納得する」。このときの「主語」は何かなあ。
「頭」ではなく「こころ」ということかもしれない。
でも、これでは、落ち着かないなあ。疑問が残るなあ。「かもしれない」というような、あいないな形だけれど。
私は「こころ」とか「精神」ということばが指し示しているものが、実は、よくわからない。「魂」になると、私は自分からは絶対につかわない。
いまのように、説明するために必要なときしかつかわない。そんなものを見たことがないからだ。
「こころ」「精神」も見たことはないが、まだ「魂」のように「意味」が強くない分だけ拒否感がない。絶対につかわない、という感じではない。
で。
そこまで思いをめぐらしたとき、ふいに、あ、これは
ということか、と思った。
「ふ」は「臓腑」の「腑」だろうなあ。「肉体の内部」、どことは特定できないが「肉体の内部」。「腹の中」。胃とかか、腸とか、肝臓、膵臓、あれやこれ。もちろんそういうものも、私は直接目で見たり、さわったりしたことはないのだが、なんとなく「肉体の内部」が痛んだり、苦しんだりするのを感じる。だから、「臓腑」というのは絶対に(客観的に)、ある。解剖図や肉体の模型でも見たことがあるし、病気のときにたしかにそういうものがあるのだと、「客観的」に理解できる。病気のとき、私と医者は「臓腑」の存在を「共有する」。
「ふに落ちる」というのは、何かことばでは「客観化できないもの」が「肉体の内部」に落ちてきて、「肉体の内部」が「落ち着く」ということ。「もやもやしていた感じ」が、その瞬間、すーっと消える。
「あ、わかった」
「何が?」
この質問には答えられないが、「わかった」と「声」に出さないまま、「わかる」。「ことば(声)」を必要としない「わかる」が「ふに落ちる」。
面倒くさいことを書き続けてしまったが。
中井の詩を読むと、そこには「わからないことば」(わからない声)がない。どのことば、どの声も「ふに落ちる」ことば、声である。
別のことばで言いなおしたりしなくてすむ。「説明」がいらない。いや、言いなおしたり、説明しなおしたりする前に、中井のことばにつかみとられてしまう。あまりに自然につかみとられてしまうので、自分がつかみとられていることにさえ気づかない。
たとえば、
この書き出し。誰が「逝きました」なのか。それは書かれていない。「ご家族から」とあるから、「ご家族」の誰かが死んだのだ。そして、それは、こういうとき「はっきり」とは言わないものなのだ。「主語」を省略する。「主語」を省略するというのは、その「主語」が共有されているからだけではない。「逝きました」と言うとき、言わなければならないときの「感情」も共有されている。「悲しみ」だけではなく、「尊敬」とか、あれこれの「思い出」とかが、からみあって共有されている。いっしょに生きてきた「時間」が共有されていて、その瞬間、死んでしまっているのに、その人が「生きている」。
そういうことが、全部、わかる。
否定することができない。反論することができない。
「事実/ほんとう」であるから「うそ」ということばをぶつけて、自分を瞬間的に引き離すことくらいしかできない。そのまま受け取るしかない。
あ、「ふに落ちる」は、「そのまま受け取る」なのかも。
そして、「肉体」が無意識に「ありがとう」ということなのかな?
このやりとりは「ことば」にはされないけれど、「肉体」が対応している。
「ふに落ちる」ということを体験したとき、「ありがとう」と体のどこかが言っているよね。大事なものをもらえて、ありがとう、と。
中井は「わかる」ことばで「わかっていること」だけを書いている。
「現代詩」という範疇からははずれるのかもしれないけれど、詩が「現代詩」でなければならないわけでもない。
読んだあとで、知らず知らず、「肉体」が「ありがとう」という声を発してしまう詩というのは、いいなあ、と思う。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
中井ひさ子『渡邉坂』の「声」は、とても温かい。悲しい詩でも、あたたかいと感じてしまう。
「わかる」という作品。
逝きました と
ご家族から
受話器を置いて
思わず
うそやとつぶやいた
ひんやり風が吹いてきて
ぽつり
隠れてしもた と
あんたの声がした
寂しいやんか
隠れたなら
出ておいで
いるとこ教えて
そこはどこ
言いたいけれど言われへん
そんなに悪いとこやない
そのうち来たらわかるやろ
最後の「わかるやろ」が温かい。
「わかる」とは何だろうか。どういう動詞だろうか。ここに書かれていることは「頭」で「理解する」というときの「わかる」ではない。それを「理解し」、理解したことを応用して何かをつくりだすというような「わかる」ではない。「技術」「科学」を「理解する」というような意味での「わかる」ではない。
「わかる」ことを「知る」とか「知っている」と言うこともある。それとも違うなあ。「知っている」「思い出せる」でもない。やっぱり、「つかえない」何かである。「わかった」からといって、どうすることもできないようなことである。死んでしまったら、「わかる」も何もないからなあ。
「納得する」という言い方もある。「理解する」や「知る」よりは、「納得する」の方が近いかなあ。「意味づけ」がうまくできない。なんとなく、「納得する」。このときの「主語」は何かなあ。
「頭」ではなく「こころ」ということかもしれない。
でも、これでは、落ち着かないなあ。疑問が残るなあ。「かもしれない」というような、あいないな形だけれど。
私は「こころ」とか「精神」ということばが指し示しているものが、実は、よくわからない。「魂」になると、私は自分からは絶対につかわない。
いまのように、説明するために必要なときしかつかわない。そんなものを見たことがないからだ。
「こころ」「精神」も見たことはないが、まだ「魂」のように「意味」が強くない分だけ拒否感がない。絶対につかわない、という感じではない。
で。
そこまで思いをめぐらしたとき、ふいに、あ、これは
ふに落ちる
ということか、と思った。
「ふ」は「臓腑」の「腑」だろうなあ。「肉体の内部」、どことは特定できないが「肉体の内部」。「腹の中」。胃とかか、腸とか、肝臓、膵臓、あれやこれ。もちろんそういうものも、私は直接目で見たり、さわったりしたことはないのだが、なんとなく「肉体の内部」が痛んだり、苦しんだりするのを感じる。だから、「臓腑」というのは絶対に(客観的に)、ある。解剖図や肉体の模型でも見たことがあるし、病気のときにたしかにそういうものがあるのだと、「客観的」に理解できる。病気のとき、私と医者は「臓腑」の存在を「共有する」。
「ふに落ちる」というのは、何かことばでは「客観化できないもの」が「肉体の内部」に落ちてきて、「肉体の内部」が「落ち着く」ということ。「もやもやしていた感じ」が、その瞬間、すーっと消える。
「あ、わかった」
「何が?」
この質問には答えられないが、「わかった」と「声」に出さないまま、「わかる」。「ことば(声)」を必要としない「わかる」が「ふに落ちる」。
面倒くさいことを書き続けてしまったが。
中井の詩を読むと、そこには「わからないことば」(わからない声)がない。どのことば、どの声も「ふに落ちる」ことば、声である。
別のことばで言いなおしたりしなくてすむ。「説明」がいらない。いや、言いなおしたり、説明しなおしたりする前に、中井のことばにつかみとられてしまう。あまりに自然につかみとられてしまうので、自分がつかみとられていることにさえ気づかない。
たとえば、
逝きました と
ご家族から
この書き出し。誰が「逝きました」なのか。それは書かれていない。「ご家族から」とあるから、「ご家族」の誰かが死んだのだ。そして、それは、こういうとき「はっきり」とは言わないものなのだ。「主語」を省略する。「主語」を省略するというのは、その「主語」が共有されているからだけではない。「逝きました」と言うとき、言わなければならないときの「感情」も共有されている。「悲しみ」だけではなく、「尊敬」とか、あれこれの「思い出」とかが、からみあって共有されている。いっしょに生きてきた「時間」が共有されていて、その瞬間、死んでしまっているのに、その人が「生きている」。
そういうことが、全部、わかる。
否定することができない。反論することができない。
うそやとつぶやいた
「事実/ほんとう」であるから「うそ」ということばをぶつけて、自分を瞬間的に引き離すことくらいしかできない。そのまま受け取るしかない。
あ、「ふに落ちる」は、「そのまま受け取る」なのかも。
そして、「肉体」が無意識に「ありがとう」ということなのかな?
このやりとりは「ことば」にはされないけれど、「肉体」が対応している。
「ふに落ちる」ということを体験したとき、「ありがとう」と体のどこかが言っているよね。大事なものをもらえて、ありがとう、と。
中井は「わかる」ことばで「わかっていること」だけを書いている。
「現代詩」という範疇からははずれるのかもしれないけれど、詩が「現代詩」でなければならないわけでもない。
読んだあとで、知らず知らず、「肉体」が「ありがとう」という声を発してしまう詩というのは、いいなあ、と思う。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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