近藤久也『リバーサイド』(ぶーわー舎、2017年10月10日発行)
近藤久也『リバーサイド』(ぶーわー舎、2017年10月10日発行)は、手に取った瞬間に「おっ」と驚き、ページを開けば「ああ、いいなあ」と声が漏れてしまう。好きだなあ。読んでもいないのに、読んだ気持ちになる。詩が「本の形」になって、そこに生きている。
むかしあった「白い本」(いまもあるとは知らなかった)に、プリントアウトした詩が貼りつけてある。詩をプリントアウトした紙片が貼りつけてある。どっちだろう。わからないが、そのふたつが、同時に迫ってくる。「手作り」の感じ、「手作り」のときの「肉体」の感じがそのまま、そこに「ある」。
そうだよなあ。詩は、ひとつひとつ、自分で「つくる」ことで存在させるものなのだ。「読まれて」存在するのではなく、「つくる」ことで存在させる。
詩を書き始めたころ、たぶん高校生なら、だれもが一度は夢見たかもしれない「詩集」がそこにある。その「気持ち」がある。
若いころは「熱意」はあっても「根気」がないから、こういう詩集はつくれない。「熱意」というものは「せっかち」だからね。でも、歳を重ねると「せっかち」を制御できるようになり、「熱意」も静かにあふれさせることができるのかもしれない。
あ、いま書いたことは「余分」かなあ。書かない方が、この詩集の美しさをつたえることができるかなあ。
うーん、よく、わからない。
というのも、私が惹かれる詩というのは、こういう作品だからだ。
読みながら、私は細田傳造の「妹」を思い出していた。
細田は妹を背負って海辺へゆく。食べ物はもっていなかったが、遠足、ピクニック気分である。そして、そこには淡々としながらも「劇的」なことが書かれていた。死んだ妹の記憶だから、どうしても感情を揺さぶってくる。抑制できない感情、感情は抑制できない、ことばにならないものだという感じが「肉声」として響いてくる。
それに比べると。
これはいったい何?
何も起きないというか、ぜんぜん盛り上がりがない。「妻が唐突に/食材かき集め馳走づくりにとりつかれる」とあるが、「とりつかれる」(熱意を込めて行動する)のは妻だけである。「わたくし」はあっけにとられている。「わたくしたち」が登場するが、それは「わたくしたち」ですらない。「娘のパートナーも/書き忘れた息子や/そのパートナーも来やしない」。つまり、「わたくしたち」は、どこか欠けている。「欠落」を意識している。これでは「熱意」なんて分散していくだけである。
劇的というのは「感情」が一点に集中し、弾け、その瞬間に別の世界にほうりだされることだが、この詩では、こどもの懐中電灯の「お化けごっこ」が最後に描かれるだけで、これでは疲れたような笑いしか起きない。
でもねえ。
これが、妙に、この「手作り詩集」にあっている。
近藤の詩集が「お化けごっこ」のように他愛のないものというのではなく、むしろ逆。「お化けごっこ」の奥にある思い、さっと動いて消えていく不思議な「熱意(?)」を重いものにせずに描いているのがいい。
「手持ち」の感情といえばいいのかなあ。
「手持ち」は、どこかで「手作り」に通じる。
「手作り」というものにはいろいろな「意味」があるが、もっているものを(そこにあるものを)取り集めてという「感じ」を含んでいる。
「食材かき集め馳走づくり」に似ているかなあ。
つかえるものは何でもつかって、「手作り」。ふつうは、そういうものだね。
こういうときの「ふつう」の奥にあるものが、ここには描かれている。「ふつう」をささえる「工夫の力」と書いてしまうと、「意味」になってしまって、「うるさい」批評になってしまうが……。
「探し出して」とか「籤で当てた」とか「書き忘れた」とか、いわば「どうでもいいような」細部、その細部で動いている「動詞」(肉体)がつながっている。「探し出して」の主語は妻、「籤で当てた」の主語は娘の息子、「書き忘れた」の主語はわたくし(近藤)なのだが、主語が違うということを無視して、感情(意識/肉体)が動いて、全体をつかみとってしまう。「わかってしまう」。
「この洒落た宴がひらかれたことをきっと知らない」というときの「知らない」の主語さえもね。
「知らない」の主語をぜんぶひっくるめて、主語とその主語のまわりに起きていることをぜんぶひっくるめて、わたしく(近藤)が「知っている」。それは「知っている」というよりも「わかっている」という感じかなあ。「知らない」こともあるのだけれど、「わかっている」。
「わかっている」は「つながっている」でもあるなあ。
この「つながり」は「だらだら」していて、どうでもいいようにもみえる。わざわざ「つながり」と言わなくてもいい。でも、こういう「つながり」が、暮らしの中ではとても「強い」。
切れない。
この「切れない」強さを、近藤の「手作り詩集」につなげてしまうと、また「誤読」になるのだが。
でも、どこかで「つなげたい」という欲望にとらわれるなあ。
「だらだらしている/強いつながり」というのは、そのままにしておくと、ほんとうに「だらだら/ずるずる」になってしまう。
しかし、それを「手」でていねいにささえるとどうだろうか。
「手」でていねいにととのえるといってもいいかもしれないなあ。
「手を加える」と言いなおせばいいのか。
何かに「手」がはいっていくと、その「手」は、「世界」を「肉体」になじみやすいように微妙に変化させる。「肉体(手)」のなかにある「いのち」が、世界全体を不思議な力で落ち着かせる。その瞬間「世界」が美しくなる。
これではだんだん「詩」の感想から遠くなるような気もするが、いくぶん「詩集」そのものへは近づいた気もする。
「手(肉体)」で、整えられた力、整えられて動く力というものを、この「白い本」に手を加えてつくった詩集から私は感じ、それを美しいなあ、いいなあ、と思ったのだ。
せっかちな若い時代にはつくることのできない、「根気」、あ、いや「年季」か、そういうあまり見向きもしなくなったものの美しさを感じた。「効率」とは違ったしずかなたしかさといっしょにあるものを。
同時に、「手」が感じている「満足」の美しさも。
引用した詩の中に「食い尽くし/飲み尽くし」ということばがあるが、「手を尽くした」美しさがある。もうこれ以上はできない。というのは、「満足」。満足というのはそのひとだけの満足におわらず、周りの人を豊かな気持ちにさせる。
その、不思議な「豊かさ」を近藤の詩集からもらった。
近藤久也『リバーサイド』(ぶーわー舎、2017年10月10日発行)は、手に取った瞬間に「おっ」と驚き、ページを開けば「ああ、いいなあ」と声が漏れてしまう。好きだなあ。読んでもいないのに、読んだ気持ちになる。詩が「本の形」になって、そこに生きている。
むかしあった「白い本」(いまもあるとは知らなかった)に、プリントアウトした詩が貼りつけてある。詩をプリントアウトした紙片が貼りつけてある。どっちだろう。わからないが、そのふたつが、同時に迫ってくる。「手作り」の感じ、「手作り」のときの「肉体」の感じがそのまま、そこに「ある」。
そうだよなあ。詩は、ひとつひとつ、自分で「つくる」ことで存在させるものなのだ。「読まれて」存在するのではなく、「つくる」ことで存在させる。
詩を書き始めたころ、たぶん高校生なら、だれもが一度は夢見たかもしれない「詩集」がそこにある。その「気持ち」がある。
若いころは「熱意」はあっても「根気」がないから、こういう詩集はつくれない。「熱意」というものは「せっかち」だからね。でも、歳を重ねると「せっかち」を制御できるようになり、「熱意」も静かにあふれさせることができるのかもしれない。
あ、いま書いたことは「余分」かなあ。書かない方が、この詩集の美しさをつたえることができるかなあ。
うーん、よく、わからない。
というのも、私が惹かれる詩というのは、こういう作品だからだ。
夏の終わりに
夕刻
妻が唐突に
食材かき集め馳走づくりにとりつかれる
夜の淀川べりで宴だという
どこの産だかわからぬワイン一本
探し出して出かけたのだ
わたくしたち
わたくしたちの娘とその息子
籤で当てたスケートボードにのって
娘のパートナーも
書き忘れた息子や
そのパートナーも来やしない
この洒落た宴がひらかれたことをきっと知らない
闇の向こうに
亡霊のように浮かぶ
梅田のビルディング群
食い尽くし
飲み尽くし
蚊遣りくすべ
川の夜風にのって
娘の息子が
顎の下、懐中電灯押し当てて
オ化ケダゾ
といったのだ
読みながら、私は細田傳造の「妹」を思い出していた。
細田は妹を背負って海辺へゆく。食べ物はもっていなかったが、遠足、ピクニック気分である。そして、そこには淡々としながらも「劇的」なことが書かれていた。死んだ妹の記憶だから、どうしても感情を揺さぶってくる。抑制できない感情、感情は抑制できない、ことばにならないものだという感じが「肉声」として響いてくる。
それに比べると。
これはいったい何?
何も起きないというか、ぜんぜん盛り上がりがない。「妻が唐突に/食材かき集め馳走づくりにとりつかれる」とあるが、「とりつかれる」(熱意を込めて行動する)のは妻だけである。「わたくし」はあっけにとられている。「わたくしたち」が登場するが、それは「わたくしたち」ですらない。「娘のパートナーも/書き忘れた息子や/そのパートナーも来やしない」。つまり、「わたくしたち」は、どこか欠けている。「欠落」を意識している。これでは「熱意」なんて分散していくだけである。
劇的というのは「感情」が一点に集中し、弾け、その瞬間に別の世界にほうりだされることだが、この詩では、こどもの懐中電灯の「お化けごっこ」が最後に描かれるだけで、これでは疲れたような笑いしか起きない。
でもねえ。
これが、妙に、この「手作り詩集」にあっている。
近藤の詩集が「お化けごっこ」のように他愛のないものというのではなく、むしろ逆。「お化けごっこ」の奥にある思い、さっと動いて消えていく不思議な「熱意(?)」を重いものにせずに描いているのがいい。
「手持ち」の感情といえばいいのかなあ。
「手持ち」は、どこかで「手作り」に通じる。
「手作り」というものにはいろいろな「意味」があるが、もっているものを(そこにあるものを)取り集めてという「感じ」を含んでいる。
「食材かき集め馳走づくり」に似ているかなあ。
つかえるものは何でもつかって、「手作り」。ふつうは、そういうものだね。
こういうときの「ふつう」の奥にあるものが、ここには描かれている。「ふつう」をささえる「工夫の力」と書いてしまうと、「意味」になってしまって、「うるさい」批評になってしまうが……。
「探し出して」とか「籤で当てた」とか「書き忘れた」とか、いわば「どうでもいいような」細部、その細部で動いている「動詞」(肉体)がつながっている。「探し出して」の主語は妻、「籤で当てた」の主語は娘の息子、「書き忘れた」の主語はわたくし(近藤)なのだが、主語が違うということを無視して、感情(意識/肉体)が動いて、全体をつかみとってしまう。「わかってしまう」。
「この洒落た宴がひらかれたことをきっと知らない」というときの「知らない」の主語さえもね。
「知らない」の主語をぜんぶひっくるめて、主語とその主語のまわりに起きていることをぜんぶひっくるめて、わたしく(近藤)が「知っている」。それは「知っている」というよりも「わかっている」という感じかなあ。「知らない」こともあるのだけれど、「わかっている」。
「わかっている」は「つながっている」でもあるなあ。
この「つながり」は「だらだら」していて、どうでもいいようにもみえる。わざわざ「つながり」と言わなくてもいい。でも、こういう「つながり」が、暮らしの中ではとても「強い」。
切れない。
この「切れない」強さを、近藤の「手作り詩集」につなげてしまうと、また「誤読」になるのだが。
でも、どこかで「つなげたい」という欲望にとらわれるなあ。
「だらだらしている/強いつながり」というのは、そのままにしておくと、ほんとうに「だらだら/ずるずる」になってしまう。
しかし、それを「手」でていねいにささえるとどうだろうか。
「手」でていねいにととのえるといってもいいかもしれないなあ。
「手を加える」と言いなおせばいいのか。
何かに「手」がはいっていくと、その「手」は、「世界」を「肉体」になじみやすいように微妙に変化させる。「肉体(手)」のなかにある「いのち」が、世界全体を不思議な力で落ち着かせる。その瞬間「世界」が美しくなる。
これではだんだん「詩」の感想から遠くなるような気もするが、いくぶん「詩集」そのものへは近づいた気もする。
「手(肉体)」で、整えられた力、整えられて動く力というものを、この「白い本」に手を加えてつくった詩集から私は感じ、それを美しいなあ、いいなあ、と思ったのだ。
せっかちな若い時代にはつくることのできない、「根気」、あ、いや「年季」か、そういうあまり見向きもしなくなったものの美しさを感じた。「効率」とは違ったしずかなたしかさといっしょにあるものを。
同時に、「手」が感じている「満足」の美しさも。
引用した詩の中に「食い尽くし/飲み尽くし」ということばがあるが、「手を尽くした」美しさがある。もうこれ以上はできない。というのは、「満足」。満足というのはそのひとだけの満足におわらず、周りの人を豊かな気持ちにさせる。
その、不思議な「豊かさ」を近藤の詩集からもらった。
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