詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「くるくるくるみ」、松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」

2017-10-24 12:02:05 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「くるくるくるみ」、松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」(「イリプスⅡnd」23、2017年10月10日発行)

 北川透「くるくるくるみ」をどう読むか。

くるくる草繁み 啼く鳥潜み
くるくるまわる 野の頭蓋骨
ぐるぐる悪巧み 潜水艦潜水
くるくるはずれ 赤蜻蛉墜落
くるくる果てよ 白麻経帷子

 意味はあるか。一行目は、草の繁みに潜んでいる(隠れている)鳥がくるくると啼いているのか。二行目は、野原を頭蓋骨がころころ転がりながらまわっているのか。あるいはあまりの軽さに風にまわっているのか。三行目はどうか。悪巧みを企てている潜水艦が、どこかを潜水したまままわっているのか。四行目はつがっていた赤蜻蛉が、セックスがおわり、いのちが果てて輪がほどけて落ちていくのか。トンボはセックスするとき輪をつくるなあ。五行目は、四行目で死んだ赤蜻蛉に対して、いいんだよ、そのまま「果てなさい」と言っているのか。死んだから帷子を着るのか。
 「潜水艦」を野にある池のなかの鯉か鮒か、あるいは蛙と考えると。セックスの果てに落ちてくる蜻蛉を狙っている姿にも見える。ある日の野原の動物たち(いきものたち)の姿が描かれている、というふうに「意味」にすることもできる。「潜む」と「潜水艦」、「頭蓋骨」と「(白麻)帷子」というのは「意味」をつないでいるとも読むことができる。
 でもね。
 こういうことは、強引な「意味の後付け」であって、ことばの運動とは関係ないね。「意味」とはいつでも捏造できる。「意味」なんて、ことばを読む楽しみとは無関係。読んでいて、あ、なんとなくおもしろい、と感じているとき、「意味」なんか考えていない。
 読んでいるときは、私は、そこに「音がある」ということしか感じていない。「似た音」が「似た音」を引き寄せながら動いている。へええ、どこまで「似た音」があるのかなあ。北川は、どこまでこれをつづけるのかなあ。そういうことを感じている。
 ついでに言うと。
 この、北川の「音」というのは、谷川俊太郎・覚和歌子『対詩 2馬力』のなかで動いている「音」とはぜんぜん違うなあ、とも思う。「自己主張」が強い。「独唱」の「声(音)」であり、鍛え上げられた「地声」だ。
 二連目は、こうだ。

くるくるの影 わが骨まで喰らえ
神も死に悪魔息絶え くるくる生きる
くるくるちゃん 渦巻く波間から舌だしペロリ
潮流は遠くまですたれ ぐるぐる荒れてる濁ってる
くるくる逆さ吊り 背骨の瞋りくるりくるり揺れている

 一連目の「死」(頭蓋骨、帷子)をひきずっているのか、いないのか。まあ、どうでもいい、と書くと北川に叱られるかもしれないが、私は、気にしない。「悪魔」とか「くるくるちゃん」というのは北川の「好み」なんだろうなあ。あ、北川だ、感じる。町で知り合いを見かけたとき、あ、〇〇だ、と思うのに似ている。思ったからといって、どうということはない。なつかしいと思うときもあれば、会いたくないなあ、目が合わないようにしようと思うときもある。
 そういう、どうでもいいことを感じながら。
 やっぱり「音」を感じる。私は音読するわけではないが、目で文字を追いながら、私の喉や舌が動くのを感じる。その「動き」が快感である。オナニーみたい。「荒れてる濁ってる」と「終止形(たぶん、連体形ではなく……)」という動詞の重ね方、「逆さ吊り」「瞋り」(ナニ、り? 読めないでしょ? 引用しようとすると、読めないと引用するとき漢字変換ができない、困ったなあ。実は「いかり」)と「り」を繰り返して、それが「くるくる」にまぎれこんで「くるりくるり」。ああ、ここが、最高に気持ちがいい。オナニーで言うと、射精寸前の昂り。(勝手によがってるんじゃないよ、と言われそうだが。)で、あの読めなかった「瞋り」って、読んでみると「いかり」で、それは「逆さ吊り」の「さかさ」の「か」の音を含んでいて、それが「肉体」のなかの「か」の音を明るくする。これも、快感だなあ。
 このあと詩はさらにつづいて、(途中省略)

胡桃割り胡桃を割って生き急ぎ胡桃色にて胡桃終えたり
手のひらに胡桃くるみて渡す日は秋の紅に焼かれていたり

 「胡桃」まででてきた。あ、「胡桃」は鈴木志郎康だんたっけ。まあ、いい。
 「くる+り」に「み+わ」が割り込んで「胡桃割り」なのか、「くる」と「り」が「み、わ」を「くるみ」(包み)、それが「胡桃割り」なのか。あれっ、「割る」と「くるむ(包む)」が逆だなあ。
 というようなことも思う。
 「手のひら」と「くるむ」という動詞の自然な結びつき、さらに「手のひら」から「手のひら」へ「渡す」という動詞の変化も自然でいいなあ、とも思う。
 とりとめもないことを、とりともめないまま思いながら、北川のことばの「音」に、私の肉体のどこかが反応している。
 そこから「意味」を捏造しようとすれば、また捏造できるかもしれないけれど、それはしない。なぜか。簡単に言うと、面倒くさいからなんだけれどね。「意味」というのは捏造してしまうと、それなりに「意味」になるけれど、捏造するにはあちこちを「既成のことば」でつなぎあわせないといけない。「意味(論理)」は既成のもののむすびつきだからね。それは、「音の快感」に酔っているあいだは、ちょっと、しにくい。
 一連目で「意味」を簡単に捏造できたのは、まだ「音」に驚いているだけで、「酔う」ところまで私が入り込んでいないから。それがだんだん「音」に入り込むと、「音」に「酔う」ことで満足してしまうから「意味」を捏造したくなくなる。
 こういう「変化」が私の「肉体」の内部で起きている。



 松尾真由美「はげしく隙間のない混沌」。その一連目。

             あつい夏の中でかがやく真昼の日差しにつかれすずやかな
夕暮れを待ってみてもいまだあつい文脈が絡まる躰に表現がついてまわるそれは日々の
発酵日々の堆積日々の腐乱をあてどなくかきまぜて調和の取れない肉質の生理だろうか
尻尾がはえない動物だからだろうか不連続な声を聞き耳をそばだて追いすがる見えない
相手がただただ立ちはだかっているミーチャミーチャこうして粗暴になり手当たり次第
に当たり散らすあなたはなんて正直者恋で心が弄ばれて一直線に向かう破滅は崇高だよ

 「絡む」という動詞が出てくるが、ことばが「絡む」なあ。それが松尾の「文体」というよりも「文脈」というものなのだろう。
 でも、これが「隙間のない混沌」なのかどうか。
 むしろ、隙間でできた混沌、偽装された混沌と感じてしまう。
 「意味」に脈絡がありすぎる。「あつい」は「すずやか」ということばと結びつきは「混沌」を装うけれど、「真昼」と「夕暮れ」という「対比」のなかで「時間」を意識させ、「時間の意識」は「日々」へと変化する。「一日」から「複数の日々(歴史)」という具合に。ここには最初から「調和」がある。「不連続」を装っても、それは「不連続」という「連続の一形式」であり、そこには「一直線」の「意味」しか存在しない。「はげしく隙間のない混沌」という「視点」で統一された世界だ。これを「凝縮」ということばで定義しなおせば、たぶん松尾の詩を「評価」になるのだろうけれど。
 「凝縮」よりも、私は「逸脱」と「解放」の方が好きなので、読んでいて、ふーん、という気持ちになってしまう。松尾のことばから、わたしの「肉体」が離れていってしまう。

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