詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

読売新聞が言って、安倍が言わないこと

2017-10-16 10:22:52 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞か言って、安倍が言わないこと
            自民党憲法改正草案を読む/番外126(情報の読み方)

 2017年10月16日の読売新聞(西部版・14版)の社説は「北朝鮮への備えを冷静に語れ/対話で成果生む「圧力」が肝要だ」という見出し。
 安倍支持の姿勢で書かれているのだが、そのなかに非常におもしろい部分(注目すべき部分)がある。

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は7日の党中央委員会総会で、核開発を続けると明言した。「反米対決戦を総決算する」との強硬姿勢も崩していない。

 これはとても重要な要約である。
 金は「反日対決戦を総決算する」とは言っていない。
 安倍は、北朝鮮のミサイルが「日本上空を通過した」と言っている。安倍が「上空」と「領空」をどう認識しているかわからないが、金のことばと連動させて考えれば、北のミサイルは「反米対決戦を総決算する」準備のために(予行演習として)、「日本の上空を通過した」のである。日本を攻撃する準備をするため(予行演習をするため)に、「日本の上空」を飛んだのではない。
 「日本の上空を通過する」のであれば、「日本を攻撃しない」ということである。もちろん日本の上空まで飛んでこないことには日本を攻撃することは出来ないから、上空を通過するミサイルには日本を攻撃する能力はある、といえるが。でも、そういうミサイルなら、もうずいぶん前から開発されている。いま、騒ぎ立てることではない。
 なぜ、安倍が、いま、北朝鮮のミサイルが日本にとって脅威であると言っているのか、その「本心」を探らないといけない。

 もし北朝鮮がアメリカにミサイル攻撃をしかけたなら、アメリカは当然北朝鮮に反撃するだろう。その米軍はどこからやってくるか。アメリカ本土からか、グアムからか。まさか。北朝鮮に近い、韓国、日本の基地にいる米軍が最初に出動する。その後、アメリカ本土からの兵士が増員される。
 このとき北朝鮮は、韓国、日本に駐留する米軍を放置したまま、アメリカ本土攻撃だけを展開するか。そんなことをするはずがない。身近な米軍を攻撃する。つまり韓国、日本の米軍基地を攻撃する。韓国、日本の領土が戦場になる。
 これがほんとうの「脅威」である。
 逆に言えば、北朝鮮がアメリカにミサイル攻撃をしかけ、それにアメリカが反撃しない限り、韓国、日本が戦場になることはない。出発点、途中経過を省いて、「日本が攻撃されたらどうする」という論理展開は、国民の恐怖をあおるだけで、何も解決しない。
 「北朝鮮が日本を攻撃してきたら」を想定する前に、北朝鮮がアメリカを攻撃しないようにするためには、ということろからはじめないといけない。

 「出発点」と「途中経過」を省略してはいけない。こういう省略を「情報操作」と言う。安倍のやっていることが、これにあたる。
 「途中」を省略してはいけない、ということは別の角度からも指摘できる。
 読売新聞の社説は「邦人救出も検討課題に」という小さな見出しをつけたあと、こう書いている。

 朝鮮半島有事が現実味を帯びてくれば、政府は、国民を守るため新たな対応を迫られる。
 自民党は公約で、自衛隊による在留邦人救出の態勢構築や能力向上を挙げた。麻生副総理は、武装難民が日本に流入する危険性にも言及した。政府・与党は、様々なケースを想定し、総合的な対策を検討しておくことが重要だ。

 この文は、安倍(政府・与党)が、韓国や北朝鮮にいる日本人をどうやって救出するかという具体的方法を確立していないということを意味する。まだ「確立されていない」から、それを「検討することが重要」になる。
 戦争法が問題になったとき、安倍はアメリカの艦隊が日本人を救出するというイラストを掲げて説明したが、アメリカ艦隊が救出するのは在留アメリカ人だろう。日本の自衛隊は、在留アメリカ人を救出する作戦の手助け(集団的自衛権)を求められるだけだろう。そこでアメリカの救出作戦を手助けすることを拒めば、その後の日本人救出はアメリカには全体に助けてもらえない。
 自前(自衛隊だけで)在留日本人を救出するには、なんといっても、韓国との関係を良好なものにしておかなければならない。日本はかつて韓国を侵略している。そういう「前歴」がある軍隊が韓国に上陸すれば、それがたとえ日本人救出という目的であっても、けっして歓迎されないだろう。日本人救出のふりをして、韓国を攻撃しかねない。日本人を救出するとき、助けを求めれば韓国人も助けてくれるか、そう問われるだろう。
 ほんとうに日本が攻撃される危険があるなら、まず、韓国・北朝鮮にいる日本人の救出をどうするかという問題を解決しておく必要がある。韓国と日本の関係を良好なものにしておく必要がある。軍備を増強するまえに、その問題を解決しておかなければならない。
 在留日本人を救出するために何が必要か、事前に何をすべきかを考えずに(具体的にしめさずに)、「圧力」をかけるということは、在留日本人を見殺しにするということだろう。
 麻生は、難民の中には武装難民もいる。射殺するしかない、というようなことを言ったが、人を殺すのは戦争の始まりである。(読売新聞の社説は「射殺発言」には触れずに、「危険性に言及した」と、まるで麻生が「正論」を語ったかのように書いているが。)
 安倍も麻生も、どうやって戦争をするかは考えても、どうやって戦争を回避するかを考えない人間である。

 「途中」を省略して「結論」だけ叫ぶのは、「途中」のなかにある「解決方法(可能性)」を見捨てることである。

 読売新聞の論調は、安倍支持の論調である。しかし、その安倍支持を語ることばのなかからだけでも、これだけの問題点を指摘できる。
 ことばはいつでもある論理を前面に出すと同時に、別の論理を背後に隠す。
 隠されている論理を浮かび上がらせながら、書かれている内容を吟味しないといけないと思う。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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衛藤夏子『蜜柑の恋』

2017-10-16 09:00:50 | 詩集
衛藤夏子『蜜柑の恋』(創風社出版、2017年09月19日発行)

 衛藤夏子『蜜柑の恋』は俳句とエッセー。
 最後に「わたしの十句」が載っている。山本純子のときも感じたが、どうも自選十句があまりおもしろくない。

蜜柑むく宇宙旅行の話して

新しいパンプスは赤落葉舞う

 「意味」はわかっても、「音」が響いてこない。句会で句を選ぶとき、その句を声に出して選ぶわけではないと思う。黙読で選ぶのだと思う。黙読だと、どうしても「意味」が前面に出てくる。私も黙読しかしないが、それでも「肉体」のなかで響く何かがあり、「音」を感じることがある。そういう作品が私は好きなのだが。

昼の月ふたりになって知るひとり

秋白しウクライナでも秋白し

 このふたつには「音」を感じたけれど、これは「ふたり/ひとり」「秋白し/秋白し」の繰り返しというよりも、「知る」という短い音の暗さ、「ウクライナ」というカタカナの破調の方が強いからだろうなあと思う。
 特に「昼の月」の「知る」は、とても印象に残る音だ。

 衛藤の句には「ひとり」がたくさん出てくる。

春の空おひとりさまに広すぎる

 この句は巻頭の句。その影響もあるのだろうけれど、これがいちばん印象的だ。
 「おひとりさま」という口語が「広すぎる」という直接的なことばをひきだしているのがいいなあ。「音楽」が自然に動いている。作為がない。
 一句あげるなら、この句だな。

春満月漱石読んでひとり酒

 うーん、漱石か、ひとり酒か、どちらかでいいなあ。あるいは春満月か、漱石かのどちらかでいいかなあ。素材が多すぎる。それが「ひとり」を強調していると言えるかもしれないが、ここに「作為」を感じる。

ビキニ買いメロンを買ってでもひとり

 「でも」がとてもおもしろい。
 「ビキニ買いメロンを買って」という動きの中に隠れている「を」、あらわれてきている「を」は、「音数」の都合なのかもしれないが、リズムとしておもしろい。「音数」のことを言えば「メロンを買って」は「七文字」になるかもしれないけれど、声に出すと「ン」と「っ」はほとんど消えるから、私の耳には「五音」としか意識できない。
 その「短い」破調のあとに「でも」という「意識」を強烈に打ち出す「論理」だ出てきて、これが「音」を重くする。「音」に重力がある。この効果がとてもおもしろい。
 ブラックホールが放出する見えない光のように「ひとり」が遠くからやってくる。「三文字」だけれど、三文字以上に感じる。
 指を折って数える「音」の数とは違った、不思議なリズム(音楽)がある。
 この「でも」の効果と「知る」の音の強さを思うとき、衛藤は「論理的/知的な運動」が生活の基盤になっているのかもしれないなあ、と感じる。
 でも「エッセー」の方は、何か、気が抜けた散文という感じがする。「散文」の「論理」とは違う別の「論理」を生きている。

スニーカー脱ぐ週末よ水すまし

 「靴下を脱ぐ」とは書いていないのだが、裸足の解放感がある。水すましが水面をおさえる足、その周辺でふくらむ水の形(表面張力)のようなものも目に浮かぶ。裸足を感じるから、そう思うのだろうなあ。裸足を水につけるときの、その感触。
 「パンプス脱ぐ」では、こういう感じにならない。「スニーカー」はすでに一種の軽みがあるのだが、それをさらに脱ぐところから始まる解放感と響きあう。
 「週末よ」の「よ」が美しい。

鉛筆を削れば夏の去る匂い

 この句には、△をつけ、×をつけ、また△にもどした。「鉛筆を削る」とあれば、私はどうしても西脇を思い出してしまう。タイフーンを思い出してしまう。「夏の去るに追い」ではなく「秋の匂い来る」。
 衛藤が西脇を意識しているかどうか、知らない。
 この句に「作為」があるのか、どうか、判断に迷う。

マンボウの卵三億春近し

 この「音楽」はとても好きだが、衛藤の独創かどうか、やはり判断に迷う。
 数が出てくる句では、

眠剤の数かぞえてる今朝の秋

 「眠剤」の読み方がわからないのだが、まだ眠い感じの残る時間、ふいに感じる秋の気配との対比でいうと、この「わからない」もなかなかいいなあ、と感じたりする。そのなかで「数かぞえてる」というときの「具体的な肉体」が、とてもおもしろい。「三個」とか「五個」とか、具体的な数が出てくると、逆に抽象的になる。「論理」になる前の「論理」の美しさが「かぞえてる」という動詞のなかにある。

桜餅スケッチしてる医学生

 さっぱりしていていいなあ。明るくて気持ちがいい。
 スケッチしなくても桜餅はそこにある。スケッチしても桜餅はそのまま。スケッチするという動詞のなかに、何かをつかみ取ろうとする動きがある。「かぞえてる」と同じような、「論理になる前の論理」が肉体のなかで動いている感じが楽しい。



*


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