山本純子『山ガール』(創風社出版、2017年08月11日発行)
山本純子『山ガール』は「詩集」ではなく「俳句とエッセー」の本。
カヌー干すカレーは次の日もうまい
というような、楽しい句が多い。
詩も含まれている。詩にはエッセーがついている。「花」はそばの花と、列車を撮影する人、列車に乗っている人を書いている。
そのエッセーの部分。
詩を読んだ人から「あれ、サンダーバードに乗って福井を走っているときに見える場所じゃないかなあ」と声をかけられ、何で分かったの、と驚いた。私は石川県加賀市の出身なので、ふるさとへ帰るときにはきまって京都駅からサンダーバードに乗る。
何でもないことを書いているのだが、ああ、そうなのか、と私はひとりで納得してしまった。
私には山本の「文体」が非常に読みやすい。「声」が自然に耳に入ってくる。不思議になじみがある、と感じてしまう。なぜだろうと思っていたのだが、北陸の「声」なのか。北陸の「呼吸」、「息の仕方」なのか。
本谷有希子「異類婚姻譚」を読んだときも感じた。石川県のいなか(?)を舞台にした「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の作者。その小説は読んだことがないのだが、映画を見た。映画の風景を見て、この山のみどりには見覚えがあると思ったら石川県が舞台だった。「異類婚姻譚」の舞台は石川県とは特定されていないが、ことばのリズム(息継ぎ)が、やはり自然に入ってくる。なじみやすい。なぜだろうと思ったら、本谷有希子は石川県の出身だった。北陸の「声」で書いている、と思った。
私は石川県ではなく、となりの富山県氷見市(能登半島の付け根)の生まれである。だから完全に「ことば」が一致しているわけではないが、似ているところがあるのだろう。無意識につながっている「響き」があるのだと思う。
私にとっては、しかし「北陸」と言っても、福井の人のことば、新潟の人のことばは、なじみやすいわけではない。何か違う。西脇順三郎のことばは大好きだが、やっぱり富山(能登)のことばとは完全に違う。どこが違うのか、説明できないけれど。
説明はできないけれど、この「耳の感覚(音の感覚)」というのは、たぶん、詩を読むとき、詩を好きになったり嫌いになったりするときに、非常に影響していると思う。俳句のように短い作品では、特にそうかもしれない。
カヌー干すカレーは次の日もうまい
この句は林間学校か何かのことを書いているのだろう。カレーをつくって、残る。それを次の日も食べる。カレーは作りたてよりも次の日の方がうまいとよく言われる。それを林間学校を舞台にして書いたものだが、そういう「意味」よりも、たぶん私は「音」に反応していると思う。「カヌー」「カレー」の音の変化。アクセントの動きが、そのまま世界を動かしていく。まあ、「標準語」で読んでも、同じアクセントかもしれないけれどね。
なにもかもまたいで歩く海の家
というのは「カレー」と同じように、あまり「北陸の音」とは関係がないかもしれないが。
たとえば、
浮輪から大山(だいせん)を見る足指も
秋の浜大人になったから座る
夏山の動詞になっていく私
雷雨です二足歩行のわたしたち
草干して豚とわたしと仔豚たち
菜の花はみんなバンザイをしている
こういう句は、どうかなあ。
読みながら、私は△をつけた。とても気に入ったというのではなく、かといって「だめ」というのでもなく、何か気がかりなところがある。不思議に「響いて」くる。その「響き」というのは、どこまでも広がっていくというよりは、不思議に「閉じた」感じがある。(だから△にしてしまう。)「完結している」というのとも違う。「完結している」なら、それは逆に「解放」につながると思うのだが。
ところが、である。
本の最後に「私の十句」というのがある。十句選び、それについて山本が自分で解説(?)を書いている。
この十句が、私にはぜんぜんおもしろくない。
二階どうしボール投げ合っている遅日
花疲れうどんは粉にもどりたい
焼肉に決めたレガッタ通過した
山んばのタラの芽見っけ山ガール
「音」が反応しない。「音」が遠い。
で、あらためて加賀市の位置を確かめたら、石川県の南端、これはもうほとんど福井県である。
そうか、同じ石川県でも、違うのだ。ほんとうに「好き」を選ぶときは、きっちりと違いが出るのだ、などと思ってしまうのだ。
本谷有希子は白山市の出身らしい。白山市は妙な形をしていて、本谷がそのどこで生まれ育ったのかはわからないが、金沢に近いところもある。
私は、富山県氷見市。富山の文化は呉羽山を中心に、呉西・呉東にわかれる。呉西は加賀文化の「におい」がある。呉東は東京文化の「におい」がまじる。まあ、これは私の印象だから、人によっては違うだろうけれど。石川の文化も金沢の影響が及ぶ範囲と福井の影響を受ける地域の違いがあるのかもしれない。
きょう書いたことは、詩(文学)と関係があるのか、ないのか。あるとすれば、どういう意味をもっているのか、さっぱりわからないが、気になった。
先日読んだ新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』は、私の育った場所とは完全に違っている。そこから響いてくる「音」を私は、東北の人が聞いている「音」とは違うものとして感じているだろうと思う。でも、私のなじんでいる「音」とはあまりに違うので、「意識的」に向き合える。
どこかで聞いたことのあ「音」の場合、「無意識/意識」が交錯して、説明のつかないことが起きているだろうなあと思う。
いまは放送が発達しているので、「音」の差異は小さくなっているかもしれない。私の育った世代(たぶん山本も似た年代だろう)は、まだ「土地の音」が優勢なときだった。「肉体」にしみついた「音」というのは、とても「根強い」。
そんなことを、あれこれと、とりとめもなく考えた。
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