詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「北朝鮮殲滅」横断幕の問題(安倍の責任)

2017-10-22 14:20:27 | 自民党憲法改正草案を読む
「北朝鮮殲滅」横断幕の問題(安倍の責任)
            自民党憲法改正草案を読む/番外131(情報の読み方)

 2017年10月21日の安倍の街頭演説。その会場に「北朝鮮殲滅」という横断幕があらわれた。そして、その会場を警官が警護していた。この問題を見逃してはならない。
 
 「殲滅」とは「皆殺し」という意味である。赤ん坊からお年寄りまで、全員を殺してしまう。戦場で武器を持っている敵の兵士と戦い、その結果殺すというのとは違う。

 なぜ、「北朝鮮殲滅」というスローガンが、いま、掲げられているのか。
 北朝鮮がミサイルを開発しているからか。核を開発しているからか。それが日本にとって脅威だからか。
 北朝鮮が気に入らないからか。

 この北朝鮮へ向けられた「攻撃性」は、即座におなじ日本人に対しても向けられるだろう。
 安倍批判をするのは許せない。「殲滅しろ」ということになるだろう。

 私は安倍批判を書いている。こういうことを書く人間は許せない。「殲滅しろ」。そういうことばにすぐかわる。そして実行されるだろう。
 気に食わない人間を「殲滅する」。自分の気に入っている人間だけを守る。
 「共謀罪」の適用がどんどん拡大するだろう。
 「密告」も増えるだろう。
 「独裁」が確実に日本を支配するということだ。

 きょうは衆院選の投票日であり、開票日である。
 テレビで速報があるだろう。どういう結果であれ、そこに安倍が出てきて、何か言う。そのとき、どのテレビ局が、あるいはどの報道機関が、「北朝鮮殲滅」横断幕のことを取り上げて、安倍を問いただすか注目したい。
 日本の首都、東京で、警官が警備している会場で、安倍の目の前で、安倍を支援する人間が「北朝鮮殲滅」という横断幕を掲げたのである。
 憲法を改正する(自衛隊を憲法に書き加える)という「次元」を通り越している。自衛隊員を「北朝鮮殲滅」に動員するということだ。人殺しをするということだ。「防衛」ではない。
 こういう主張を呼び寄せた安倍、それを守っている警官。

 このことに、恐怖を感じないとしたら、それこそ「平和ぼけ」というものだろう。
 すでに安倍は、批判する市民に対し「こんなひとたちに負けるわけにはいかない」と言っている。次は「こんな人たちを殺さないわけにはいかない」と言うだろう。
 意見を言う人間に対して、「殺す」と脅す。
 これは民主主義の否定である。独裁である。

 選挙後の国会で、どの党がこの問題を取り上げるか、それに注目したい。
 安倍が、いつ、どこで北朝鮮に対して謝罪するか、そのことに注目したい。


#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位 #北朝鮮殲滅
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(4)

2017-10-22 10:39:34 | 詩集
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(4)(ナナロク社、2017年10月15日発行)

 「対詩」というのは、どうはじめるのか。146ページから、「作者による解説」というのが書いてある。「封印を解くように」という「対詩」に対する解説。谷川の詩から始まる。

エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ
海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた

誰から始めるかは普通じゃんけんで決める。詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って、「彼」という人物を登場させたが、小説と違ってこの「彼」を、物語の主人公にするということは考えていない。

 そうか、じゃんけんか。しかし、じゃんけんで先か後かが決まったとして、それから詩を考え始めるのだろうか。谷川は「詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って」と書いている。先であることが決まってから、そう思ったのか。そうではなく、「対詩」をやる過程で、そうしたいと思うようになった。その意識を反映させた、ということだろう。
 まだるっこしいことを書いてしまったが、「解説」を読む前に私が感じたのは、あ、この詩は瞬間的にこの場でできたのではなく、用意してきたものではないのか、ということだった。「金銭」をどこかで書きたい。そう思って「金銭」が出てくる詩を谷川は準備して、「対詩」の場にやってきたということだろう。
 この詩には谷川の「対」の感覚、谷川の詩のひとつの特徴があらわれている。ひとりで「対」を演じている。

エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ

 まず、「エリオット」が出てくる。「貨幣」ということばも出てくる。二行目は銀行員であるエリオットのことばである、と読むのが普通である。三行目以下を読むまでは。
 朗読で聞くときは三行目以下はまだ存在しないから、二行目はエリオットの「ことば(思い)」としか理解できない。
 しかし、これに対して、

海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた

 こうつづけると、どうなるか。「彼」をエリオットと理解することもできる。「散文(小説)」ならば、普通はそう考えるかもしれない。エリオットはたしか眼鏡をかけていたし、アメリカからイギリスへ海を越えて移り住んだ詩人でもある。「海岸」(海)が挿入されているのも、エリオットを連想させるかもしれない。
 しかし、谷川は「彼」をエリオットとは考えていない。別のひとと考えている。エリオットと貨幣(金銭)について考えている男。
 エリオットと彼が「対」になっている。
 「対感覚」が谷川の特徴(ことばの癖)だから、それがついつい出た、と言えるかもしれないが、「対感覚」のあることばを用意することで、「対詩」の動きを誘い出そうとしている。そういう「もくろみ」が準備された詩である、と私は感じた。即興ではなく、あらかじめ推敲し、完成させた詩だと思った。
 「駒沢通りDenny’sⅠ」の始まりの谷川の詩も、「用意してきた詩」だろう。ここにも「対感覚」があふれている。

ランチタイムのざわめきの中に
もつれている意味と無意味
はるか遠くにたたずむ山々に向かって
幼児がむずかっている

 「意味と無意味」という「対」に対して、「幼児」が「対」になっている。「意味と無意味」というようなことを「幼児」は考えない。つまり、そこに「切断」がある。「切断」が「対」の絶対的条件である。その「切断」をうながすものに「山々」がある。(ついでに書いておけば「エリオット」では「海(岸)」が「切断」をうながしている。)「意味と無意味」が「意識」であるのに対して「山々」は「自然」。そして「山々」が自然なら「幼児」も「自然」だろう。「幼児」と谷川は書いているが「あかんぼう」のことだろう。明確な「意味と無意味」を言うことができず、そういうものが「肉体」のなかで区別されずに動いている「あかんぼう」。「意味と無意味」が「未生」の状態を指している。
 ここでは「意味と無意味」たに対して「未生の意味と無意味」が「対」になっている。こんなにすっきり(?)とした「対」なのは、この詩が瞬間的につくられたからではなく、始まる前に「用意された」詩だからだろう。
 こういう「対感覚」の強い詩が、長い「対詩」の展開のなかでも出てくる。

デッドエンドなんて嘘だと思った小学3年のころ
地獄だって天国だってあるじゃないか
時間も空間もエンドレス
子どもの宇宙は大人の宇宙よりもはるかに巨大だった

 「デッドエンド」と「エンドレス」という「対」。「小学3年」の思いと「大人」の思い。最終行の感想は「小学3年」のときには思えない。「大人」になってはじめて抱ける思いである。

天文学の本の隣に家計簿が立っている
シングルマザーで生きるのを選んで3年になる
明日の予定はスマホに入っているが
未来の予定は空白のまま

 「天文学(遠い巨大な世界)」と「家計簿(身近な世界)」という「対」が「明日の予定(身近)」「未来の予定(遠い)」と「対」になっている。
 シングルマザー(女性)が出てくるが、これはいつもの谷川の自己を他者に託す方法である。谷川は身近な存在ではなく、遠い存在、女性とか、子どもに自己を託すのが得意である。離れているから「対」になりやすい。「対感覚」を動かしやすいのだろう。
 そんなことを思いながら読んでいくと、133ページで、突然違った感じ、とても不思議な「眩暈」のようなものに襲われる。
 「対詩」は、こう展開する。

おしまいにはたったひとつの光に
からだごとめりこませて
左胸にひとつずつ
わたしたち太陽を波打たせて

百年の孤独といちじくリキュールのカクテルは
ポエタと名づけよう
太陽のピザ 月の丼 星屑のパスタ
新しいライブハウスは生誕の興奮に沸いている

 後の方の詩には「対」がある。「カクテル(飲み物)」と「ピザ、丼、パスタ(食べ物)」、「百年(時間)」き「太陽、月、星(宇宙/空間)」、「孤独(ひとり)」と「ライブハウス(複数)」。
 これも「手が込んでいる」から「用意されてきた詩」っぽい。でも、谷川の詩かなあ。谷川の詩とは違った響きがあるなあ、と思った。
 そうしたら。
 「解説」を読んでわかったことなのだが、長い「対詩」は一気につくられたものではなく、複数の回にわけて書かれている。途中で「中継(休憩)」がある。「一日」ではなく、複数の日にちにわかれていることもあるのかも。つまり「中断(休憩)」あいだに、ひとりで詩を考える時間もあるということになる。
 だから、「再開」するとき、ふいに「用意されてきた詩」があらわれることになる。その「用意されてきた詩」というのは、全体の中ではすこし「リズム」が違う。
 まったく新しいシリーズでは、「発句」のようなものなので、その「新しさ」は気にならないが、途中だと、なんとなく「あれっ」と思う。
 そして、いま引いた例では、「おしまいは」は覚の作品(一回のつながりの終わり)であり、「百年の孤独」もまた覚の作品なのである。そのために、「飛躍」というか「切断」の感覚が、いつもとはなんとなく違う。「対」の感じもなんとなく違う。
 本で読むと、谷川と覚の詩は活字が「青」と「黒」に色分けされているし、末尾に「俊」「覚」という文字がそえられているのだが、私は目が悪くて、この色の違いは「印刷の濃淡」くらいにしか感じられないし、「俊」「覚」という区別もいちいち意識するのがめんどうくさくて読みとばす。だから、よけいにつまずくのだと思う。
 直前に「中断(休憩)」があったのかなかったのか、「解説」ではわからなかったが、次の詩も印象に残った。

隣家の松の木に落雷したとき
恐怖だけではないココロとカラダも昂(たかぶ)りがあった
音楽のフォルテッシモではない
ピアニッシモでもない自然の音の限りないひろがり

 「落雷」という自然現象と「音楽」という芸術の「対」が、「音楽」のなかで「フォルテッシモ」「ピアニッシモ」という「対」を呼び寄せ、その「対(ふたつのもの)」のあいだに「無限」を生み出す。それは「ココロ」と「カラダ」という「未分節の対」のなかに「昂り」を生み出す。
 谷川の詩には「意味」の「対」があり、その「対」をあらわすことばが、ことば同士で響きあう音楽(和音)になる魅力がある。



 谷川の詩(ことば)と覚の詩(ことば)には似たものがある。共通の「音楽」があると感じるけれど、そのひとつひとつを交互に読んで、そのとき感じたことを書こうとすると、なぜか谷川の詩についての感想が多くなった。
 あ、私は覚の詩よりも谷川の詩が好きなんだなあ、とあらためて思った。
 ふたりは似ているけれど、違う、ということを実感できた。

 この詩集は、ふたりが聴衆の前でライブで詩をつくり、読むという形で生まれている。私はそれを本で読んで感想を書いた。
 実際にライブで朗読を聞いたならば、また違った感想になるかもしれない。
 本で読むと(特に目の悪い私には)、ふたりのことばをいちいち区別して読むのがめんどうで、ふたりを意識せず、ただそこにある「ことば(活字)」として向き合ってしまう。活字によって展開される「ひとつづきのことばの運動」(一篇の詩)として読んでしまう。
 このとき、私は何かを読み落としていると思う。そのことを、書き添えておきたい。
 というのも……。
 この感想を書き始めたとき、谷川俊太郎とねじめ正一の「詩のボクシング」について書いた。「テレビ」と「ラジオ」の作品について書いた。あの「対戦」をテレビで見たとき、私は谷川俊太郎が「ずるい」と思った。これは、ねじめに会ったとき、そういった。こんなふうに。
 「あんなふうに意味にしてしまうと、意味の方が絶対に勝つ。ひとは意味にならないものよりも意味の方を理解しやすい。あれでは現代詩のボクシングにならない。あの勝負、おかしくないですか。ずーっとねじめが勝っていたのに、最後に意味のまとまりをことばにできずにねじめが負け、意味を語った谷川が勝つというのは、現代詩にとってとても変なことじゃないですか。あんな勝ち逃げはずるくないですか?」
 本(活字)ではなく、ライブで「声(消えていくもの)」と向き合っていれば、違った感想になるかもしれない。覚の詩の方がおもしろい。新しい、と感じるかもしれない。ライブでは好きな時間に、好きなリズムでことばに接するということができないので、そのときの私の体調なども影響するだろう。直前に何を食べたかまで、きっと影響する。
 そんなことも思うのだった。

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ナナロク社

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