尾花仙朔「黄泉の蛍」、谷川俊太郎「その午後」(「午前」12、2017年10月15日発行)
尾花仙朔「黄泉の蛍」を読みながら、私はふっと息をとめる。いや、息をつく、かな。呼吸が一瞬かわるのを感じる。
一行目の音楽がとてもやわらかい。「よみ」と「みお」。「み」のなかの「い」の音が「お」と結びつき「よ」になる。「みお(水脈)」と読みながら、「みよ」という音を聞く。その瞬間「よみ」と「みよ」が交錯する。「鏡」に映った世界のように。「この世」と「あの世」が往き来するみたいだ。
そのあとの、
この言い直し、繰り返しが、また不思議に響いてくる。「意味」ではなく「音楽」が世界を動かしている。
揺らぎの中で、揺れることで、何かを感じる。
特に新しい「音楽」ではない、かもしれない。古くさい音楽かもしれない。そうであっても、音楽がもっている力のようなものに揺さぶられてしまう。
こう、言い換えながら、「いとしいひとのよみのたよりをつたえておくれ」という気持ちを確かめているのかもしれない。
「音楽」は、まだことばにならない「気持ち」を確かめるためにあるのかもしれない。
*
谷川俊太郎「その午後」の書いている「音楽」について語るのは、とてもむずかしい。その書き出し。
「私」と「自分ではない私」というとき、「夢想する私」はどっちだろう。「私」が「自分ではない私」を夢想する。けれど、ものごとは単純ではない。「夢想された私」がいるから、「夢想されたのではない私」がいる、ということもできる。
相対化も、固定化もできない。
同じように「木々を渡る風」という「比喩」は、すぐに「河のように流れやまない」と言いなおされる。「わたる」「流れる」、しかもそれは「やまない」。とまらない。つまり、固定化できない。
この変化というものが、谷川の「音楽」であるなら、「私」と「自分ではない私」のどちらが「夢想する私」であり、また「夢想された私」のなか、決めないでおくのがいいだろう。
「わたる」「ながれる」、それが「やまない」は、このあと「動き続ける」という動詞にかわるのだが。
とても、奇妙だ。
「自分ではない私」は「木々を渡る風」「河のように流れやまない(水)」という「比喩」を「動き続け」て、コップに注がれる。
このとき、「私」が「コップに注がれた水(自分ではない私)」をもって、遠くの丘を眺めているのか。あるいは、「自分ではない私」が見知らぬことろにいて、「水となってコップに注がれた私」を持ったまま、遠くの丘を眺めているのか。
最初に考えた「疑問」のようなものに、もう一度、私は揺さぶられる。
このとき、「眺めている私」が、どうして「私」、あるいは「自分ではない私」であると言えるだろうか。言えないような気がしてくる。
もうひとり、そんな「眺めている私」を想像している「私」が、さらに新しく生まれてきているではないか。
何も言えない(断定できない)まま、世界がある。
ふっと、尾花の、
を思い出すのである。
言い換えることができる。それは単に言い換えなのか。なぜ、ひとは「言い換える」のか。
もしかすると、「言い換える」ということだけが「存在している」のではないのか。「もの」は存在せず、「言い換える」ということばの運動の中で、ものが「存在する」のではないのか。
そしてその「言い換え」には、もしかすると、不思議な「規則」があるかもしれない。「音楽」という規則が。その「規則」から、私たちは逃れられないのかもしれない。
谷川の詩は、このあと、こうつづいている。
「旋律」「和声」という「音楽」のことばが出てくるが、それは「過去」と「未来」を自在につないでいる。どちらが「過去」であり、どちらが「未来」のか、わからない。たぶん、「音楽」が生まれるとき、どちらかが「過去」になり、他方が「未来」になる。けれど、それをどう呼んでもかまわないような気がする。
「私」と「自分ではない私」、そのどちらが「夢想する私」であり、どちらが「夢想される私」のなか、そういうことを区別する必要がないように。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
尾花仙朔「黄泉の蛍」を読みながら、私はふっと息をとめる。いや、息をつく、かな。呼吸が一瞬かわるのを感じる。
よみの水脈(みお)ひく此のうつしよの地の泉
渾々と清水湧く池のそのほとり
無数の蛍がとんでいる
ほたる なつむし くさのむし
よみの使いの蛍むし
隠り世のひとの面影偲ぶ夜は
いとしいひとのよみのたよりをつたえておくれ
ほたる なつむし
草葉の蔭にかようむし
一行目の音楽がとてもやわらかい。「よみ」と「みお」。「み」のなかの「い」の音が「お」と結びつき「よ」になる。「みお(水脈)」と読みながら、「みよ」という音を聞く。その瞬間「よみ」と「みよ」が交錯する。「鏡」に映った世界のように。「この世」と「あの世」が往き来するみたいだ。
そのあとの、
ほたる なつむし くさのむし
この言い直し、繰り返しが、また不思議に響いてくる。「意味」ではなく「音楽」が世界を動かしている。
揺らぎの中で、揺れることで、何かを感じる。
特に新しい「音楽」ではない、かもしれない。古くさい音楽かもしれない。そうであっても、音楽がもっている力のようなものに揺さぶられてしまう。
ほたる なつむし くさのむし
よみの使いの蛍むし
ほたる なつむし
草葉の蔭にかようむし
こう、言い換えながら、「いとしいひとのよみのたよりをつたえておくれ」という気持ちを確かめているのかもしれない。
「音楽」は、まだことばにならない「気持ち」を確かめるためにあるのかもしれない。
*
谷川俊太郎「その午後」の書いている「音楽」について語るのは、とてもむずかしい。その書き出し。
その午後、私は自分ではない私になりたいと夢想していた。私で
あることからは逃れられないとしても、木々を渡る風みたいな、或
いは河のように流れやまない私が、今の自分の中で動き続けていて、
何かのきっかけで、ふっと見知らぬ寂れた建物の中で蛇口からコッ
プに水を注ぎ、それをテラスに持ち出して立ったまま遠くの丘を眺
めている。
「私」と「自分ではない私」というとき、「夢想する私」はどっちだろう。「私」が「自分ではない私」を夢想する。けれど、ものごとは単純ではない。「夢想された私」がいるから、「夢想されたのではない私」がいる、ということもできる。
相対化も、固定化もできない。
同じように「木々を渡る風」という「比喩」は、すぐに「河のように流れやまない」と言いなおされる。「わたる」「流れる」、しかもそれは「やまない」。とまらない。つまり、固定化できない。
この変化というものが、谷川の「音楽」であるなら、「私」と「自分ではない私」のどちらが「夢想する私」であり、また「夢想された私」のなか、決めないでおくのがいいだろう。
「わたる」「ながれる」、それが「やまない」は、このあと「動き続ける」という動詞にかわるのだが。
とても、奇妙だ。
「自分ではない私」は「木々を渡る風」「河のように流れやまない(水)」という「比喩」を「動き続け」て、コップに注がれる。
このとき、「私」が「コップに注がれた水(自分ではない私)」をもって、遠くの丘を眺めているのか。あるいは、「自分ではない私」が見知らぬことろにいて、「水となってコップに注がれた私」を持ったまま、遠くの丘を眺めているのか。
最初に考えた「疑問」のようなものに、もう一度、私は揺さぶられる。
このとき、「眺めている私」が、どうして「私」、あるいは「自分ではない私」であると言えるだろうか。言えないような気がしてくる。
もうひとり、そんな「眺めている私」を想像している「私」が、さらに新しく生まれてきているではないか。
何も言えない(断定できない)まま、世界がある。
ふっと、尾花の、
ほたる なつむし くさのむし
を思い出すのである。
言い換えることができる。それは単に言い換えなのか。なぜ、ひとは「言い換える」のか。
もしかすると、「言い換える」ということだけが「存在している」のではないのか。「もの」は存在せず、「言い換える」ということばの運動の中で、ものが「存在する」のではないのか。
そしてその「言い換え」には、もしかすると、不思議な「規則」があるかもしれない。「音楽」という規則が。その「規則」から、私たちは逃れられないのかもしれない。
谷川の詩は、このあと、こうつづいている。
もう縺れたもの底無しのものには捕まりたくない、短い
旋律と、ありふれた和声で出来ている小さな曲が鳴っている。そん
な私は過去にいたような気がするし、未来にだっているかもしれな
い。
「旋律」「和声」という「音楽」のことばが出てくるが、それは「過去」と「未来」を自在につないでいる。どちらが「過去」であり、どちらが「未来」のか、わからない。たぶん、「音楽」が生まれるとき、どちらかが「過去」になり、他方が「未来」になる。けれど、それをどう呼んでもかまわないような気がする。
「私」と「自分ではない私」、そのどちらが「夢想する私」であり、どちらが「夢想される私」のなか、そういうことを区別する必要がないように。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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