詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

尾花仙朔「黄泉の蛍」、谷川俊太郎「その午後」

2017-10-14 17:44:26 | 詩(雑誌・同人誌)
尾花仙朔「黄泉の蛍」、谷川俊太郎「その午後」(「午前」12、2017年10月15日発行)

 尾花仙朔「黄泉の蛍」を読みながら、私はふっと息をとめる。いや、息をつく、かな。呼吸が一瞬かわるのを感じる。

よみの水脈(みお)ひく此のうつしよの地の泉
渾々と清水湧く池のそのほとり
無数の蛍がとんでいる
ほたる なつむし くさのむし
よみの使いの蛍むし
隠り世のひとの面影偲ぶ夜は
いとしいひとのよみのたよりをつたえておくれ
ほたる なつむし
草葉の蔭にかようむし

 一行目の音楽がとてもやわらかい。「よみ」と「みお」。「み」のなかの「い」の音が「お」と結びつき「よ」になる。「みお(水脈)」と読みながら、「みよ」という音を聞く。その瞬間「よみ」と「みよ」が交錯する。「鏡」に映った世界のように。「この世」と「あの世」が往き来するみたいだ。
 そのあとの、

ほたる なつむし くさのむし

 この言い直し、繰り返しが、また不思議に響いてくる。「意味」ではなく「音楽」が世界を動かしている。
 揺らぎの中で、揺れることで、何かを感じる。
 特に新しい「音楽」ではない、かもしれない。古くさい音楽かもしれない。そうであっても、音楽がもっている力のようなものに揺さぶられてしまう。

ほたる なつむし くさのむし
よみの使いの蛍むし

ほたる なつむし
草葉の蔭にかようむし

 こう、言い換えながら、「いとしいひとのよみのたよりをつたえておくれ」という気持ちを確かめているのかもしれない。
 「音楽」は、まだことばにならない「気持ち」を確かめるためにあるのかもしれない。


 谷川俊太郎「その午後」の書いている「音楽」について語るのは、とてもむずかしい。その書き出し。

 その午後、私は自分ではない私になりたいと夢想していた。私で
あることからは逃れられないとしても、木々を渡る風みたいな、或
いは河のように流れやまない私が、今の自分の中で動き続けていて、
何かのきっかけで、ふっと見知らぬ寂れた建物の中で蛇口からコッ
プに水を注ぎ、それをテラスに持ち出して立ったまま遠くの丘を眺
めている。

 「私」と「自分ではない私」というとき、「夢想する私」はどっちだろう。「私」が「自分ではない私」を夢想する。けれど、ものごとは単純ではない。「夢想された私」がいるから、「夢想されたのではない私」がいる、ということもできる。
 相対化も、固定化もできない。
 同じように「木々を渡る風」という「比喩」は、すぐに「河のように流れやまない」と言いなおされる。「わたる」「流れる」、しかもそれは「やまない」。とまらない。つまり、固定化できない。
 この変化というものが、谷川の「音楽」であるなら、「私」と「自分ではない私」のどちらが「夢想する私」であり、また「夢想された私」のなか、決めないでおくのがいいだろう。
 「わたる」「ながれる」、それが「やまない」は、このあと「動き続ける」という動詞にかわるのだが。
 とても、奇妙だ。
 「自分ではない私」は「木々を渡る風」「河のように流れやまない(水)」という「比喩」を「動き続け」て、コップに注がれる。
 このとき、「私」が「コップに注がれた水(自分ではない私)」をもって、遠くの丘を眺めているのか。あるいは、「自分ではない私」が見知らぬことろにいて、「水となってコップに注がれた私」を持ったまま、遠くの丘を眺めているのか。
 最初に考えた「疑問」のようなものに、もう一度、私は揺さぶられる。
 このとき、「眺めている私」が、どうして「私」、あるいは「自分ではない私」であると言えるだろうか。言えないような気がしてくる。
 もうひとり、そんな「眺めている私」を想像している「私」が、さらに新しく生まれてきているではないか。
 何も言えない(断定できない)まま、世界がある。
 ふっと、尾花の、

ほたる なつむし くさのむし

 を思い出すのである。
 言い換えることができる。それは単に言い換えなのか。なぜ、ひとは「言い換える」のか。
 もしかすると、「言い換える」ということだけが「存在している」のではないのか。「もの」は存在せず、「言い換える」ということばの運動の中で、ものが「存在する」のではないのか。
 そしてその「言い換え」には、もしかすると、不思議な「規則」があるかもしれない。「音楽」という規則が。その「規則」から、私たちは逃れられないのかもしれない。
 谷川の詩は、このあと、こうつづいている。

     もう縺れたもの底無しのものには捕まりたくない、短い
旋律と、ありふれた和声で出来ている小さな曲が鳴っている。そん
な私は過去にいたような気がするし、未来にだっているかもしれな
い。

 「旋律」「和声」という「音楽」のことばが出てくるが、それは「過去」と「未来」を自在につないでいる。どちらが「過去」であり、どちらが「未来」のか、わからない。たぶん、「音楽」が生まれるとき、どちらかが「過去」になり、他方が「未来」になる。けれど、それをどう呼んでもかまわないような気がする。
 「私」と「自分ではない私」、そのどちらが「夢想する私」であり、どちらが「夢想される私」のなか、そういうことを区別する必要がないように。



*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
詩を読む詩をつかむ
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍の「沈黙作戦」(その3)

2017-10-14 09:26:33 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「沈黙作戦」(その3)
            自民党憲法改正草案を読む/番外124(情報の読み方)

選挙戦にとって何がいちばん重要か。
「情報の内容(公約)」も大事だが、もっと大事なのが「情報量」である。
どれだけ、「情報」を共有するか。

この「情報量」についていうと、昨年の参院選から、それまでとは完全に違ったことが起きている。
選挙報道は、昨年夏の参院選から極端に減った。
マスコミが報道しなくなった。
(私は、7 月3 日に、このことの気づき、ぞっとした。)

NHKは7 月9 日のニュースの終わりに、「あすは7 月10日、参院選の投票日です」というかわりに「あすは7 月10日、ナナとトウで納豆の日」と言った。
選挙を報道しない。
そうすると、どうなるか。
国民が、誰に(どこに)投票していいか、情報を与えられない。
ニュースになることの多い「巨大政党」が有利になる。
安倍がどんなに批判されようが、国民の多くは安倍以外に政治家がいないと思い込まされる。

それまでの選挙戦というのは、いかに「名前」を売り込むか。メディアに多く露出するか、という戦術だった。
けれど、昨年の参院選からは、逆になった。
いかにメディアに登場しないか。登場させないか。
選挙報道は「公平」を基本としている。
どの政党(候補者)にも同じ時間(同じスペース)を原則としている。
逆に言うと、安倍がメディアに登場しない限り、他の党の党首はメディアに登場できない。
主張を訴えることができない。
「争点」を戦わすことができない。

参院選公示後の「党首討論会」は一回だけだった。
今回も、たぶん一回だけだろう。
安倍が巧みにマスコミの「情報量」を操作している。

私はこれを「沈黙作戦」と呼んでいる。
そして、この「沈黙作戦」は、参院選後、天皇を「沈黙させる作戦」(生前退位させる作戦)へと引き継がれ、天皇に戦跡を慰霊させない作戦(真珠湾慰霊は安倍がすることで、天皇の姿を封印した)と進み、これが成功したために、その後の「森友学園・加計学園」も「沈黙」で押し切った。
何も言わない。
黙って、ただ安倍の姿だけを前面にだし、「実行する」。

(天皇が「護憲発言」をすることは、もう完全に封じられた。)

この、安倍(あるいは電通が指示か?)「沈黙作戦」に対抗するには、ひとりひとりが、しつこいくらい発言し続けるしかない。
マスコミが「沈黙作戦」に加担している以上、ひとりひとりが、たとえばこういうネットでの発言をつづけるということ以外に方法がない。

その方法を真剣に考えないといけない。
民主主義が「沈黙作戦」によって封じられようとしているのがいまの状態だと思う。

飛び交っているのは、罵詈雑言だけてあり、「議論」が展開しない。
言論の「内戦状態」から、どうやって自分のことばを鍛えていくか、このことが問われていると思う。



安倍が、街頭演説中にやじをとばされたことについて、「法律を守れ」と市民を批判している。

http://www.asahi.com/articles/DA3S13177472.html

「法律を守れ」というのなら、
まず「憲法を守れ」だろう。

第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

この条文を、安倍は守っていない。

解散については、

第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

安倍は、「不信任案」がかけつされたわけでもないのに、かってに衆議院を解散している。
これも憲法違反。
不信任を可決されたときは、国民の審判をあおぐために国会を解散できる権利があるというのが69条の規定である。
それ以外は、権力の乱用だ。




#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする