詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の暴言(要点を整理してみました)

2017-10-15 10:06:19 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の暴言(要点を整理してみました)
            自民党憲法改正草案を読む/番外125(情報の読み方)

 安倍が11日のテレビ朝日系「報道ステーション」の党首討論で、小学校建設にからむ国の補助金を詐取したなどとして起訴された森友学園前理事長、籠池について「詐欺を働く人物」と述べた。このことについて、さまざまな意見が出ている。
 いちばんの問題点は、有罪と確定した人間ではない人を、安倍が「詐欺を働く人物」と断定したことである。これは裁判の誘導にも当たるし、人権侵害に当たる。

ほかにも問題がある。
(1)市井の人間にだまされるようなひとが首相をやっているということ。
 市井の市民にだまされるなら、外国の政治家にはもっと簡単にだまされるということではないだろうか。トランプに、プーチンに、金正恩の「ことば」「ふるまい」に安倍はだまされていないか。プーチン相手の北方領土問題では、何も解決していない。経済協力を引き出されただけであり、四島はロシアに実効支配されているままである。
 北朝鮮のミサイル問題では、北朝鮮のミサイルは日本の「上空(領空)」とおってはいない。「上空」を通過しているというのが金の「ことば」なら、安倍はだまされている。「上空」ではないのに「上空」と安倍が言っているのだとしたら、事実誤認であるか、日本国民をだましていることになる。北朝鮮のミサイルがアメリカを射程に開発されているのに、日本が標的にされていると思い込んでいるのも、安倍が金にだまされていることになる。
 あるいは、北朝鮮のミサイルが日本を狙っている、という説はトランプが言っているのかもしれない。そうだとすると、安倍はトランプにだまされていることになる。軍備費を日本に負担させるためのうそである。トランプは「同盟国」の大統領だから、だますはずがない、というのは「平和ぼけ」というものだろう。日本と北朝鮮を戦争させておけば、アメリカ本土を北朝鮮が狙うだけの余裕はない。アメリカを北朝鮮のミサイル攻撃から回避するために、安倍をけしかけているとも考えることが出来る。
 「詐欺を働く人物」と安倍が断定した籠池は、安倍の「ごきげんとり」をして、安倍に近づいている。幼稚園の運動会で「安倍晋三バンザイ」と言わせている。だます人間は、まずだましたい人間の「味方」になるところから始める。「私は敵です」といってだますのは、なかなかむずかしい。
 「おれおれ詐欺」にだまされた老人ではないのだから、「詐欺にあった」なんて言いふらすのはみっともない。少しでも良識というか、恥じらいがある人間ならば、「詐欺にあった」なんて言わない。
 「詐欺にあった」という人間が、首相を務めているというのは、大問題である。「私はだまされやすい人間です」と世界に向けて公言していることになる。「私をだましてください」と言っていることにもなる。

(2)籠池が問題にされているのは、小学校建設にからむ国の補助金についてである。つまり、安倍が直接、「詐欺」の交渉相手ではない。直接交渉していない(と、言われている)安倍が、国の補助金交渉に「詐欺」がおこなわれたと断定することは、国の補助金担当者が「詐欺被害にあった」と断定することにつながる。国の役人が、一般市民に簡単にだまされていいのか。そういうだまされやすい人を、補助金交付の審査をする「係」にしておいていいのか、という問題が起きる。(だれが、そういう人事をしたのか、という問題が起きる。また、安倍は、単に籠池を犯罪者と断定しただけではなく、国の役人が詐欺を見抜けないほど無能であると断定していることにもなる。安倍は補助金交渉に携わった人を「無能」と断定しているのに等しい。役人は怒りの声を上げるべきである。)

(3)籠池のしたことが「詐欺」であるなら、それを「裏付ける証拠」のようなものが、安倍にはあるということになる。安倍は「証拠」もなしに、籠池を犯罪者と断定したのなら、それは安倍の犯罪になる。
 もし「証拠」があるのなら、その「証拠」を国民に提示すべきである。国会では籠池と国の機関とのあいだでどういう交渉があったのかが問題にされた。国側の説明では、資料は全部残っていないということだった。あらゆることが「記憶にない」ということだった。
 これは、とても奇妙である。
 「おれおれ詐欺」にあったひとは、「詐欺の手口」をきちんと覚えている。どうやってだまされたのか、その「交渉過程」を覚えている。相手のいったことだけではなく、自分のいったこと、そのときの「気持ち」も覚えている。
 億単位の金の「詐欺」にあったのなら、被害者(交渉担当者)は、その交渉のすべてを覚えているはずである。メモも残しているだろう。

 安倍の「人権侵害発言」を問題にするだけではなく、(2)(3)の観点から、森友学園問題を問いなのすべきである。野党や報道機関は、そのことを追及すべきである。「人権問題」だけにしてしまうと、安倍の「謝罪」でおわってしまう。ことばだけの「謝罪」ではなく、問題を根本的に解決するには、安倍が籠池を犯罪者と呼んだ「根拠」を要求すべきである。
 その根拠が示せないのなら、安倍は、うその発言で籠池をおとしめたのである。

 さらに
(4)安倍をはじめ、国家機関が籠池にだまされたというのなら、安倍と国家機関はまた加計にもだまされているかもしれない。加計もまた「詐欺を働く人物」かもしれない。この視点から、加計問題を再点検しなくてはならない。
 加計が友人であるという「証拠」(ゴルフをしたり、食事をおごったり、おごられたりという関係)だけではなく、どういう「交渉」があったのか、すべてを公開すべきである。「記録がない」「記憶がない」ではなく、交渉過程をすべて「思い出し」、そこに問題がないか点検すべきである。
 籠池を「詐欺を働く人物」と断定した以上、安倍は、「加計は詐欺を働く人物ではない」という「証拠」を明示する必要がある。
 国民は(少なくとも私は)、森友学園問題と加計学園問題は、おなじものとみている。



#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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エミール・クストリッツァ監督「オン・ザ・ミルキー・ロード」(★★★★★)

2017-10-15 08:57:32 | 映画
監督 エミール・クストリッツァ 出演 エミール・クストリッツァ、モニカ・ベルッチ、プレグラグ・ミキ・マノジョロビッチ

 映画には、いろいろな楽しみがある。エミール・クストリッツァの映画では、音楽が楽しい。動物が楽しい。人間も楽しいのだが、音楽と動物が、なんともいえず「わいざつ」なところがいい。「わいざつ」というのは「人間っぽい」ということである。「人間」のなかにある「野生」を音楽と動物が代弁してくれる感じがする。
 たとえば、こんなシーン。豚が殺されそうだと察知すると、あちこちからアヒルが集まってくる。ほかの動物の悲劇が好き? なんて思ったりしたのだが、なんとなんと。豚の血をためたバスタブ(のようなもの)にアヒルたちが次々に飛び込む。なぜ? なぜ、わざわざ血まみれになって汚れる? なまぐさい血のにおいに蠅が集まってくる。それを「ぱくぱく」食べるためなのだ。どのアヒルが最初に思いついたか知らないが、これはアヒルの知恵なのだ。
 それからロバは、兵隊を起こす起床ラッパのまねをする。起床ラッパといっても、ほんもののラッパではなく、兵士が口でラッパの音をまねする。その音そっくりに鳴くのである。へええ、ロバってこんなに器用? こんなに耳がいい?
 主人公と仲がいい鷹(ハヤブザ? よくわからないが、猛禽類)は主人公の演奏する音楽に合わせて肩(翼の付け根)でリズムをとる。蛇はこぼれたミルクをのんだ恩返しに、主人公を助ける。
 動物は、戦争とは無関係に生きている。人間のやっていることなんか無視している。自然の「非情」が動物にあらわれているのだが、この「自然の非情」というか、「自然」そのものが、人間の「無防備」の美しさにつながる。「野蛮」なの美しさ、といいかえてもいいかなあ。
 「停戦(終戦?)」を祝いながらも、「ビッグ・ブラザーがいるかぎり戦争はつづく。ビッグ・ブラザーは戦争が大好き」というような歌を歌う民衆の強さ、ひねくれ加減がいいなあ。その歌の、「なまなましい地声」がいいなあ。どこにでも、いつでも、音楽がある。「平和がきてよかった」という歌よりも、「事実」を見ている。
 後半の、「恋の逃避行」も楽しい。ファンタジーなのだが、ひとはいつでもファンタジーを生きる。戦争のさなかでも。木の上での、はじめてのキスとか、川を流れる結婚式の白いドレスとか、水辺の小屋でのセックス(唐十郎の芝居みたいに、小屋が解体し、自然のなかにさらけだされる)とか、水をつめた瓶を楽器にしたてて始まる音楽とか、とても楽しい。
 でも、二人がハッピーエンドにならないのなら、こんなシーン、何のために?
 最後の最後に、羊飼いが、自殺しようとする主人公を引き止めて、こう言う。「死んじゃいけない。おまえが死んでしまったら、誰がいったい彼女のことを思い出すのだ」。
 あ、いいなあ。
 人は、人を、思い出さないといけない。思い出の中で人は生き続ける。これを大げさに言うと「歴史の中で人は生き続ける」ということ。どうやって人が生きたか、それをつたえるために「歴史」がある。「歴史」を無視するとき(修正するとき)、死ぬは死ぬ。というより、二度目の殺人にあう。二度、殺される。
 ふと、安倍のことを思ったりする。
 最後の最後、主人公が、恋人の地雷で死んだ野原に石を敷き詰めるシーンがある。15年後、ということだが、15年間、通い続け、一個一個敷き詰めてきたのだ。まだ空き地がある。そこを埋めないといけない。これは、戦争で殺された同胞を忘れない、というエミール・クストリッツァ監督の「決意表明」みたいなものだ。まだまだ、撮り続ける。「主演」も兼ねているのは、そういうことを明確にするためだろう。
 (こういう「意味」ではなく、映画のなかに出てきた動物についてもっともっと書きたかったのだが、最近疲れ切っているので、どうしても「意味」に意識が流れてしまう。流されてしまう。最後の文章は無視して、動物が人間のようにふるまい、人間が動物のなまなましさ、かわいらしさで動くシーンを味わってください。)

 (きのう、ここまで書いた。)

 で。
 話が「意味」に断線してしまったので、もう一度、映画にもどっておく。
 映画の冒頭に、とっても変な巨大時計が出てくる。その時計にみんな困っている。困って、壊してしまうのだが、またつかっている。これって、何かの「比喩」? そうかもしれない。でも「比喩」だとしても、「意味」は考えない方がいい。巨大時計の、へんてこりんな「リアリティー」だけを感じればいい。
 思い出というのは、こういう「リアリティー」のことである。「意味」を突き破って、そこに存在している「実感」。
 主人公をめぐって、二人の女が「恋のさや当て」をするシーン、そのふたりの姿。なぜか似ている。それも楽しいし、病院に入院している二人の女(同じ病気、時計にかまれて、その毒が回る)を見舞いに来た男が、雨漏りから二人を守るために鍋を両手に抱えて立っているシーンも好きだなあ。男の上にも雨漏りがするので、男はやっぱり鍋をかぶっている。
 うまく説明できないが、「真実」があって、その「真実」に気づいたとき、ひとは「逸脱」していく。ばかばかしい行為をしてしまう。「野生」にもどる。そう、私は感じてしまう。
 ラスト直前の、二人が、羊がこどもを産むシーンを見るところなんかにも。兵士に追われ、自分が死ぬか生きるかというときに、小羊が生まれ、それを羊飼いが水で洗ってやるシーン(洗礼する?シーン)に、みとれている。そんな余裕があるのか。ない。ないけれど、ふと、みとれてしまう。ここにも「意味」はあるだろうけれど、このシーンが何かを「暗喩」しているのだろうけれど、そういうことはわからないまま、ただ、そこにある充実した時間にのみこまれてしまう。
 そういうことが、たぶん、生きているということなのだろうなあ。
 主人公が飛び交う銃弾のなかをミルクを運ぶ。缶に弾があたり、ミルクがこぼれる。そのシーンも好きだし、ふっとんだ耳を女に縫いつけてもらうシーン、もうひとりの恋人が体操で鍛えた身のこなしで男に絡みつくシーンも好きだなあ。そんなこと、ありえない? でも、思い出のなかでは、そういう具合に、「リアリティー」が独立して動いていく。「意味」に支配されずに動いていく。「リアリティー」が解放されていくと言ってもいい。
 どうでもいいが、二人を追いかける兵士が、「俺たちはここにいる」と鏡に太陽の光を反射させて知らせるシーンなんかも、私は好きだなあ。おいおい、追いかけているなら、追いかけていることを知られないようにして追いかけるのが、相手をつかまえるための鉄則だろう、なんて、言っても始まらない。
 イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」で、悪人の残したなぞなぞを解きながら、悪人の指定した場所へ対決しに行くエピソードに似ている。なぞなぞの答えを間違えたら、対決できないだろう。なぞなぞなんかで敵を呼び出すなよ、というのは「客観的批判」であって、読みながら、なぞなぞで対決場所を指定するなんて、やってみたいなあ、おもしろいなあ、と私は笑いだしてしまう。
 私たちは、たぶん、そういう「くだらない逸脱」を生きている。そこに「自由」がある。「自由」とは「くだらない逸脱」のことである。
 最初、私は「わいざつ」と書いたが、「わいざつ」とは「意味」に整理される前のリアリティーであり、くだらない逸脱のことだろうなあ、と思いなおす。
 あ、また「意味」を書いてしまったか。
              (KBCシネマ2、2017年10月14日)




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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/





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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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