田中庸介「杉の根、延命、グランドデザイン」(「妃)19、2017年09月25日発行)
田中庸介「杉の根、延命、グランドデザイン」はタイトルに名詞が並列されている。詩も、そのタイトルに合わせて動いていく。長いので、最初の「杉の根」の部分について書いてみる。
杉を見ている。杉の描写が少しずつ変わっていく。ことばに従って、世界が少しずつ広がっていく。杉の描写ではなく、杉を中心にした世界の描写にかわっていく。
で、そのあと、突然、私の描写に転換する。「私は充電している」は「私はパソコンに充電している」と言いなおされるのだが。
うーん。
私は「私の描写」だと思ってしまう。それ以前の文章が実際は杉を中心にした世界の描写であるにもかかわらず、杉を描いていると思い込むように。
同時に、そうか「充電する」とは、こういうことか、とも思う。
少しずつ世界を広げていく。おなじところを何度も通りながら、少しずつことばが増えていく。それにしたがって世界が広がる。同じように、電気は同じところを何度も通りながらエネルギーを蓄える。エネルギーの蓄えた分だけ、電気を放出できる。
ことばを蓄えた分だけ、ことばは世界の中へはいって行くことができる。そして、ことばが放出された先まで、世界は広がり、充実していく。
ここには重なり合うものがある。
これを「充電する」という「物理的/科学的/客観的」なことばで「比喩」にしてしまうところに田中のことばの運動の特徴がある。
このあと、この「充電する」という方法で、ことばは杉のなかに入っていく。「杉をことばで充電する」。杉は植物だが、「充電」が始まると、それにともなって、杉が動き始める。「動き」とは「移動」だが、「充電」による動きとは「内部の変化(動き)」であり、それにともなって、見えなかったものが見えている。
ふつう、目に見えるのもは外形(形態)だが、「充電」はその「充電経路」、いいかえると「内部の配線」というか、「構造」を明るみに出す。
田中のことばは、こんなふうに動く。
「注目する」という動詞で始まるが、ここに書かれていることは「目」で見たものではない。「注目する」は「目」を「注ぐ」。「目」は「注ぐ」ことはできないから「目」か「注ぐ」か、そのどちらかが比喩である。あるいは「目を注ぐ」ということば自体が比喩である。
ここでは実際は「目(肉体)」が動いているではなく、「頭」が動いている。外から見える「頭」ではなく、「頭の内部」(意識化されない肉体)が動いている。「頭」の「どこ」を「どう」動かせば、こういうことばが動くのか、それを「意識化」することはできない。動いた結果から、動いたことがわかるだけである。だから、意識化されない肉体と私は呼ぶ。
で、ちょっと脱線するが。
「頭」で書かれたことばというのは、私は大嫌いである。
ただし、田中の書いていることばは、嫌いではない。
「頭」で書いているのだが、その「頭」の動きが、きちんととらえなおされている。「頭」が「肉体」になっている。
「文体」と言いなおせばいいだろうか。「充電」のときにつかった「配線」という比喩をつかえば説明がしやすい。田中は、ことばを「配線」するようにつないでいく。最初の経路を確立し、常に確立した経路を積み重ねて、少しずつその「配線先」を増やしていく。別などこかからはみだしている「線」と結びつくとき、一瞬ショートするが、そのあと「配線」はさらに広がっていく。この詩で言えば「十二支……」が、ショートして火花が飛び散る瞬間である。
「根」から「管」をとおり「幹」にたどりつくと、そこに再び「杉」があらわれてくる。そうすると「根」はそのまま「幹」をとおり、枝に、さらに葉にかわり、「杉」そのものになるということが、想像できる。田中のことばが動き前に、読者が(私が)、そのことばの先を読むことができる。誤読することができる。
だからこそ、田中は私の「誤読(先読み)」を拒むように、田中自身のことばを動かし、詩を広げていく。(この部分は引用しないので、ぜひ「妃」で確かめてください。)
田中の「ことばの配線」が「ことばの肉体」となって動いていく。こういうとき、「頭」は「肉体」になっていると言う。自転車をこぐとき、右足に力を入れるとき左足の力は抜くということは「意識化」せずに「無意識」におこなわれるように、「配線」が確立されると「無意識」は正しい動き(肉体を傷つけない動き)になる。そういう領域で田中はことばを動かしている。
きのう新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』を読んだ。そこでは「声」が肉体として動いていた。
田中は東北のおんばたちが「声」を動かす感じで、「頭」を「肉体」として動かしている。
*
いま、「妃」は同人が増えて私には把握しきれないが、(初期の「妃」は5人くらいで構成されていたと記憶している)、かつて田中の「文体力」に似た詩人に高岡淳四がいた。高岡の「文体」は口語のなめらかさと強さをもっている。私は大好きなのだが、彼の詩を「妃」で読めないのはとても残念である。「妃」を開くたびに高岡淳四の四はないのか、と探してしまう。
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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田中庸介「杉の根、延命、グランドデザイン」はタイトルに名詞が並列されている。詩も、そのタイトルに合わせて動いていく。長いので、最初の「杉の根」の部分について書いてみる。
目の前の
ガラスの窓から杉が見える
カフェの窓から駅前広場の大杉が見える
阿佐ヶ谷駅前カフェソラーレの窓から
中杉通りバスターミナルの真ん中に二本の大杉が見える
私は充電している
私はパソコンに充電している
杉を見ている。杉の描写が少しずつ変わっていく。ことばに従って、世界が少しずつ広がっていく。杉の描写ではなく、杉を中心にした世界の描写にかわっていく。
で、そのあと、突然、私の描写に転換する。「私は充電している」は「私はパソコンに充電している」と言いなおされるのだが。
うーん。
私は「私の描写」だと思ってしまう。それ以前の文章が実際は杉を中心にした世界の描写であるにもかかわらず、杉を描いていると思い込むように。
同時に、そうか「充電する」とは、こういうことか、とも思う。
少しずつ世界を広げていく。おなじところを何度も通りながら、少しずつことばが増えていく。それにしたがって世界が広がる。同じように、電気は同じところを何度も通りながらエネルギーを蓄える。エネルギーの蓄えた分だけ、電気を放出できる。
ことばを蓄えた分だけ、ことばは世界の中へはいって行くことができる。そして、ことばが放出された先まで、世界は広がり、充実していく。
ここには重なり合うものがある。
これを「充電する」という「物理的/科学的/客観的」なことばで「比喩」にしてしまうところに田中のことばの運動の特徴がある。
このあと、この「充電する」という方法で、ことばは杉のなかに入っていく。「杉をことばで充電する」。杉は植物だが、「充電」が始まると、それにともなって、杉が動き始める。「動き」とは「移動」だが、「充電」による動きとは「内部の変化(動き)」であり、それにともなって、見えなかったものが見えている。
ふつう、目に見えるのもは外形(形態)だが、「充電」はその「充電経路」、いいかえると「内部の配線」というか、「構造」を明るみに出す。
田中のことばは、こんなふうに動く。
私は杉の根に注目する
駅前広場の大杉の根である
杉は特異な形態をもって地面からそそり立っている
特異な形態だと?
その通り、特別な形態である
四方八方、いやもっと、
おそらくは十二支・八卦・十干を組み合わせたる二十四方位へと
杉は根を張っている
杉は杉の根を張っている
その幹には根に由来する管状の構造がある
「注目する」という動詞で始まるが、ここに書かれていることは「目」で見たものではない。「注目する」は「目」を「注ぐ」。「目」は「注ぐ」ことはできないから「目」か「注ぐ」か、そのどちらかが比喩である。あるいは「目を注ぐ」ということば自体が比喩である。
ここでは実際は「目(肉体)」が動いているではなく、「頭」が動いている。外から見える「頭」ではなく、「頭の内部」(意識化されない肉体)が動いている。「頭」の「どこ」を「どう」動かせば、こういうことばが動くのか、それを「意識化」することはできない。動いた結果から、動いたことがわかるだけである。だから、意識化されない肉体と私は呼ぶ。
で、ちょっと脱線するが。
「頭」で書かれたことばというのは、私は大嫌いである。
ただし、田中の書いていることばは、嫌いではない。
「頭」で書いているのだが、その「頭」の動きが、きちんととらえなおされている。「頭」が「肉体」になっている。
「文体」と言いなおせばいいだろうか。「充電」のときにつかった「配線」という比喩をつかえば説明がしやすい。田中は、ことばを「配線」するようにつないでいく。最初の経路を確立し、常に確立した経路を積み重ねて、少しずつその「配線先」を増やしていく。別などこかからはみだしている「線」と結びつくとき、一瞬ショートするが、そのあと「配線」はさらに広がっていく。この詩で言えば「十二支……」が、ショートして火花が飛び散る瞬間である。
「根」から「管」をとおり「幹」にたどりつくと、そこに再び「杉」があらわれてくる。そうすると「根」はそのまま「幹」をとおり、枝に、さらに葉にかわり、「杉」そのものになるということが、想像できる。田中のことばが動き前に、読者が(私が)、そのことばの先を読むことができる。誤読することができる。
だからこそ、田中は私の「誤読(先読み)」を拒むように、田中自身のことばを動かし、詩を広げていく。(この部分は引用しないので、ぜひ「妃」で確かめてください。)
田中の「ことばの配線」が「ことばの肉体」となって動いていく。こういうとき、「頭」は「肉体」になっていると言う。自転車をこぐとき、右足に力を入れるとき左足の力は抜くということは「意識化」せずに「無意識」におこなわれるように、「配線」が確立されると「無意識」は正しい動き(肉体を傷つけない動き)になる。そういう領域で田中はことばを動かしている。
きのう新井高子編著『東北おんば訳 石川啄木のうた』を読んだ。そこでは「声」が肉体として動いていた。
田中は東北のおんばたちが「声」を動かす感じで、「頭」を「肉体」として動かしている。
*
いま、「妃」は同人が増えて私には把握しきれないが、(初期の「妃」は5人くらいで構成されていたと記憶している)、かつて田中の「文体力」に似た詩人に高岡淳四がいた。高岡の「文体」は口語のなめらかさと強さをもっている。私は大好きなのだが、彼の詩を「妃」で読めないのはとても残念である。「妃」を開くたびに高岡淳四の四はないのか、と探してしまう。
詩誌「妃」19号 | |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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