覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(1)(ナナロク社、2017年10月15日発行)
覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』を読みながら、いろいろなことを思った。その「いろいろ」を思ったままに書いていく。書いていくうちに、思ったことが違った形に変わっていくかもしれない。
覚和歌子の作品を私はあまり知らないが、なんとなく谷川俊太郎のことばに似ている。谷川俊太郎のことばが覚和歌子のことばに似ている、と言ってもいい。何が似ているか。「音楽」が似ている。それは「自己主張する」音楽ではなく、「他者を誘い出す」音楽である。聞いている人のなかから「音楽を誘い出す」感じ。他者が「参加する」ことで完成する音楽、といえばいいのかなあ。
「対詩」ではないが、かつて「詩のボクシング」という催しがあった。二人の詩人がリングの上で詩を朗読し、優劣をつける(優劣の判定をする)というもの。私はテレビを見ないが、偶然、谷川俊太郎とねじめ正一の「ボクシング」を見た。
最後に用意してきた詩ではなく、即興で詩を作るという「戦い」があった。ねじめは「テレビ」というタイトルをひきあて、谷川は「ラジオ」だった。ねじめは苦戦して、詩を作ることができなかった。谷川は、こんなようなことを言った。
文字と違い、声は消えてしまう。(ラジオは声だけを伝える)ここで聞いた声は消えてしまう。けれどもその声は思い出すことができる。家に帰って、声を思い出してほしい。声を持ち帰ってほしい。そのとき、あなたの家(部屋)のなかで詩は完成する。
言い換えると。
詩は詩人が読んだとき、そこで完結するのではない。読者がそれを受け止め、読者自身で反芻するとき、詩になる。読者の参加する。読者が自分の「肉体」のなかから「声」を引き出すときに詩になる。
そういうことだと思った。
谷川のことばは、いつも、そういうことを「狙って」いる。「音楽」は谷川のなかにもあるが、同時に聞いている(読んでいる)読者の側にもある。読者が自分のなかから「音楽」を見つけ出して、谷川の「声」にあわせるときに、ほんとうの詩になる。こういう「基本姿勢」のようなものがある。
そうなのだけれど。
谷川は「意味」の力で「音楽」をリードするときがある。「ラジオ」の詩は、まさにそういう作品だった。「意味」を、私はなんとなく覚えている。細部の「音楽」ではなく、「和音」をつくりだすための「基本的なテーマ(旋律)」のようなものを覚えている。「意味」は覚えやすい。読者は「意味」に参加していくことになる。そして、そこで自分自身の「声」で「音楽」を演奏しなおす。「声(音)」の引き出し方を学びなおすといえばいいのか。
この「意味」と「音楽」の関係が、なんとなく谷川と覚では似ている。
こういうことは、あくまで「印象」なので、表面的で、いいかげんなものである。
ということを、ちょっと前置きにして。
「両手のひらの星くず」という作品は、こう始まる。
誰の詩だろうか。
最初の二行、特に二行目の「おばあちゃんからおかあさんにつたえられた」ということばは、私には谷川のことばという感じがする。「おばあちゃん」「おかあさん」というひとつづきのことばが刺戟する「意味」。「つたえる」という動詞の「意味」の強調の仕方が、谷川っぽい。
この二行目によって、一行目の「たんすのひきだしをあけたら」という「記憶」への近づき方が、もういちど揺り動かされる。この詩を書いたひとは、たんすのひきだしをあけながら、おばあちゃん、おかあさん、わたしという「記憶の脈絡」を開いていく。
そうすると、この詩の書き手は「女性」ということになるのだが、谷川は詩のなかでは平気で女性になる。女性として詩を書くときがある。こどにもなって詩を書くとき、赤ん坊になって詩を書くとき、死んでしまって書くときさえある。だから、これを谷川が書いたとしても不思議ではない。
三行目は、少し谷川と違うかもしれない。「すくいとった両手のひらに こぼれて落ちる星くず」は「意味」としては私の記憶している谷川にもあるかもしれないが、「語順(音楽)」が逆かなあ、とも感じる。
この詩に対して、次の詩は、こう展開する。
うーん、つまらない。
読んだ瞬間に、あ、前の詩に「負けている」と感じた。(「詩のボクシング」のつづきとして読んでいるんだね、私は。)
音楽が通い合わずに「意味」が動いている。
最初の詩が、「おばあちゃん、おかあさん」とつながることで、その延長線上に「少女」を浮かび上がらせるのに対し、この詩では「少女」と向き合う「少年」が登場する。
まあ、ことばを別な方向に広げたということなのかもしれない。同じ所にとどまっていては、ことばの動きが限定されてくるから、そういうことに配慮したのかもしれない。
ことばを動かすための、意図的な詩かもしれない。
そのあと、こう展開する。
「富士」を「大きな目印」と言いなおすことでことばが動き、その「大きな目印」が「大伽藍」へと引き継がれる。「目」でとらえられていた世界が、こんどは「音(耳)」の世界へと変化していく。
この変化のなかに「対詩」の「暗黙のルール」がある。ある「意味」をひきつぎながら、別の世界へ入っていく、という「ルール」が、ここまで読んできて、なんとなく「わかる」。
で、わかった瞬間の、四つ目の作品、「大伽藍」の作品を読んだとき、あ、これは谷川だなあ。覚は、こいう感じの「音」を書かないなあ、と気づく。というよりも、「旅人」の詩の、妙にゆるんだリズムを谷川は書かないだろうなあと気づいたといえばいいのか。
四つ目の詩の中には、私がなれ親しんでいる谷川がいる。谷川の詩には、もともと「対」が多く登場する。「対」が世界を破壊しながら再構築する。その瞬間に「音楽」を響かせる。
言いなおそう。
この詩は、二行×二行の「対」になっている。
「大伽藍」も「パイプオルガンの音」も「固有名詞」ではないので、「具体的」とは言えないかもしれないが、ある程度「具体的」である。「虫の音」(ふいに、なつかしい日本語が響いてくる。いまの若者は「虫の音」とはいなわないだろうなあ)も何の虫なのかわからないので「具体的」ではない。しかし、「大伽藍」「パイプオルガンの音」「虫の音」から、読んだ人がそれぞれの「記憶」を引っぱりだしてきて、そのことばに「参加」し、「具体化」できることがらである。「具体的」と言いなおすことができる。
これと向き合う二行は、まったく違う。「静けさからうまれてきた」はことばだけでつかみ取ることのできる「運動」である。「遠く離れていた」も「意識(ことば)」でしかとらえることができない。実際、パイプオルガンが鳴りやんだとき虫の音が聞こえてきたのなら、パイプオルガンのある所と虫がいるところは「近い」。「遠く離れている」のは「故郷」である。「パイプオルガンの音の故郷」と「虫の音の故郷」が「遠く離れている」。ここでは「意識(ことばの運動)」そのものが「音楽」を演奏している。ここでは、この詩人は自分の「音楽」を主張している。「ここまで来い」というよりも、まあ、「独唱」しているという感じかなあ。「独唱」でも、それが気持ちがいいとついつい「誘われて」肉体が反応するけれど、つまり、無意識に「参加する」ということが起きるけれど、「参加を誘う音楽」とは違うね。
あ、脱線したが。
この「具象」と「抽象」の「対」によって、見えなかった「音楽」を見えるようにする。音楽だから「聞こえなかった」ものを「聞こえる」ようにする、と言った方がいいのかもしれないが。
さて、この「自己主張の音楽」(谷川スタイル)に対して、次のことばはどう動くか。
これは絶対谷川ではない。「起こる」という動詞を四回使ったベケット風の「重力」のある運動は谷川にはない。谷川なら「まだ起こっていないこと 起こるかもしれないこと」と「対」で終わる。
覚の方が、「息が長い」。だんだん二人の違いが明確になってくる。
途中を省略して、この詩。
「みちくんもっとおしえて みちくんの好きなもの」というのは、谷川が書きそうだなあ。その前のことばも「意味(内容)」としては谷川が書きそうだ。でも、こんなに「長い」ことばではないだろうなあ。
では、この作品は?
「何度となくあなたに出会った」という具体があり、それが「理由をみつけ」という「抽象」を経て「生まれることはないだろう」という結論へたどりつく。このときの「具体」と「抽象」の「対」は谷川に見えないことはない。「生き変わり死に変わり」ということばを谷川がつかうとは思えないが。
詩集には、詩の末尾に「覚」「俊」の文字がそえられ、二人の詩は、黒と青と二色にわけて印刷されているので、どれが誰の詩かはっきりわかるのだけれど、私はそれを無視して読んでみた。無視して読むと、逆にふたりの違いがわかった。「音楽」の似ている部分について書くつもりだったのだが、違う点に重点が移ってしまった。
似ている部分について書くつもりで書き始めたが、だんだん違っている部分に重点が映ってしまった。
次は、また違った感想を書いてみたい。
*
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覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』を読みながら、いろいろなことを思った。その「いろいろ」を思ったままに書いていく。書いていくうちに、思ったことが違った形に変わっていくかもしれない。
覚和歌子の作品を私はあまり知らないが、なんとなく谷川俊太郎のことばに似ている。谷川俊太郎のことばが覚和歌子のことばに似ている、と言ってもいい。何が似ているか。「音楽」が似ている。それは「自己主張する」音楽ではなく、「他者を誘い出す」音楽である。聞いている人のなかから「音楽を誘い出す」感じ。他者が「参加する」ことで完成する音楽、といえばいいのかなあ。
「対詩」ではないが、かつて「詩のボクシング」という催しがあった。二人の詩人がリングの上で詩を朗読し、優劣をつける(優劣の判定をする)というもの。私はテレビを見ないが、偶然、谷川俊太郎とねじめ正一の「ボクシング」を見た。
最後に用意してきた詩ではなく、即興で詩を作るという「戦い」があった。ねじめは「テレビ」というタイトルをひきあて、谷川は「ラジオ」だった。ねじめは苦戦して、詩を作ることができなかった。谷川は、こんなようなことを言った。
文字と違い、声は消えてしまう。(ラジオは声だけを伝える)ここで聞いた声は消えてしまう。けれどもその声は思い出すことができる。家に帰って、声を思い出してほしい。声を持ち帰ってほしい。そのとき、あなたの家(部屋)のなかで詩は完成する。
言い換えると。
詩は詩人が読んだとき、そこで完結するのではない。読者がそれを受け止め、読者自身で反芻するとき、詩になる。読者の参加する。読者が自分の「肉体」のなかから「声」を引き出すときに詩になる。
そういうことだと思った。
谷川のことばは、いつも、そういうことを「狙って」いる。「音楽」は谷川のなかにもあるが、同時に聞いている(読んでいる)読者の側にもある。読者が自分のなかから「音楽」を見つけ出して、谷川の「声」にあわせるときに、ほんとうの詩になる。こういう「基本姿勢」のようなものがある。
そうなのだけれど。
谷川は「意味」の力で「音楽」をリードするときがある。「ラジオ」の詩は、まさにそういう作品だった。「意味」を、私はなんとなく覚えている。細部の「音楽」ではなく、「和音」をつくりだすための「基本的なテーマ(旋律)」のようなものを覚えている。「意味」は覚えやすい。読者は「意味」に参加していくことになる。そして、そこで自分自身の「声」で「音楽」を演奏しなおす。「声(音)」の引き出し方を学びなおすといえばいいのか。
この「意味」と「音楽」の関係が、なんとなく谷川と覚では似ている。
こういうことは、あくまで「印象」なので、表面的で、いいかげんなものである。
ということを、ちょっと前置きにして。
「両手のひらの星くず」という作品は、こう始まる。
たんすのひきだしをあけたら 夜があふれてきた
おばあちゃんからおかあさんにつたえられた夜
すくいとった両手のひらに こぼれて落ちる星くず
誰の詩だろうか。
最初の二行、特に二行目の「おばあちゃんからおかあさんにつたえられた」ということばは、私には谷川のことばという感じがする。「おばあちゃん」「おかあさん」というひとつづきのことばが刺戟する「意味」。「つたえる」という動詞の「意味」の強調の仕方が、谷川っぽい。
この二行目によって、一行目の「たんすのひきだしをあけたら」という「記憶」への近づき方が、もういちど揺り動かされる。この詩を書いたひとは、たんすのひきだしをあけながら、おばあちゃん、おかあさん、わたしという「記憶の脈絡」を開いていく。
そうすると、この詩の書き手は「女性」ということになるのだが、谷川は詩のなかでは平気で女性になる。女性として詩を書くときがある。こどにもなって詩を書くとき、赤ん坊になって詩を書くとき、死んでしまって書くときさえある。だから、これを谷川が書いたとしても不思議ではない。
三行目は、少し谷川と違うかもしれない。「すくいとった両手のひらに こぼれて落ちる星くず」は「意味」としては私の記憶している谷川にもあるかもしれないが、「語順(音楽)」が逆かなあ、とも感じる。
この詩に対して、次の詩は、こう展開する。
十三夜の月の下で富士ははにかんでいた
少年は思った ぼくはこの山に登らない
毎日この山を仰ぎ見ながら裾野で暮らしてゆく
うーん、つまらない。
読んだ瞬間に、あ、前の詩に「負けている」と感じた。(「詩のボクシング」のつづきとして読んでいるんだね、私は。)
音楽が通い合わずに「意味」が動いている。
最初の詩が、「おばあちゃん、おかあさん」とつながることで、その延長線上に「少女」を浮かび上がらせるのに対し、この詩では「少女」と向き合う「少年」が登場する。
まあ、ことばを別な方向に広げたということなのかもしれない。同じ所にとどまっていては、ことばの動きが限定されてくるから、そういうことに配慮したのかもしれない。
ことばを動かすための、意図的な詩かもしれない。
そのあと、こう展開する。
旅人が目印にするのなら できるだけ大きなものがいい
じっと動かないものがいい
目をやるたびに心が晴れ晴れとして
わけもなく泣きたくなるものがいい
大伽藍に満ちるパイプオルガンの音が途絶えたとき
幻のように虫の音が聞こえてきた
どちらも静けさから生まれてきたものだが
その故郷は遠く離れていた
「富士」を「大きな目印」と言いなおすことでことばが動き、その「大きな目印」が「大伽藍」へと引き継がれる。「目」でとらえられていた世界が、こんどは「音(耳)」の世界へと変化していく。
この変化のなかに「対詩」の「暗黙のルール」がある。ある「意味」をひきつぎながら、別の世界へ入っていく、という「ルール」が、ここまで読んできて、なんとなく「わかる」。
で、わかった瞬間の、四つ目の作品、「大伽藍」の作品を読んだとき、あ、これは谷川だなあ。覚は、こいう感じの「音」を書かないなあ、と気づく。というよりも、「旅人」の詩の、妙にゆるんだリズムを谷川は書かないだろうなあと気づいたといえばいいのか。
四つ目の詩の中には、私がなれ親しんでいる谷川がいる。谷川の詩には、もともと「対」が多く登場する。「対」が世界を破壊しながら再構築する。その瞬間に「音楽」を響かせる。
言いなおそう。
大伽藍に満ちるパイプオルガンの音が途絶えたとき
幻のように虫の音が聞こえてきた
どちらも静けさから生まれてきたものだが
その故郷は遠く離れていた
この詩は、二行×二行の「対」になっている。
「大伽藍」も「パイプオルガンの音」も「固有名詞」ではないので、「具体的」とは言えないかもしれないが、ある程度「具体的」である。「虫の音」(ふいに、なつかしい日本語が響いてくる。いまの若者は「虫の音」とはいなわないだろうなあ)も何の虫なのかわからないので「具体的」ではない。しかし、「大伽藍」「パイプオルガンの音」「虫の音」から、読んだ人がそれぞれの「記憶」を引っぱりだしてきて、そのことばに「参加」し、「具体化」できることがらである。「具体的」と言いなおすことができる。
これと向き合う二行は、まったく違う。「静けさからうまれてきた」はことばだけでつかみ取ることのできる「運動」である。「遠く離れていた」も「意識(ことば)」でしかとらえることができない。実際、パイプオルガンが鳴りやんだとき虫の音が聞こえてきたのなら、パイプオルガンのある所と虫がいるところは「近い」。「遠く離れている」のは「故郷」である。「パイプオルガンの音の故郷」と「虫の音の故郷」が「遠く離れている」。ここでは「意識(ことばの運動)」そのものが「音楽」を演奏している。ここでは、この詩人は自分の「音楽」を主張している。「ここまで来い」というよりも、まあ、「独唱」しているという感じかなあ。「独唱」でも、それが気持ちがいいとついつい「誘われて」肉体が反応するけれど、つまり、無意識に「参加する」ということが起きるけれど、「参加を誘う音楽」とは違うね。
あ、脱線したが。
この「具象」と「抽象」の「対」によって、見えなかった「音楽」を見えるようにする。音楽だから「聞こえなかった」ものを「聞こえる」ようにする、と言った方がいいのかもしれないが。
さて、この「自己主張の音楽」(谷川スタイル)に対して、次のことばはどう動くか。
雨の降る前には決まってざわめく心
まだ起こっていないこと 起こるかもしれないこと
起こってほしくないこと 起こりえないこと
ばかり思い描いて とうとう耳を塞ぐ
これは絶対谷川ではない。「起こる」という動詞を四回使ったベケット風の「重力」のある運動は谷川にはない。谷川なら「まだ起こっていないこと 起こるかもしれないこと」と「対」で終わる。
覚の方が、「息が長い」。だんだん二人の違いが明確になってくる。
途中を省略して、この詩。
大好きなみちくんの大好きな絵本のおはなしを全部おぼえた
目をつぶってそらで言うと お話が私のものになったみたい
お話と私がひとつになったみたい
みちくんもっとおしえて みちくんの好きなもの
私はみちくんの世界になりたい
「みちくんもっとおしえて みちくんの好きなもの」というのは、谷川が書きそうだなあ。その前のことばも「意味(内容)」としては谷川が書きそうだ。でも、こんなに「長い」ことばではないだろうなあ。
では、この作品は?
生き変わり死に変わり 何度となくあなたに出会った
縁(えにし)というものを科学することができたとして
めぐり会い見つめ合う理由をみつけられたなら
私たちはもう二度と この星に生まれることはないだろう
「何度となくあなたに出会った」という具体があり、それが「理由をみつけ」という「抽象」を経て「生まれることはないだろう」という結論へたどりつく。このときの「具体」と「抽象」の「対」は谷川に見えないことはない。「生き変わり死に変わり」ということばを谷川がつかうとは思えないが。
詩集には、詩の末尾に「覚」「俊」の文字がそえられ、二人の詩は、黒と青と二色にわけて印刷されているので、どれが誰の詩かはっきりわかるのだけれど、私はそれを無視して読んでみた。無視して読むと、逆にふたりの違いがわかった。「音楽」の似ている部分について書くつもりだったのだが、違う点に重点が移ってしまった。
似ている部分について書くつもりで書き始めたが、だんだん違っている部分に重点が映ってしまった。
次は、また違った感想を書いてみたい。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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