詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)

2017-10-18 21:30:36 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)
            自民党憲法改正草案を読む/番外128(情報の読み方)





 2017年10月18日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面。

「まっとう」「国難」当てこすり/衆院選で各党 フレーズ逆手 批判合戦

 という見出しで、最近の「街頭演説」が紹介されている。各党のキャッチフレーズを、他党が逆手にとって批判合戦をしている。そのことを紹介している。政策についての具体的な言及のない記事である。こういう記事にも「選挙報道のルール」が反映されている。
 選挙報道をするときには、主張(政策)の紹介は、個人の候補者なら「届け出順」、政党の場合は現有勢力順(衆院選は直前の勢力順)。恣意的な順序ではない、ということで「公平」の「証明」にしている。
 しかし、これが、意外な罠である。順序にはルールがあるが、適用の仕方は厳密ではない。
 読売新聞の記事の場合、
(1)立憲民主党の「まっとうな政治」を安倍、公明の山口がどう批判しているか
(2)希望の党の「日本に希望を」を公明の山口、共産の小池がどう批判しているか
(3)安倍の解散時の「国難突破解散」を、希望の小池、共産の志井がどう批判しているか
 という順序で紹介される。安倍の主張が真っ先にあり、公明がつづき、という具合。批判する方を主体にして「勢力順」を適用している。まず、安倍は「働きたい人が働けるのが『まっとう』な社会だ」と言い、山口は「民主党政権がまっとうなことができず(東日本大震災のとき)被災地が困った」と追い打ちをかけている。
 あらゆる「比較」は最初に書かれていることが「基準」になる。その紹介が「上下」に配置されて紹介されると、「上」に書かれていることが「まっとう」と思われがちである。あとに言った方は、よほどのことがない限り、言われたから言い返しているという印象になる。
 安倍がきちんと批判したのに、それにこたえられずに、他党が「減らず口」で反論しているという印象になってしまう。一種の「印象操作」が無意識のうちにおこなわれてしまう。

 紹介の順序を、違う形でしてみると、印象はがらりとかわる。
 各党がどういう主張をしてきたか、それを時系列順に並べ替えると、こうなる。
(1)安倍が「国難突破解散」と銘打って、解散を強行した。これを他党がどう批判しているか。
(2)小池が「希望の党」を立ち上げ「日本に希望を」と言った。そのとき民進党の一部議員を排除した。このことについて、他党がどう言っているか。
(3)希望から排除された枝野が「立憲民主党」を立ち上げ、「まっとうな政治」と言った。そのとき「まっとうな政治」ということばには安倍政権への批判がこめられていた。これに対して、安倍はどうこたえるか。
 時系列順は、解散を強行したのが安倍であるために、主張はおのずと「勢力順」に一致する。その順序に合わせて批判を並べなおすとどうなるか。野党から批判攻めにあい、反論にこまった安倍が必死になって「当てこすり」を言っているという印象に変わる。公明の山口も訴える政策がないので、過去の民主党を批判しているにすぎないという印象になる。
 「キャッチフレーズ発表」の時系列順にしなかったのは、安倍のあせりを隠すためである。安倍の批判を真っ先に紹介することで、安倍の主張が「正しい」という印象を引き起こしたかったからである。「選挙報道ルール」を恣意的に利用し、安倍の援護をしているのである。

 こういう記事を書くのなら、「政策論争」を避け、大衆受けする「当てこすり批判」をはじめたのは誰なのか。なんのために、当てこすりをするのか。なぜ、当てこすりではなく、政策そのものを分析し、批判しないのかということが、問題点として浮かび上がるはずである。
 それは、自ずと各党の政策吟味につながる。
 安倍の言っている「働きたい人が働ける」ということが、安倍のもとで実現されているかどうか、「検証」する必要がある。検証抜きに安倍が言い放したことをそのまま報道したのでは、安倍のことばが「正しい批判」という印象をあたえてしまう。
 安倍は失業率の改善(求人倍率の改善)を根拠に「働きたい人が働ける社会」と言っているのだが、非正規社員がいくら増えても「働きたい人が働ける社会」とは言えないだろう。非正規雇用の社員は「働きたいところで働いている」という実感がない。給料に満足しているわけでもない。
 公明・山口の主張も、それでは自民・公明政権になってから、東日本大震災の被災地の「困ったこと」は解消したのか、それが問われなければならない。経験したことのない大惨事で民主党が混乱したのはたしかだろうが、それを引き継いだ自民・公明の対策で、たとえば東京電力福島第一原発の事故は処理が終わったか。終わっていない。未解決のままである。誰がやっても「未解決」のままだろう。それなのに、民主党は何もできなかったなどと言ってもはじまらない。そんなことをいうのなら、いつまでに解決するか、そのスケジュールをきちんと示したらいいだろう。
 
 こんな「当てこすり一覧表」を紹介するスペースがあるのなら、それぞれの党の政策の対比、それぞれにどんな利点と問題点があるのか、それを新聞社独自の視点で分析、解説する方がいいだろう。それが安倍ベッタリであったとしても、きちんと解説すべきである。
 昨年夏の参院選では、公示後の「党首討論会」は一回しか開かれていない。今回も一回しか開かれていない。自民党が「党首討論会」を避け、逃げている。「政策」を語らないようにしている。
 討論会になれば、「宣伝」だけではすまない。他党からの批判にこたえないといけない。問題点が明るみに出てしまう。それを避けるために「討論会」を拒否している。(国会で、加計学園をめぐっての「証人喚問」をおこなわないのと同じである。)
 批判封じが、「選挙報道の公正ルール」を逆手にとっておこなわれている。
 民主主義とは「討論」が基本である。言論機関が、「討論(言論)」を活性化できないとしたら、言論機関としての仕事をしていないということにならないか。より多くの判断材料を提供するのが言論機関の仕事であって、上辺の現象で、今起きていることの「真相/深層」を隠すのは、言論の自殺行為に思える。



#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
 











詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「誤読」の批評(西日本新聞)

2017-10-18 19:17:09 | 詩集
西日本新聞(2017年10月18日朝刊)文化面に、「誤読」の批評が掲載されています。
岡田哲也さんが書いてくれました。

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藤維夫「今日はもっと」ほか

2017-10-18 19:14:16 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「今日はもっと」ほか(「SEED」45、2017年10月10日発行)

 藤維夫の作品は、どれも抽象的である。具体的なものが登場しない。固有名詞が出てこない。
 「今日はもっと」という作品。

日々の思いついた夢は何度か難渋する気配をたどる
一日の終わりは沈み込み
明日はもう閉ざされたのかもしれない
これ以上は窓は暗い

 「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」。こういう「用言」が、この作品全体をつらぬく「基調」である。固有名詞の変わりに、「用言」で全体を統一する。整える。藤が書いたというよりも、ことばが自ら書いた詩かもしれない、と思う。
 この一連目に対して、二連目の、次の一行がきびしくぶつかる。

花弁の開くしじまはいつも光って通りすぎようとしているが

 「しじま」は「難渋する」「沈み込み」「閉ざされた」「暗い」と通い合うが、「開く」と「光って」という動詞は「通い合わない」。
 ここから始まる「乱闘(暴力)」を読みたいが、藤は、それを書かない。そこに藤の「哲学」があるのかもしれないが、私は、こういう作品を寂しく感じてしまう。「統一」を破っていくのが詩ではないのか、と思ってしまう。
 ことばを、もっとことばにまかせてしまえばいいのに、と思う。

 「早い朝」の一連目。

ことばのすみずみに風が通ってきもちいい
みんな平原まで行くと川や木や
みなれた風景を奪うのはわたしだ
旺盛に時をむさぼりさよならは遠い
なんのまねなのかしらないが
ふと鳥もはるかの高みまで疾走するだろう
ここまで生きて生かされて
あるいは絶望を知ることなく
夢はつづいていく
しあわせの痕跡の夢は残り闇の流れはつづいていく

 二行目が、私は好きだ。
 この詩の「主役(主語)」は何か、誰か。「わたし」ということばが出てくるが、私は違うものを考えたい。

みんな平原まで行くと川や木や

 この行のなかにある「行く」という「動詞」を手がかりに、私は「川」や「木」を「主語」として読んでしまう。川や木が集まってくる。「約束の場所」へ行く。そうすると、そこに「平原」があらわれる。「わたし」は平原にやってきたからこそ、川や木もやってきたのだと感じる。「やってくる」と「行く」は到達点と出発点のどちらから「動詞」を動かすかによってかわるが、結果は同じである。
 この「ベクトル」は違うのに、「同じ世界」がそこにあらわれるというのは、

ここまで生きて生かされて

 という行にもあらわされていると思う。これはさらに「夢は残り闇の流れはつづいていく」という形で言いなおされる。
 でも、これではやはり「完結(完成)」しすぎてしまうかも。破綻がなさ過ぎる。

 抽象は反芻されることで強靱になり、具体へ近づくのか、というようなことをふと思う。抽象の強固な結びつき、その透明さが、藤の「哲学の理想」なのだろう。




*


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