安倍の情報操作(選挙報道の仕組み)
自民党憲法改正草案を読む/番外128(情報の読み方)
2017年10月18日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面。
「まっとう」「国難」当てこすり/衆院選で各党 フレーズ逆手 批判合戦
という見出しで、最近の「街頭演説」が紹介されている。各党のキャッチフレーズを、他党が逆手にとって批判合戦をしている。そのことを紹介している。政策についての具体的な言及のない記事である。こういう記事にも「選挙報道のルール」が反映されている。
選挙報道をするときには、主張(政策)の紹介は、個人の候補者なら「届け出順」、政党の場合は現有勢力順(衆院選は直前の勢力順)。恣意的な順序ではない、ということで「公平」の「証明」にしている。
しかし、これが、意外な罠である。順序にはルールがあるが、適用の仕方は厳密ではない。
読売新聞の記事の場合、
(1)立憲民主党の「まっとうな政治」を安倍、公明の山口がどう批判しているか
(2)希望の党の「日本に希望を」を公明の山口、共産の小池がどう批判しているか
(3)安倍の解散時の「国難突破解散」を、希望の小池、共産の志井がどう批判しているか
という順序で紹介される。安倍の主張が真っ先にあり、公明がつづき、という具合。批判する方を主体にして「勢力順」を適用している。まず、安倍は「働きたい人が働けるのが『まっとう』な社会だ」と言い、山口は「民主党政権がまっとうなことができず(東日本大震災のとき)被災地が困った」と追い打ちをかけている。
あらゆる「比較」は最初に書かれていることが「基準」になる。その紹介が「上下」に配置されて紹介されると、「上」に書かれていることが「まっとう」と思われがちである。あとに言った方は、よほどのことがない限り、言われたから言い返しているという印象になる。
安倍がきちんと批判したのに、それにこたえられずに、他党が「減らず口」で反論しているという印象になってしまう。一種の「印象操作」が無意識のうちにおこなわれてしまう。
紹介の順序を、違う形でしてみると、印象はがらりとかわる。
各党がどういう主張をしてきたか、それを時系列順に並べ替えると、こうなる。
(1)安倍が「国難突破解散」と銘打って、解散を強行した。これを他党がどう批判しているか。
(2)小池が「希望の党」を立ち上げ「日本に希望を」と言った。そのとき民進党の一部議員を排除した。このことについて、他党がどう言っているか。
(3)希望から排除された枝野が「立憲民主党」を立ち上げ、「まっとうな政治」と言った。そのとき「まっとうな政治」ということばには安倍政権への批判がこめられていた。これに対して、安倍はどうこたえるか。
時系列順は、解散を強行したのが安倍であるために、主張はおのずと「勢力順」に一致する。その順序に合わせて批判を並べなおすとどうなるか。野党から批判攻めにあい、反論にこまった安倍が必死になって「当てこすり」を言っているという印象に変わる。公明の山口も訴える政策がないので、過去の民主党を批判しているにすぎないという印象になる。
「キャッチフレーズ発表」の時系列順にしなかったのは、安倍のあせりを隠すためである。安倍の批判を真っ先に紹介することで、安倍の主張が「正しい」という印象を引き起こしたかったからである。「選挙報道ルール」を恣意的に利用し、安倍の援護をしているのである。
こういう記事を書くのなら、「政策論争」を避け、大衆受けする「当てこすり批判」をはじめたのは誰なのか。なんのために、当てこすりをするのか。なぜ、当てこすりではなく、政策そのものを分析し、批判しないのかということが、問題点として浮かび上がるはずである。
それは、自ずと各党の政策吟味につながる。
安倍の言っている「働きたい人が働ける」ということが、安倍のもとで実現されているかどうか、「検証」する必要がある。検証抜きに安倍が言い放したことをそのまま報道したのでは、安倍のことばが「正しい批判」という印象をあたえてしまう。
安倍は失業率の改善(求人倍率の改善)を根拠に「働きたい人が働ける社会」と言っているのだが、非正規社員がいくら増えても「働きたい人が働ける社会」とは言えないだろう。非正規雇用の社員は「働きたいところで働いている」という実感がない。給料に満足しているわけでもない。
公明・山口の主張も、それでは自民・公明政権になってから、東日本大震災の被災地の「困ったこと」は解消したのか、それが問われなければならない。経験したことのない大惨事で民主党が混乱したのはたしかだろうが、それを引き継いだ自民・公明の対策で、たとえば東京電力福島第一原発の事故は処理が終わったか。終わっていない。未解決のままである。誰がやっても「未解決」のままだろう。それなのに、民主党は何もできなかったなどと言ってもはじまらない。そんなことをいうのなら、いつまでに解決するか、そのスケジュールをきちんと示したらいいだろう。
こんな「当てこすり一覧表」を紹介するスペースがあるのなら、それぞれの党の政策の対比、それぞれにどんな利点と問題点があるのか、それを新聞社独自の視点で分析、解説する方がいいだろう。それが安倍ベッタリであったとしても、きちんと解説すべきである。
昨年夏の参院選では、公示後の「党首討論会」は一回しか開かれていない。今回も一回しか開かれていない。自民党が「党首討論会」を避け、逃げている。「政策」を語らないようにしている。
討論会になれば、「宣伝」だけではすまない。他党からの批判にこたえないといけない。問題点が明るみに出てしまう。それを避けるために「討論会」を拒否している。(国会で、加計学園をめぐっての「証人喚問」をおこなわないのと同じである。)
批判封じが、「選挙報道の公正ルール」を逆手にとっておこなわれている。
民主主義とは「討論」が基本である。言論機関が、「討論(言論)」を活性化できないとしたら、言論機関としての仕事をしていないということにならないか。より多くの判断材料を提供するのが言論機関の仕事であって、上辺の現象で、今起きていることの「真相/深層」を隠すのは、言論の自殺行為に思える。
#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
自民党憲法改正草案を読む/番外128(情報の読み方)
2017年10月18日の読売新聞夕刊(西部版・4版)の1面。
「まっとう」「国難」当てこすり/衆院選で各党 フレーズ逆手 批判合戦
という見出しで、最近の「街頭演説」が紹介されている。各党のキャッチフレーズを、他党が逆手にとって批判合戦をしている。そのことを紹介している。政策についての具体的な言及のない記事である。こういう記事にも「選挙報道のルール」が反映されている。
選挙報道をするときには、主張(政策)の紹介は、個人の候補者なら「届け出順」、政党の場合は現有勢力順(衆院選は直前の勢力順)。恣意的な順序ではない、ということで「公平」の「証明」にしている。
しかし、これが、意外な罠である。順序にはルールがあるが、適用の仕方は厳密ではない。
読売新聞の記事の場合、
(1)立憲民主党の「まっとうな政治」を安倍、公明の山口がどう批判しているか
(2)希望の党の「日本に希望を」を公明の山口、共産の小池がどう批判しているか
(3)安倍の解散時の「国難突破解散」を、希望の小池、共産の志井がどう批判しているか
という順序で紹介される。安倍の主張が真っ先にあり、公明がつづき、という具合。批判する方を主体にして「勢力順」を適用している。まず、安倍は「働きたい人が働けるのが『まっとう』な社会だ」と言い、山口は「民主党政権がまっとうなことができず(東日本大震災のとき)被災地が困った」と追い打ちをかけている。
あらゆる「比較」は最初に書かれていることが「基準」になる。その紹介が「上下」に配置されて紹介されると、「上」に書かれていることが「まっとう」と思われがちである。あとに言った方は、よほどのことがない限り、言われたから言い返しているという印象になる。
安倍がきちんと批判したのに、それにこたえられずに、他党が「減らず口」で反論しているという印象になってしまう。一種の「印象操作」が無意識のうちにおこなわれてしまう。
紹介の順序を、違う形でしてみると、印象はがらりとかわる。
各党がどういう主張をしてきたか、それを時系列順に並べ替えると、こうなる。
(1)安倍が「国難突破解散」と銘打って、解散を強行した。これを他党がどう批判しているか。
(2)小池が「希望の党」を立ち上げ「日本に希望を」と言った。そのとき民進党の一部議員を排除した。このことについて、他党がどう言っているか。
(3)希望から排除された枝野が「立憲民主党」を立ち上げ、「まっとうな政治」と言った。そのとき「まっとうな政治」ということばには安倍政権への批判がこめられていた。これに対して、安倍はどうこたえるか。
時系列順は、解散を強行したのが安倍であるために、主張はおのずと「勢力順」に一致する。その順序に合わせて批判を並べなおすとどうなるか。野党から批判攻めにあい、反論にこまった安倍が必死になって「当てこすり」を言っているという印象に変わる。公明の山口も訴える政策がないので、過去の民主党を批判しているにすぎないという印象になる。
「キャッチフレーズ発表」の時系列順にしなかったのは、安倍のあせりを隠すためである。安倍の批判を真っ先に紹介することで、安倍の主張が「正しい」という印象を引き起こしたかったからである。「選挙報道ルール」を恣意的に利用し、安倍の援護をしているのである。
こういう記事を書くのなら、「政策論争」を避け、大衆受けする「当てこすり批判」をはじめたのは誰なのか。なんのために、当てこすりをするのか。なぜ、当てこすりではなく、政策そのものを分析し、批判しないのかということが、問題点として浮かび上がるはずである。
それは、自ずと各党の政策吟味につながる。
安倍の言っている「働きたい人が働ける」ということが、安倍のもとで実現されているかどうか、「検証」する必要がある。検証抜きに安倍が言い放したことをそのまま報道したのでは、安倍のことばが「正しい批判」という印象をあたえてしまう。
安倍は失業率の改善(求人倍率の改善)を根拠に「働きたい人が働ける社会」と言っているのだが、非正規社員がいくら増えても「働きたい人が働ける社会」とは言えないだろう。非正規雇用の社員は「働きたいところで働いている」という実感がない。給料に満足しているわけでもない。
公明・山口の主張も、それでは自民・公明政権になってから、東日本大震災の被災地の「困ったこと」は解消したのか、それが問われなければならない。経験したことのない大惨事で民主党が混乱したのはたしかだろうが、それを引き継いだ自民・公明の対策で、たとえば東京電力福島第一原発の事故は処理が終わったか。終わっていない。未解決のままである。誰がやっても「未解決」のままだろう。それなのに、民主党は何もできなかったなどと言ってもはじまらない。そんなことをいうのなら、いつまでに解決するか、そのスケジュールをきちんと示したらいいだろう。
こんな「当てこすり一覧表」を紹介するスペースがあるのなら、それぞれの党の政策の対比、それぞれにどんな利点と問題点があるのか、それを新聞社独自の視点で分析、解説する方がいいだろう。それが安倍ベッタリであったとしても、きちんと解説すべきである。
昨年夏の参院選では、公示後の「党首討論会」は一回しか開かれていない。今回も一回しか開かれていない。自民党が「党首討論会」を避け、逃げている。「政策」を語らないようにしている。
討論会になれば、「宣伝」だけではすまない。他党からの批判にこたえないといけない。問題点が明るみに出てしまう。それを避けるために「討論会」を拒否している。(国会で、加計学園をめぐっての「証人喚問」をおこなわないのと同じである。)
批判封じが、「選挙報道の公正ルール」を逆手にとっておこなわれている。
民主主義とは「討論」が基本である。言論機関が、「討論(言論)」を活性化できないとしたら、言論機関としての仕事をしていないということにならないか。より多くの判断材料を提供するのが言論機関の仕事であって、上辺の現象で、今起きていることの「真相/深層」を隠すのは、言論の自殺行為に思える。
#安倍が国難 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇生前退位
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載 | |
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