金井雄二「樹を植えて」(「独合点」130 、2017年10月10日発行)
金井雄二「樹を植えて」は「呪文」のようなことばで始まる。
書き出しの「ひとり死んだら樹を植える」の主語は「ぼく」だろう。二連目の「必ずそうするよと/ぼくは言う」がそう感じさせる。
でも二行目の「ふたり死んだら実をつける」の主語は? 「ぼく」かな? 違うなあ。「樹」だろうなあ。ひとり(目)が死んだときに植えた樹が、ふたり(目)が死ぬころには実をつける。つまり、一行目と二行目のあいだには「時間」がある。
そうすると三行目は? 「さんにん死んだら花供える」の主語は? さんにん(目)が死ぬころには、もう樹は枯れてなくなってしまっていて(つまり長い時間が経っていて)、樹を思いながら(樹の生きた時間を思いながら)、花を供えるということかな?
主語は「ぼく」かもしれないし、だれか他人かもしれない。
一行目と二行目で主語がかわったのだから、三行目もかわると考えた方がいいだろう。
よくわからないのだが、「数え歌」のような、「呪文」のようなことばが非常に印象に残る。「死んだら」という直接的なことばが、強く響いてくる。そこに書かれていることから離れられない近さを感じさせる。
そして、二連目の最後、
この「亡くなっている」は「死んだら」と比べると、妙に、遠い。「親近感」がない。「客観的」といえばいいのかなあ。
「風景」だから「対象化」できるのか。
「死んだら」と比較すると、へんに、美しい。「現実」というより、空想に近い。「現実」なのに「空想」のようにも見える。
ということを考えてたら。
「いつしか」は「いつか」にかわり、「ぼくは空になる」。この「空になる」は「亡くなっている」とつながって、「死」の比喩として動いている。
「いつしか」「いつか」「いかつい」という音の動きが、「意味」というよりも、何か「声」のゆらぎとして「ひとつ」になる。「意味」を超える何かになっている。
最終連は、こうなっている。
「よにん」ではなく「ぼく」があらわれて、「樹を植えて」の主語は、書かれていないが、またかわってしまう。
誰かに、「ぼく」はこうやって生きてきた。だから、「ぼくが死んだら」おなじように、そうしてほしい。そうやって「時間」をつなげていってほしい、という具合に「読む」ことができる。
でも。
私は、こんなふうに「誤読」もしてみる。あえて、読み替えてみる。
「樹を植えて」というのは、誰かに対する「依頼」ではなく、「ぼく」自身のことと読んでみる。最終行を、倒置法のことばとして読み直す。「樹を植えて/ぼくが死んだら」読みたくなるのである。
樹を植えた「ぼく」が「ひとり(目)」の死者である。それから何年か経ち、「ぼく」と「樹」の関係を知っている「ふたり(目)」が死ぬ。「ふたり(目)」は、ああ、この樹の実は、「ぼく(金井)」が植えた樹の実だ、というようなことを思いながら死ぬ。
そういうことを「知っている」か「知らない」か、わからないが「さんにん(目)」が死ぬ。そのときは、樹はもう実をつけないかもしれない。だから、そのときは誰かが「花を供える」だろう。
でも「花を供える」よりも、「ぼく」は「樹を植える」ということがつづいていってほしいと思う。
だから「樹を植えて/ぼくは死ぬ(死ぬ準備をする)」。
そうすると、その「樹」は、金井が最初に書いている「呪文」あるいは「数え歌」のように、誰かに引き継がれていく。この歌を引き継ぐためにも、金井は樹を植えて死ぬ、と読むのである。
そう「誤読」したから何がかわるのか、どう「意味」が違ってくるのか。
こういうことは、よくわからない。
私は、わからないまま、そういうことをする。そう読むと、ここに書かれていることが円環のように、ぐるぐるまわる。永遠につづいていく。「おわらない」ままの方がいいなあ、と思う。
金井のことばには、何か、それで「おしまい」というのではなく、ずーっとつづいてきているものを「呼吸」している声がするからかもしれない。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
金井雄二「樹を植えて」は「呪文」のようなことばで始まる。
ひとり死んだら樹を植える
ふたり死んだら実をつける
さんにん死んだら花供える
必ずそうするよと
ぼくは言う
土を掘って
空を見上げると
鰯雲がおおいかぶさって
夏の空はいつしか亡くなっている
書き出しの「ひとり死んだら樹を植える」の主語は「ぼく」だろう。二連目の「必ずそうするよと/ぼくは言う」がそう感じさせる。
でも二行目の「ふたり死んだら実をつける」の主語は? 「ぼく」かな? 違うなあ。「樹」だろうなあ。ひとり(目)が死んだときに植えた樹が、ふたり(目)が死ぬころには実をつける。つまり、一行目と二行目のあいだには「時間」がある。
そうすると三行目は? 「さんにん死んだら花供える」の主語は? さんにん(目)が死ぬころには、もう樹は枯れてなくなってしまっていて(つまり長い時間が経っていて)、樹を思いながら(樹の生きた時間を思いながら)、花を供えるということかな?
主語は「ぼく」かもしれないし、だれか他人かもしれない。
一行目と二行目で主語がかわったのだから、三行目もかわると考えた方がいいだろう。
よくわからないのだが、「数え歌」のような、「呪文」のようなことばが非常に印象に残る。「死んだら」という直接的なことばが、強く響いてくる。そこに書かれていることから離れられない近さを感じさせる。
そして、二連目の最後、
夏の空はいつしか亡くなっている
この「亡くなっている」は「死んだら」と比べると、妙に、遠い。「親近感」がない。「客観的」といえばいいのかなあ。
「風景」だから「対象化」できるのか。
「死んだら」と比較すると、へんに、美しい。「現実」というより、空想に近い。「現実」なのに「空想」のようにも見える。
ということを考えてたら。
きっといつか
ぼくも空になる
それは夏よりも
冬がいい
いかつい冬がいいんだな
「いつしか」は「いつか」にかわり、「ぼくは空になる」。この「空になる」は「亡くなっている」とつながって、「死」の比喩として動いている。
「いつしか」「いつか」「いかつい」という音の動きが、「意味」というよりも、何か「声」のゆらぎとして「ひとつ」になる。「意味」を超える何かになっている。
最終連は、こうなっている。
ひとり死んだら樹を植える
ふたり死んだら実をつける
さんにん死んだら花供える
ぼくが死んだら樹を植えて
「よにん」ではなく「ぼく」があらわれて、「樹を植えて」の主語は、書かれていないが、またかわってしまう。
誰かに、「ぼく」はこうやって生きてきた。だから、「ぼくが死んだら」おなじように、そうしてほしい。そうやって「時間」をつなげていってほしい、という具合に「読む」ことができる。
でも。
私は、こんなふうに「誤読」もしてみる。あえて、読み替えてみる。
「樹を植えて」というのは、誰かに対する「依頼」ではなく、「ぼく」自身のことと読んでみる。最終行を、倒置法のことばとして読み直す。「樹を植えて/ぼくが死んだら」読みたくなるのである。
樹を植えた「ぼく」が「ひとり(目)」の死者である。それから何年か経ち、「ぼく」と「樹」の関係を知っている「ふたり(目)」が死ぬ。「ふたり(目)」は、ああ、この樹の実は、「ぼく(金井)」が植えた樹の実だ、というようなことを思いながら死ぬ。
そういうことを「知っている」か「知らない」か、わからないが「さんにん(目)」が死ぬ。そのときは、樹はもう実をつけないかもしれない。だから、そのときは誰かが「花を供える」だろう。
でも「花を供える」よりも、「ぼく」は「樹を植える」ということがつづいていってほしいと思う。
だから「樹を植えて/ぼくは死ぬ(死ぬ準備をする)」。
そうすると、その「樹」は、金井が最初に書いている「呪文」あるいは「数え歌」のように、誰かに引き継がれていく。この歌を引き継ぐためにも、金井は樹を植えて死ぬ、と読むのである。
そう「誤読」したから何がかわるのか、どう「意味」が違ってくるのか。
こういうことは、よくわからない。
私は、わからないまま、そういうことをする。そう読むと、ここに書かれていることが円環のように、ぐるぐるまわる。永遠につづいていく。「おわらない」ままの方がいいなあ、と思う。
金井のことばには、何か、それで「おしまい」というのではなく、ずーっとつづいてきているものを「呼吸」している声がするからかもしれない。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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