詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ドゥニ・ビルヌーブ監督「ブレードランナー2049」(★)

2017-10-31 09:29:41 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード

 予告編を見たときから「どうしようもなさ」を感じていたが、本編を見てほんとうにがっかりした。
 「ブレードランナー」がつくられたとき、日本は景気がよかった。簡単に言うと輝いていた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の勢いで世界を征服しそうだった。だから「未来都市」がアジアのごった煮で、環境破壊の影響で雨が降り続いているというのは、なんというか「不気味な未来」だった。
 いまの日本を反映させろ、というのではない。
 あれから時間が経っているなら、その「不気味な未来」はさらに不気味になって、観客をわくわくさせないといけないのに、まるでいまの日本を象徴するみたいに汚れきっている。
 あ、日本が舞台ではなく、カリフォルニアが舞台か。
 それならなおのこそ、「未来の未来」は想像を裏切る形で不気味になっていないといけないのに。
 街の看板にあらわれる「SONY」はスポンサーだから、それはそれでいいとして。
 あの、フォノグラム(?)の女はなんだ。
 35年前はまだ「PLAYBOY」の時代だった。インターネットだって、接続したら必ず見るサイトというのが「PLAYBOY」だったその時代なら、まだ街角の巨大な女性のフォノグラムは「未来の現実」だった。
 でも、いまは違うねえ。
 女の描き方(人間の描き方)がすっかり違ってきているのに、映画では昔のまま。これでは「未来」へ時間が進んだというよりも「逆戻り」した感じ。「逆戻り」して、それが妙になつかしい(肉体の記憶を刺戟する)というのならいいけれど、こんな映像なつかしくもなんともないね。
 うさんくさい、というのとも違う。
 見ていて「肉体」を刺戟してくるものがない。
 主人公の「お相手」の普通サイズのフォノグラムの女が、現実の女とシンクロしてセックスをするというのは、「設定」としておもしろいけれど、やっぱり古くさい。「未来社会」でも女は男の気を引こうとしている。女は男のセックスを満足させるために奉仕する、というのがげんなりする原因だなあ。
 欲望のかたちが古くさいままで、「未来」とは縁遠いのだ。
 主人公を女にしてしまえばよかったのだ。シャリーズ・セロンの「アトミック・ブロンド」みたいに。
 どっちにしろ、アンドロイド。男の肉体とかわらないしアクションをしても不思議はないし、「頭脳」だってAIなんだから男女差はない。優劣はない。それに女の方が、「妊娠する」ということを通して、新作に描かれることと深く関係してくる。「妊娠させる→子供が生まれる」という視点ではなく、「妊娠する→子供を産む」という視点で見ると、違ったものが見えてくるはずである。アンドロイドが「肉体」として迫ってくる。
 全体が古くさい男の視点をひきずったままなのが、この映画の大失敗の原因である。「子供を産む、子供が生まれる」という驚きではなく、「物を作りだす」という視点のまま全体が動いている。「物を作りだす」というのを「物を産み出す」ともいうけれど、女の感覚では「子供を産み出す」とは言わないだろう。その違いを、女が主人公なら、もっと繊細に描き出せたはずである。あるいはもっと生々しく描き出すことができたはずである。
 古くさい男の視点をひきずっているから、「論理のクライマックス」である「自分が秘密の子供」かもしれないという謎解きが「感傷」に終わってしまう。まるで少女マンガみたいというと、少女マンガファンに怒られるだろうけれど。主人公が女なら、自分で釘の世代の母親になるという「世界創造」が可能になる。つまり、「物語」が「抒情詩」ではなく「神話」にまで高めることができる。

 あ、謎解き、抒情と書いて、急に思い出したが、この映画にはナボコフが「引用」されているらしい。(クレジットにナボコフの文字が出てきた。)「本」が出てきて、そこにナボコフの文字があった。赤い表紙の本。タイトルはよく見えなかったが「ロリータ」か。ナボコフというと「青白い炎」を思い出すが、あの一篇の詩を他人が註釈するという方法からこの映画を見直すと、まあ、主人公が前作を註釈しながら別の世界へ入っていく(自分自身の世界へ入っていく)という構造を持っていると見ることもできるのだけれど。
 そんなふうに見たって、やっぱり古くさい。
 「未来の荒廃」が古くさいし、そこに描かれる女がなんとも古くさい。女が古くさいということは、男の方はもっと「どうしようもない」くらい古くさいということ。
 映画のなかで、男の物の見方はどう変わったか、男の視点は映画をどう変えたか、変えなかったかという「資料」にはなっても、払ってみるに値する作品とはとても言えない。
(tjoy博多、スクリーン6、2017年10月29日)


 *

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国会の与野党質問時間(安倍の沈黙作戦)

2017-10-31 07:44:04 | 自民党憲法改正草案を読む
国会の与野党質問時間(安倍の沈黙作戦)
            自民党憲法改正草案を読む/番外138(情報の読み方)

 2017年10月31日の読売新聞(西部版・14版)の4面の見出し。

質問時間 見直しで工房/与党「議席数に応じて」/野党は徹底抗戦「暴論」

 国会での与野党の質問時間の配分をめぐって与野党が対立している。

 質問時間の配分を巡っては、自民党の萩生田光一幹事長代行や森山裕国会対策委員長が27日、見直しを求める考えを表明し、同党の若手議員も同日、森山氏に与党の持ち時間を増やすよう申し入れた。菅官房長官は30日の記者会見で、こうした動きについて、「国民からすればもっともな意見だ」と述べ、同調する考えを強調した。

 選挙報道は、昨年夏の参院選から大きく変わった。籾井NHKが、それこそ「議席数」にあわせて放送時間を配分した。個別の候補演説ではそういうことはできないが、党首の街頭演説では、自民党に長く、野党に短くという配分だった。この結果、与党の言い分は十分に紹介されたが、議席の少ない野党の主張はほとんど紹介されなかった。これは自民党の大勝利につながった。少数政党の主張は、それが国民にとって重要なものであるかどうか、吟味するだけの材料が与えられなかった。ひとは「情報量」にひきずられるものである。
 これを国会でもやろうとしている。共産党の小池が指摘しているように、政府提出の法案、予算案は与党が事前審査している。つまり与党内では十分に審査されたあと、国会に提出されている。その与党がついやした「時間」を除外して、国会での審議時間を議席の数に合わせて配意するというのは、野党の質問潰しである。
 私はこれを「安倍の沈黙作戦」と呼んでいる。参院選後、籾井NHKを利用して「天皇生前退位」をスクープさせ、さらに天皇を引っぱりだして「天皇は国政に関する権能を持たない」と言わせることで、沈黙させたが、今度は野党を沈黙させるために根回ししている。
 もし国会での審議時間を短縮するなら、与党の事前審査段階で、野党にも審議に参加させるべきである。そこに野党が参加していないから、国会で野党が質問する。この質問を封じることは、民主主義の否定であり、独裁の強化である。
 こういうことは、すでに小池をはじめ、多くの野党が言っている。だから繰り返さない。
 私が問題にしたいのは、

菅官房長官は30日の記者会見で、こうした動きについて、「国民からすればもっともな意見だ」と述べ、同調する考えを強調した。

 この部分である。「国民からすればもっともな意見だ」というが、自民党は「国会での質問時間を議席数にあわせて配分する」ということを「公約」のなかに盛り込み、それを国民に訴えてきたのか。もし公約のなかに盛り込み、積極的にそのことを訴え、その結果として自民党が大勝したのなら、そういうことは可能である。
 しかし、そういう主張を一切せず、大勝したあとで、「自分たちの考え方は国民に支持されている」というのは論理にならない。国民は、今回の主張を事前に聞いていない。(どこかに書いてあるかもしれないが、だれもそのことを知らない。)
 安倍のやっているのは、いつもこれである。
 憲法改正について「公約」のすみっこに書いておく。どう改正するのか質問すると、まだ文言が固まっていないのでこたえるわけにはいかないと言い、選挙で大勝すると自民党の改正案、あるいは安倍の案が支持された主張する。(安倍の主張はすでに読売新聞のインタビューで明らかにしている、と言う。)
 国会で、国民の代表である野党議員の質問は受け付けず、すでに意見調整のついている与党の質問を主体に審議するというのでは、審議にならない。

 配分見直しについては、自民党内にも「政府を『ヨイショ』するだけの質問だったら必要ない」(閣僚経験者)との声がある。

 読売新聞は、末尾にそう書いている。
 安倍は、これを利用して、「質問は無駄な時間。採決すれば可決されるのはわかっているのだから、質問などやめよう」と言い出すだろう。
 質問は、政府提出の法案、予算案にどんな問題点があるか明らかにするためにある。問題点があるなら、それを改良するためにある。質問をとおして、国民の理解を深めるという意義もある。
 国民は、すべてのことを自民党にまかせたわけではない。どんなときでも「一任します」といったものの、「それでは困る」と意義をとなえるひとが出てくるのが「現実」である。(先の希望の党と前原・民進党の統合でも、それが起きた。)ましてや、自民党にはまかせられないという国民が一定の数(十分な数)だけいる。「議席数」には反映されなかった国民の数も多い。自民党を支持している人間だけが「国民」なのではない。

 各種の世論調査では、森友・加計学園問題では、安倍の説明が不十分である、説明が十分にされているとは思わないという国民が過半数を超えている。国民からすれば、安倍の友人であるということだけで優遇されるのは「もっともなことである」とはならない。だれも「もっともなことである」とは言っていない。
 管は、なぜ、そういう国民の声に対して「もっともな意見である」と同調しないのか。管は国民の声など聞いていない。安倍の声しか聞いていな。安倍にとって都合のいい声だけを集めてきて「国民の声」だと言い換えている。
 


                         


#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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