『東北おんば訳 石川啄木のうた』(新井高子編著)(未來社、2017年09月29日発行)
東北のおばあさん、おばさんが、石川啄木の歌を東北弁で歌いなおした歌である。だれが歌いなおしたのか、「固有名詞」がない。「固有名詞」をつきぬけて、その土地に生きているひとそのものにつながる。「暮らし」が見えてくる。
新井は、こう書いている。
「東海の小島」が「三陸海岸」にかわる。変えてしまう。これが、「声」の力だろう。
で。
こういう「声」で歌を聞き直してみる(私は読むだけなのだが)、歌の「よしあし」が大きく変わる。私の「好きな歌」と「嫌いな歌」がくっきり分かれて見えてくる。私は「声」が聞こえてくる歌が好きだ。
逆に言うと「声」ではなく、別なものが聞こえる歌が嫌いだ。
「よしあし」を「声」が聞こえるか、聞こえないかで判断していることに気づく。
これは「声」になっていないなあ。こんなこことを「声」では言わないだろうなあ、と感じる。言い換えると「作為」のある歌だ。
「百(しゃぐ)ばり」(百あまり=啄木)が落ち着かない。私は、こういう「区切り」のいい数を、感情をあらわす「声」として聞いた記憶がない。だから「作為」を感じる。
啄木はもともと「作為」の強いひとかもしれないが。
でも、「作為」だけでは、ひとのこころにははいっていかないだろう。
も、「作為」が強い。こういう数字の「客観化」は、「頭」がすることであって、「肉体」がすることではない。だから「声」が乗らない。
「声」は「数字」が苦手だ。特に大きな数字が苦手だ。「九百九十九」は「頭」ではとてもよく理解できる数字だが、「肉体(声)」にするには無理(めんどう)がある。
「数字」が出てくる、あの有名な歌はどうだろうか。
「三歩」は「三足」か。
東北弁で、日常的にそう言うのかどうかわからないが、「三足(みあし)」と「足」が出てくることで、ぐっと「肉体」が迫ってくる。
「三歩」では、歩く実感ではなく、「客観的」になりすぎる。
「客観化」することで、「そのあまり軽きに泣きて」の「感情」をすこし突き放し、逆に「感情」が見えてくるということがあるかもしれないが。
けれど「三足」と言いなおされてみると、「実感」が自分自身の「肉体」のなかにとどまる感じがして、これは、とってもいい、と思うのだ。
こういうことは、ひとに言うことではない。自分で感じて、ただ泣けばいい。それが、あるとき、ふっと口から出てきてしまったという感じが「三足」にはある。「三歩」では、何か、「感動しろ」と言っているような感じがしないでもない。
「三歩」には「歩く」という「動詞」があるが、「あゆまず」があるのだから、ここはやっぱり「足」が「主語」の方が実感だなあ、と教えられた感じ。
「おんば訳」はすごいぞ。
啄木を超えている。
これは、やはり「肉体」の感じがいい。「ほじくる」が「動詞」として、強いなあ。「まさぐる=啄木」では、気取っているかもしれない。「ほじくる」は「鼻くそをほじくる」のように、ちょっと汚くて、いやらしいところがいい。「臍をほじくる」というよりも「臍のごまをほじくる」であり、「ほじくる」は「女性性器をほじくる」にもつながっていく。「肉体」を「いじくる」ことはセックスなのである。
この「肉体感覚」は
を経て、
という感じにまでつづく。「日光=啄木」を「おっ日(しゃ)ま」と呼び、「あたたかさ=啄木」を「温(ぬぐ)さ」と言い換える。
そのあと、「息ふかく吸ふ」と啄木は言っているのだが、逆に「ほぉーっとしたぁ」と息を吐きだしている。「おんば訳」の方が、私には「肉体」として正直だと思う。「ことば」ではなく「声」が動いている。
「やがて静かに」を「さぁで、ゆっぐり」と言いなおした「おんば」と「息ふかく吸ふ」を「ほぉーっとしたぁ」といなおした「おんば」は同じひとかもしれないなあ。「声」が共通していると思った。この「声」の共通性は、「東北」という「地域」よりも、もっとひとりの「おんば」の肉体を貫いているように感じた。
は啄木の歌では見過ごしてしまいそうな歌だが、作為のなさが「おんば訳」で、とても自然な息になっている。「おんば訳」で、ああ、いい歌だったんだなあと、思い返した。
次の有名な歌には、とても微妙な「改変」がおこなわれている。
啄木は「そを聴きにゆく」と「訛」を「そ(れ)」と言いなおしている。語調をととのえるためという見方もあるだろうけれど、「そを」と言いなおすと「客観化」が始まる。「そを」がなくても「聴きにゆく」という複合動詞の強さは「目的語」を引き寄せ、「肉体」に含んでしまう。自分(肉体であるわが身)をかりたたている感じが、「客観化」を超える。「客観」なんて、どうでもいいのだ。「主観」が「肉体」として動くのだ。
「そを」を省略して「おんば訳」したひとの、ことばの正しさ(強さ)に引き込まれる。
単なる「翻訳」ではなく、「肉体(いのち)」をとりもどす実践になっているの一冊である。東日本大震災のあとで試みられた、その価値が手触りとしてつたわってくる。
東北のおばあさん、おばさんが、石川啄木の歌を東北弁で歌いなおした歌である。だれが歌いなおしたのか、「固有名詞」がない。「固有名詞」をつきぬけて、その土地に生きているひとそのものにつながる。「暮らし」が見えてくる。
東海(ひんがす)の小島(こずま)の磯(えそ)の砂(すか)っぱで
おらァ 泣(な)ぎざぐって
蟹(がに)と戯(ざ)れっこしたぁ
新井は、こう書いている。
「おんば訳」したとたん、三陸海岸の歌のようじゃありませんか。「砂(すか)っぱ」は、潮が引いて現われた砂浜のこと。「泣(な)ぎざぐって」は「泣きぬれて」より、もっとびしょ濡れか。
「東海の小島」が「三陸海岸」にかわる。変えてしまう。これが、「声」の力だろう。
で。
こういう「声」で歌を聞き直してみる(私は読むだけなのだが)、歌の「よしあし」が大きく変わる。私の「好きな歌」と「嫌いな歌」がくっきり分かれて見えてくる。私は「声」が聞こえてくる歌が好きだ。
逆に言うと「声」ではなく、別なものが聞こえる歌が嫌いだ。
「よしあし」を「声」が聞こえるか、聞こえないかで判断していることに気づく。
大(でァ)どいう字(じ) 百(しゃぐ)ばり
砂(すな)っこさ 書(け)ァでがら
死(し)ぬごど止(や)めで 帰(け)ァって来(き)た
これは「声」になっていないなあ。こんなこことを「声」では言わないだろうなあ、と感じる。言い換えると「作為」のある歌だ。
「百(しゃぐ)ばり」(百あまり=啄木)が落ち着かない。私は、こういう「区切り」のいい数を、感情をあらわす「声」として聞いた記憶がない。だから「作為」を感じる。
啄木はもともと「作為」の強いひとかもしれないが。
でも、「作為」だけでは、ひとのこころにははいっていかないだろう。
ごせぇやげる時(どき)ァ
まずひとっつ 鉢(はず)ぼっこして
九百九十九(きゅうしゃぐきゅうじゅうきゅう)ぼっこして 死ぬべがな
も、「作為」が強い。こういう数字の「客観化」は、「頭」がすることであって、「肉体」がすることではない。だから「声」が乗らない。
「声」は「数字」が苦手だ。特に大きな数字が苦手だ。「九百九十九」は「頭」ではとてもよく理解できる数字だが、「肉体(声)」にするには無理(めんどう)がある。
「数字」が出てくる、あの有名な歌はどうだろうか。
戯(おだ)ってで おっ母(かあ)おぶったっけァ
あんまり軽(かる)くて泣(な)げできて
三足(みあし)も歩(ある)げせんねァがったぁ
「三歩」は「三足」か。
東北弁で、日常的にそう言うのかどうかわからないが、「三足(みあし)」と「足」が出てくることで、ぐっと「肉体」が迫ってくる。
「三歩」では、歩く実感ではなく、「客観的」になりすぎる。
「客観化」することで、「そのあまり軽きに泣きて」の「感情」をすこし突き放し、逆に「感情」が見えてくるということがあるかもしれないが。
けれど「三足」と言いなおされてみると、「実感」が自分自身の「肉体」のなかにとどまる感じがして、これは、とってもいい、と思うのだ。
こういうことは、ひとに言うことではない。自分で感じて、ただ泣けばいい。それが、あるとき、ふっと口から出てきてしまったという感じが「三足」にはある。「三歩」では、何か、「感動しろ」と言っているような感じがしないでもない。
「三歩」には「歩く」という「動詞」があるが、「あゆまず」があるのだから、ここはやっぱり「足」が「主語」の方が実感だなあ、と教えられた感じ。
「おんば訳」はすごいぞ。
啄木を超えている。
ふっと おっかねァぐなって
ちょんとして
それがら 静(すず)がに臍(へそ)ぉほじくる
これは、やはり「肉体」の感じがいい。「ほじくる」が「動詞」として、強いなあ。「まさぐる=啄木」では、気取っているかもしれない。「ほじくる」は「鼻くそをほじくる」のように、ちょっと汚くて、いやらしいところがいい。「臍をほじくる」というよりも「臍のごまをほじくる」であり、「ほじくる」は「女性性器をほじくる」にもつながっていく。「肉体」を「いじくる」ことはセックスなのである。
この「肉体感覚」は
手(て)っこも足(あし)っこも
家(え)ん中(なが)いっぺァ広(ひろ)げで
さぁで、ゆっぐり起(お)ぎ向(む)ぐっかなぁ
を経て、
なんだかんだで 表(おもで)さ出はれば
おっ日(しゃ)まの 温(ぬぐ)さ あって
ほぉーっとしたぁ
という感じにまでつづく。「日光=啄木」を「おっ日(しゃ)ま」と呼び、「あたたかさ=啄木」を「温(ぬぐ)さ」と言い換える。
そのあと、「息ふかく吸ふ」と啄木は言っているのだが、逆に「ほぉーっとしたぁ」と息を吐きだしている。「おんば訳」の方が、私には「肉体」として正直だと思う。「ことば」ではなく「声」が動いている。
「やがて静かに」を「さぁで、ゆっぐり」と言いなおした「おんば」と「息ふかく吸ふ」を「ほぉーっとしたぁ」といなおした「おんば」は同じひとかもしれないなあ。「声」が共通していると思った。この「声」の共通性は、「東北」という「地域」よりも、もっとひとりの「おんば」の肉体を貫いているように感じた。
いづだったべぇ
小学校(そーがっこう)の屋根(やね)さ おら 投(な)げた鞠(まり)っこ
どこさいったべぇ
は啄木の歌では見過ごしてしまいそうな歌だが、作為のなさが「おんば訳」で、とても自然な息になっている。「おんば訳」で、ああ、いい歌だったんだなあと、思い返した。
次の有名な歌には、とても微妙な「改変」がおこなわれている。
ふるさどの訛(なまり)ァ 懐(なづ)がすなぁ
停車場(てーさば)の 人(ひど)だがりン中(なが)さ
聴(き)ぎさいくべぇ
啄木は「そを聴きにゆく」と「訛」を「そ(れ)」と言いなおしている。語調をととのえるためという見方もあるだろうけれど、「そを」と言いなおすと「客観化」が始まる。「そを」がなくても「聴きにゆく」という複合動詞の強さは「目的語」を引き寄せ、「肉体」に含んでしまう。自分(肉体であるわが身)をかりたたている感じが、「客観化」を超える。「客観」なんて、どうでもいいのだ。「主観」が「肉体」として動くのだ。
「そを」を省略して「おんば訳」したひとの、ことばの正しさ(強さ)に引き込まれる。
単なる「翻訳」ではなく、「肉体(いのち)」をとりもどす実践になっているの一冊である。東日本大震災のあとで試みられた、その価値が手触りとしてつたわってくる。
東北おんば訳 石川啄木のうた | |
クリエーター情報なし | |
未来社 |